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2019.08/21(WED)

戦死八人之墓 会津美里町字本屋敷周辺(新町西墓地)




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戦死八人之墓
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・佐藤政治  五石二人扶持、会所次番格/萱野隊/明治元年七月二十七日越後草生水で戦死/二十二歳
・小池弥久  六石二人扶持/朱雀足軽二番桜井隊/明治元年七月二十九日岩代二本松で戦死/三十六歳
・小川勇之助 四石二人扶持/別楯隊寄合萱野右兵衛隊/明治元年八月一日越後草生水で戦死/十九歳
・山田重三  朱雀寄合三番鈴木隊/別撰組組頭樋口万吾付/明治元年八月二十九日若松長命寺で戦死/二十三歳
・湯田忠吾  六石二人扶持/朱雀寄合三番鈴木隊/別撰組組頭樋口万吾付/明治元年八月二十九日若松長命寺で戦死/二十一歳
・吉田善七  六石二人扶持、上荒井同心/工兵渡部貞之助隊/明治元年九月一日会津大内峠で戦死/三十七歳
・目黒常次郎 六石二人扶持、徒分/明治元年九月三日会津関山で戦死/十九歳
・深谷作三郎 六石二人扶持、瀬戸職/工兵渡部貞之助隊/戊辰役戦死/十九歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2019.08/21(WED)

野田進墓 会津高田(現会津美里町字文殊東甲周辺)




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従八位野田進翁之墓
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野田進
 天保14年(1843)出生。父は会津藩士野田善兵衛
 文久 2年(1862)藩主松平容保が京都守護職就任に従い上洛する
 ・戊辰戦争
 慶応 4年(1868)江戸で鳥羽伏見戦勃発を知り旧幕府伝習隊にフランス式の練兵を学ぶ。その後幕臣の古屋作左衛門が信州へ出ると聞き、古屋と行動を共にするが梁田戦争で大敗し会津へ戻る
          5月 1日 白河の戦いに参戦するが大敗
          5月10日 会義隊(一般徴募兵で編成)隊長を命じられる
         白河城奪還戦に参戦するが失敗
         以降、若松籠城戦では城外で奮戦する
 ・戊辰戦争後
         小学校の訓導、警察などに勤務
 明治25年(1892)伊佐須美神社主典
 明治30年(1897)伊佐須美神社禰宜
         没年不詳、墓は伊佐須美神社神葬墓地
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古屋作左衛門の追討(2017.01/21)
第九章 五月朔日の大激戦(2013.01/21)




2019.08/20(TUE)

武井柯亭墓 会津高田(現会津美里町字文殊東甲周辺)




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武井柯亭翁之墓 たけいかてい
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武井柯亭
 文政 6年(1823)出生。父は会津藩士武井完平/嘉永 6年(1853)房州沿岸警備の任に就く/安政 4年(1857)江戸勤番に就く/文久 2年(1862)会津に戻るが、同年藩主松平容保が京都守護職就任に従い上洛する
 慶応 4年(1868)戊辰戦争では進撃隊頭として新政府軍と戦う
         藩校・日新館の書学寮師範星研堂に書を学び、詩や音律(特に琴)にも秀でていた
 明治 7年(1874)息子庸が伊佐須美神社宮司に就任したため、高田村 (会津美里町) に移住
 明治28年(1895)死去/墓は伊佐須美神社神葬墓地
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伊佐須美神社(2013.08/15)




2019.08/19(MON)

三島開墾紀恩碑 那須塩原市三島(旧西那須野町)




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 三島開墾紀恩碑 きおんひ
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 三島開墾紀恩碑は、1880年(明治13年)に那須野が原開拓に着手した肇耕社(ちょうこうしゃ)の創設者三島通庸(みちつね)の偉業をたたえるために、移住者や関係者により1922年(大正11年)に建てられたものです。
 碑文は宮内省御用掛(ごようかかり)文学博士西村時彦によるものです。
 紀恩碑のあるこの地は、陸羽街道(旧国道 4号)と塩原街道(旧国道 400号)との交差する三島農場の中心でした。
--引用;「那須野が原西部田園空間博物館・サテライト案内」から--

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三島農場事務所跡(2017.04/09)
故正三位勲二等子爵三島通庸君紀恩碑(2014.04/22)




2019.07/18(THU)

なんじゃもんじゃ 栃木県那須塩原市一区町(旧西那須野町)




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なんじゃもんじゃ
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※ 裏手に在る大木がなんじゃもんじゃだと思っていたが、どうも違うようだ。町が指定していたものは枯れてしまったようだが、後継木は..?

 なんじゃもんじゃは、ハルニレの木で旧西那須野町の天然記念物に指定(推定樹齢1000年)されていたが、昭和55年(1980)に枯死してしまった
 「なんじゃもんじゃ」のいわれは、水戸光圀がこの木の下で休憩した折、地元の人に木の名を聞いたところ誰も知らなかった。それで「なんじゃもんじゃと名付けるとよい」と言われたことによるそうだ



この「なんじゃもんじゃ」脇を通るのが
旧日光北街道
 この道は、大田原と日光(約四十二キロメートル)を結ぶ旧街道で、寛永十三年(一六三六)に開かれたという。江戸時代の俳人松尾芭蕉が、奥羽へ行く途中通った道といわれている。
--現地の案内標柱から--

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