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2012.07/21(SAT)

会津西街道五十里宿




平成24年
・ 7月20日
 藤原の慈眼寺を見た帰り、五十里ダム管理支所に立ち寄って「わくわくダムダム資料室」を見てきた。五十里湖と五十里村の変遷を示した説明の掲示はあったが、ここはダムの資料室なので戊辰戦争に関係するものの展示や掲示が無かったのは当然か?
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--以下、現地展示説明資料から--
天和 3年(1683)
・ 9月 1日未明
 日光・南会津地方を大地震が襲った。マグニチュード7.3と推定されている。「御普請出来候石垣を残らず壊し、双輪塔も押し倒す」という激震であった。震央附近の葛老山が崩壊し、崩壊地点の上流で合流する男鹿川と湯西川がせき止められた。約150日間で周辺の西川村と五十里村が水没し、谷間に五十里湖という大湖水が形成されたのである。湖は決壊すれば下流域に大災害を引き起こす危険性が強く、当時この地域を支配していた会津藩にとって湖水の水抜きは必至の課題であった。掘削工事が行われたが大岩盤にさえぎられ失敗した。この絵図は五十里村の名主を代々勤めた赤羽家に伝来したもので、元禄元年(1688)頃の幕府代官や会津藩・宇都宮藩の役人立ち合いによる現地視察の際に描かれたものと推定される。その後、大地震から40年後の
享保 8年(1723)
・ 8月10日
 連日の暴風雨により湖水は一瞬にして決壊、鬼怒川の下流域は大洪水となった。この五十里洪水は下野国史上最大の自然災害といわれ、広範囲にわたって計り知れない災害をもたらした。

五十里宿_c0185705_10304216.jpg

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五十里宿_c0185705_10495361.jpg

・ 日光を一旦退いた旧幕府軍は六方越えを経て日向村(現栗山)から田島を目指すが、途中ここ五十里に宿した
--以下、「南柯紀行・大鳥圭介」の記述を引用--
慶応 4年(1868)
・閏 4月 3日
 三日早立和田某と一同日向村を出て危坂を越え河沼にて昼食す、此時三日目にて始(初)めて米飯を食したり、夫より河流を渡りて五十里駅に出たり、此駅は人家六七十軒もあり田島より日光への本往還なれば先ず格別の差支もなし、本陣に至りて萱野権兵衛に面会し日光表の形勢を委に談じ、何卒全軍を一度田島まで引揚げ其上にて再び出張したき旨を掛合い漸くに承知す、然らば兵隊の順次を定め宿割をなし三依越すものもあり、又当駅に止宿もあり余は此駅に泊して怪我人運送の人足兵粮支度の事を其掛の者へ命じたり。
 今晩は日向記の旅館に至り米田其他の士官と臥したり。
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--以下、「南柯紀行」から大鳥の行動と概略--
・閏 4月 4日 五十里を出て横川に至る
     5日 横川を出て三王峠、糸沢で山川大蔵に会い共に田島へ
     6日 -16日 田島にて軍再編
    17日 第三大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、田島を出て日光口に向け出立
    18日 第二大隊、横川泊
    20日 藤原着
    21日 高徳の貫義隊斥候、土州の斥候隊と小戦闘
    22日 小佐越村
    23日 小佐越村を出て大桑村へ。栗原村の先で戦闘
    24日 藤原にいる第二大隊も小佐越へ呼び寄せる
    25日 無事
    26日 今市で戦闘
    27日 -30日 無事
   5月 1日 高百村に出る
     2日 - 5日 瀬尾村前まで行って地形など見定む
     6日 夜、大桑村を出て今市で戦闘
     7日 無事
     8日 総軍を一旦大原、藤原へ引揚げ
    10日頃 敵人大桑、小佐越、小原を悉く焼払う
     8日 -15日 別段異事なし
    15日頃 若松に行く(山川大蔵と、滞留五六日)
    20日 藤原に戻る
   5月末 - 6月20日頃 格別の戦争なし
     *
・  6月24日
 六月二十四日、予山川大蔵に色々談話の事ありて五十里駅に至る、是大蔵此間より同駅に往き留りて帰らざるを以てなり、然る処翌二十五日午時頃にもありけるか藤原表より急飛脚急状を持来り、今暁より今市、船生の敵軍大原村の曠原に押寄せ先刻より戦争相始まり、只今大乱中に有之困却致候、此急状着次第直ちに帰陣致呉れとの義なり、大に驚き直ちに急駕を命じ帰らんとせしに、不幸なる哉此頃より霖雨にて五十川溢漲し渡るべからず、漸く川船にて漕ぎ渡り途中にて又急使に遇い、其書状を開き見るに大原戦争の模様宜しからずとの事なり、
(後略)
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--参考文献;現地展示説明資料/「南柯紀行」大鳥圭介--



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

2012.07/20(FRI)

藤原山慈眼寺 会津西街道藤原宿




平成24年(2012)
・ 7月20日
 藤原から鶏頂山が形良く見える所があって、その写真を撮りに行ったものの生憎の天気で見る事は出来なく、近くのお寺さんを覘いてみた
 このお寺さん、ボケ除け祈願もして貰える ^^;)
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慈眼寺本堂
藤原山慈眼寺_c0185705_10272110.jpg

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--以下、参道入口の案内板(一部)から--

日光市指定文化財

   木造十一面観世音菩薩立像
 種別・・有形文化財  総高・・一四一センチメートル  巾 ・・六〇センチメートル
 員数・・一体     像高・・一二一センチメートル  製作年代・・江戸時代初期

 この十一面観音は、金泥塗りの木造である。胸部と前衣の一部に欠損がみられるほか、前頭部の十面体にも若干の欠損がみられるが、全体として保存状態は良好である。
欠落欠損は、慶応四(一八六八)年の戊辰戦役の際に、藤原で行われた激戦によって受けた損傷であると思われる。
藤原を舞台にした戦いでは、会津軍が終始優勢にあった。しかし、白河方面では、会津軍は逆に苦戦を続けていた。この劣勢を挽回するために、藤原の軍が応援に向かうことになり、橋をこわし、人家を焼き払って引き上げた。この時会津軍の中野善六なる人物が、戦火の中からこの十一面観音を救い出したとの由来を、その子孫が昭和十五年頃当寺を訪ねて来て話したという。
観世音菩薩は、仏教における諸菩薩の中でも最も慈悲を表す仏である。最も現世利益のあらたかなものとして広く信仰されている。観世音菩薩は、根本総体として、千手・如意輪など多くの種類をとるが、十一面観音もそのひとつの形である。
     昭和四十五年五月十二日指定
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# by mo20933 | 2012-07-20 18:00 | >藤原
2012.07/19(THU)

大 山 門




平成24年(2012)
・ 7月19日
 通りすがりに写真を撮って来た
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 明治の元老であり後の陸軍大将、大山巌の次男大山柏(華族、陸軍軍人、考古学者、戊辰戦争研究家)が、ある旧家から譲り受け解体所有していたものであったが
昭和46年(1971)
・ 3月
 栃木県立那須拓陽高校の正門として配された
 四脚門(よつあしもん、しきゃくもん)と呼ばれるもので、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右に計4本が立ち、正門に配されることの多い格式の高い門とされる

 今日、学生の出入りする姿を見掛けたが、何かしら頼もしく見えたのは錯覚か

那須拓陽高校_c0185705_22211068.jpg


--参考文献;Wikipedia「大山柏」--




2012.07/16(MON) 

関谷宿御公儀御巡見




平成24年(2012)
・ 7月16日
 「塩原町誌」を見ていたところ、縁有る場所と縁有る人の所有する文書の記載があった。ごく地味なものであるが当時の人や暮しの様子が偲ばれるし、此処の街並みや地理も承知していてイメージし易い。記述内容をほぼそのまま引用して一部をUPする
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御公儀御巡見日記帳
天保 9年(1838)
 組 頭;重五郎・金三郎
 御公儀様御巡見日記帳
 御本陣;又右衛門・重五郎・重助

 文書所蔵者;関谷、室井義夫氏

・解明
 此の公儀御巡見日記帳は室井義夫家に伝わる、御巡見使関谷村止宿の詳細を記録したもので、其の実情を知る上に極めて貴重な記録である。又、大田原藩の諸役の差図状況が逐一記されて、其の接見に対する配慮が偲ばれるのである
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イ)関谷宿割の形成

御公儀御巡見日記帳_c0185705_1372698.jpg

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ロ)御巡見使のあらまし

 江戸幕府が全国各地の視察に派遣した役人。将軍の代替ごとに、大名領に派遣した諸国巡見使(編成;使番・小姓組・書院番)と天領に派遣した国々御領所巡見使とがあった。当初は第三代将軍家光代寛永十年(1633)にはじまる
※ 註記
 ・使 番 若年寄の支配に属し、戦陣では使命を伝える職となり、平時には諸国に出張し国役人の能否を考察した。また、将軍代替りの時は諸国を巡回し、大名の治績を視察した
 ・小姓組 幕府の軍事組織
 ・書院番 幕府の将軍直属の親衛隊(幕府の軍事組織)で営中の警備、将軍の扈従(こしょう・身辺に仕えて、諸々の雑用を果たす)、儀式の事を司どる

・御巡見使の関谷宿泊りについて
 道順 概ね、川崎--石上--関谷--(原道)--大田原宿へ

 一)貞享年中(1684-1688年頃) (第五代将軍綱吉代)
  ※ 或いは歴史年表にある天和元年(1681)が正しいか
 御巡見様
 佐久山より上石上御通行被極候
  御 使 番 駒井右京様

 二)宝永七寅年(1710) (第六代将軍家宣代)
  御 使 番 主角主馬様
  御小姓組 永田弥左衛門様
  御書院番 本田清兵衛様

 三)延享三寅年(1746) (第九代将軍家重代)
  御 使 番 松平新八郎様
  御小姓組 天野伝五郎様
  御書院番 諏訪右近様
  ※ 此の時のことについて詳記はないが巡見があったことには相違ない(通行か)

 四)宝暦十辰年(1760)十一月十六日 (第十代将軍家治代)
  御巡見様、関谷村に御宿泊
  御 使 番 板橋与五左衛門様 本陣 重郎平
   同勢 三十五人     亭主脇 源右衛門
  御小姓組 三上与九郎様   本陣 又右衛門
   同勢 二十八人     亭主脇 彦兵衛
  御書院番 長谷川藤右衛門様 本陣 重五郎
   同勢 三十人      亭主脇 定右衛門
  ※ 此の時には、関谷の宿内整備されて、宿泊に十分なる設備が整えられていた。又、宿の東側の杉の並木の胴伐高さ一丈三尺にした
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ハ)御巡見の概要

 五)天明八申年(1788)六月十六日 (第十一代将軍家斉代)
 御巡見様 関谷村に御宿泊
  御 使 番 倉橋長右衛門様  本陣 又右衛門
  御小姓組 内藤平八郎様   本陣 重郎平
  御書院番 三田権之輔様   本陣 重五郎

 六)天保九戌年(1838)閏四月七日 (第十二代将軍家慶代)
 御巡見様 関谷村に御宿泊
  御 使 番 安藤治右衛門様  本陣 又右衛門
   同勢 四十人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
   宿舎 本陣(村役、掛り奉仕十四人)
      外二軒(村掛奉仕二十八人)
  御小姓組 馬場大助様    本陣 重五郎
   同勢 四十二人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
  御書院番 内藤源助様    本陣 重助
   同勢 二十七人
  ※ 上、下着用、腰物一本、木綿服にて村境まで罷出迎
   宿舎 本陣(村役、掛り奉仕十四人)
      外二軒(村掛奉仕二十八人)
※1 御巡見様関谷止宿の翌日(17日)、原道を大田原宿へ相成
 2 室井家に残る公儀御巡見日記には此の時の記録が詳細に書かれている
 3 天保九年の御巡見は、相続いた天保の飢饉によって受けた痛手は大きく、故に大倹約を徹底せしめ、このことによって視察一行の接待も、それに伴って行われた
 4 此の時の道普請 石上、大貫、関谷(道筋幅九尺、両側弐間宛切開、原道筋も同様、手入)。これが基本であったと思われる

 七)外に御案内役として、此の時大田原藩主第二十五代愛清公、関谷寺(かんこくじ)に止宿す(村掛り十八人奉仕)
 六月十七日、右御巡見様一行御送りの為(人足四二九人、馬五二足、才料九四人)、藩領、村々より出役
※1此の時に、関谷宿東側の杉並木、胴伐り高さ二十尺とした。又東側の堀を埋めた
 2関谷寺について 詳細は不明なるも、大田原藩の黒印状受領の寺。関谷宿はづれ、上町の突き当りにあった模様
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・関谷村、宿の形成について

 江戸幕府の御巡見使の記録として残されてある、貞享年間(1685年頃) 次々の御巡見使、天保九戌年、閏四月(1838)十二代将軍家慶代まで、凡そ百五十余年の間に、前後六回に渉る御巡見が行われたのである
(室井家日記)
 内三回は本陣止宿と書かれてある。最も精細な記録は天保九戌年閏四月七日(1838)のものである。宿の整備については、幕府の定めた、五街道(東海道・中山・甲州・日光・奥州)の宿駅の整備は江戸初期に作られ、奥州道中(正保1648年頃)、原街道・会津西街道は(明暦二年1656)に完備された
 これに準じて、脇街道や、地方村々を繋ぐ要路が整備されたものと考えられる
※ 関谷の宿の形成の初めは、天正十八年(1590)(秀吉時代大田原晴清が関谷兼光の子を室井又右衛門と称させる)と考えることが至当と考える

 宿の要件としては、①問屋場、本陣の整備、②人馬継立、③休泊施設、④交易機能、等の整備が基本であり、大小の別はあれ、これらの形が整えられて宿場を形成したのである
 関谷の宿割りは、最上端(現在の上宿あたり)に関谷寺(かんこくじ・大田原藩の黒印状寺)があり、宿通り、幅九間、屋敷割両側に、一軒分九間三尺幅、本陣、問屋、名主はその倍の屋敷幅を持つ構として整備された。両側にそれぞれ、二十屋敷に近い家並を見たのである
 休泊施設家号(本陣、問屋、岸屋、梅屋、大坂屋、会津屋など)
 原型は、古宿より移転され、愛宕神社の常夜灯も宿内を照らした。又、上の内鷹八幡宮は、大田原公の祈願の場所でもあったのである
 又、関谷村は大田原藩領であり、塩原は宇都宮藩領であった。従って関谷はその接触地として、既に安貞二年(1228)には関谷より塩原へ馬道開くとあり、塩原にとっては、往来の出入口、物資の移入口等緊急の関係にあったのである
 此の事から、藩に於ても、其の整備に大いなる傾注をしたものと思う
 要するに、大田原藩に於ては治下領内代表の宿村として、御巡見の宿泊の所に定めた事と思う
(君島久雄記)

--参考文献;塩原町誌--




2012.07/14(SAT)

板室本村(板室宿) 会津中街道板室宿




平成24年(2012)
・ 7月14日
 わりと近くに住んでいるのだが、今まで「板室本村」が何処なのか知らないままいた。言葉では知っていたものの「たぶんあの辺だろう」程度のものである
 会津中街道を地図上にたどっていて、国境の大峠を越え三斗小屋宿を経て板室宿に入るが、あの旨い蕎麦屋さんのある此処だったのだ
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慶応 4年(1868)
・閏 4月
 会幕軍「会幕軍、第一大隊・別伝習隊・伝報隊・大砲隊・工兵隊は会津中街道を南下して三斗小屋から板室方面へ。総数約 600人」が陣を置いた
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会津中街道
  9.野際宿   福島県南会津郡下郷町野際新田
         大峠:標高 1468m
 10.三斗小屋宿 栃木県那須塩原市那須岳国有林
 11.板室宿   栃木県那須塩原市板室
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※ 北の端にいて見た板室宿
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※ 宿の北の端にある「大日堂」と板室湯本道標
--以下、現地の案内板から--

大日如来坐像(金銅)
 この板室大日堂内に安置する大日如来坐像は享保一二年(一七二七)江戸鋳物師「西村和泉守」の作であり、金仏としては当市最大のものである。真言密教の本尊にふさわしく尊顔は理知にあふれた美術品としても見事な作である。「坐高約九八センチ・坐巾約六七センチ」あり、願主として松原庵を中心に左右に木綿畑村板室村と台坐中央に刻まれている。
 「伝承」
 願主は白湯山に奉納するために鋳造したが、輸送困難のため白湯山の一の木戸である板室村に安置したとのことである。明治時代まではこの大日堂近くに行者のための二階建ての行屋と称する建物があり、後年は学校にあてられた。
 大日堂は、昭和五五年(一九八〇)に改修された。
     那須塩原市教育委員会

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