2012.09/13(THU)

乃木神社例祭




平成24年(2012)
・ 9月13日
 午前10時30分
 御祭神乃木将軍御夫妻の命日にあたるこの日、年に一度の最も重要な祭典「乃木神社例祭」が斎行された
※ 献幣使(けんぺいし)として栃木県神社庁より黒川正邦副庁長をお迎えしたとの事である
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大正元年(1912)
・ 9月13日
 明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなった。自刃を覚悟した乃木は、12日の夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した
 いくつかの遺書を残したが、そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた
 乃木は、以下の辞世を残した
   神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる
   うつ志世を 神去りましし 大君の みあと志たひて 我はゆくなり
 また、妻の静子は
   出でまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき
という辞世を詠んだ
--Wikipedia 「乃木希典」--

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※ 例祭前、記念撮影
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※ 祭事を終わり退出する
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乃木希典
嘉永 2年(1849)
・11月11日
 長府毛利藩士乃木希次の三男として江戸藩邸に生まれた。幼名は無人(なきと)、明治四年希典と名乗った
静子夫人
安政 6年(1859)
・11月 6日
 鹿児島藩医・湯地定之と貞子夫妻の四女として出生。幼名はお七、またはお志知

神社創立(西那須野「乃木神社」HP)
 石林地区住民はその英霊を土徳の神として此の地にまつり、常に敬神の誠をささげ、永く加護の恵みを受けるために神社創立の願いを出した
 大正 4年      県社に列せられる
    5年 3月 6日  社殿竣工
    5年 4月13日  鎮座祭
    5年11月 3日  特旨をもつて正二位
    7年 2月 8日  夫人静子を配祀祭神として合祀


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参考文献;Wikipedia 「乃木希典」
     「乃木希典/高貴なる明治」岡田幹彦
     西那須野「乃木神社HP」
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2012.09/12(WED)

那須野が原の開拓




平成24年
・ 9月12日
 玄米を精米して食べているが、そのコイン精米所に行く途中にこの塚があった。那須野が原開拓の史跡である

大山巌(2012.07/11)
三島農場事務所跡(2012.07/27)
明治の森記念館(2012.08/02)
「戸田」と大垣藩(2012.08/04)

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以下、現地の案内板(その 1)から

史跡 親王台(しんのうだい)
     西那須野町指定文化財
     昭和三十九年十月一日指定
 親王台は明治十四年(1881)六月に築かれた塚で、皇族(天皇の一族)の親王がこの上に上がったことから親王台とばれる。この台に上がった親王は、次の二人である。
① 明治十四年(1881)八月六日、有栖川宮熾仁親王が東北・北海道方面へ巡幸(天皇が地方を巡回すること)された明治天皇の名代(代理)として訪れる。
② 明治十八年(1885)九月十六日、那須疏水開通式に列席した北白川宮能久親王が訪れる。この時、松をお手植えになる(これを宮の松という)。
 この一帯は、江戸時代から明治十年代(1880年前後)にかけて、那須野ヶ原と呼ばれる広大な原っぱであった。明治十三年(1880)、那須野ヶ原の開拓をこころざした印南丈作や矢板武らは那須開墾社(総面積約三千ヘクタール)をおこし、この北側にその事務所を設けた。
 明治十四年(1881)親王がお出でになる際、開拓地が良く見渡せるように塚を築き、同十八年(1885)に修築した。明治四十年(1907)、この由来を永久に伝えるため、矢板武は塚の上に記念碑を建てた。なお、宮の松は二代目である。
     平成二年(1990)二月
     那須塩原市教育委員会

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以下、現地の案内板(その 2)から

親王台・那須開墾社第一(一本木)農場事務所跡

 親王台は、1881(明治14)年、明治天皇の東北北海道御巡幸の際に、那須野が原の開拓の様子を見るために、那須開墾社の事務所の一角につくられた塚です。高さは3m前後、周囲は約65mでほぼ正方形をしており、塚(那須開墾社農業日誌には「高台」・「親王(皇)」とあります)の上には「宮乃松」の碑が建っています。
 那須開墾社は1880(明治13)年に印南丈作・矢板武らによって設立された、那須野が原の開拓を目的とした結社農場です。総面積は3419町歩(3391ha)に及び、農場事務所はこの地一本木に設けられました。
 事務所の建物は、今は残っていませんが、ここから数10m北の民家のあるあたりに建っていました。その北側には強い風から建物を守るための土手(土塁)が築かれ、当時の面影を今に伝えています。その後、開拓事業の進展にともない事務所は、1886(明治19)年に烏ヶ森の丘の西方に移されました。
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2012.09/11(TUE)

箱根八里




平成24年
・ 9月 9日
 壬生城跡を見に来たのだが、ここに壬生鳥居氏に関係する方(父は壬生藩江戸家老・鳥居志摩)の碑があった
『箱根の山は、天下の嶮
函谷關もものならず
・・』 で始まる唱歌「箱根八里」の作詞をした鳥居忱(とりいまこと)のものである

壬生城跡(2012.09/09)
壬生、安塚の戦い(2012.09/10)

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以下、現地の碑文から

「箱根八里」は明治34年3月東京音楽学校(現東京芸術大学)で編集された「中学唱歌」に掲載された歌。作詞は壬生出身で音楽学校教授の鳥居忱、作曲は明治期第一の作曲家として定評のある滝廉太郎である。「箱根八里」は「中学唱歌」のなかで人気が高かっただけでなく、明治期を通して、最も歌われた歌の一つである。

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第一章 昔の箱根

箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)へ、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士

第二章 今の箱根

箱根の山は天下の岨
蜀の桟道數ならず
萬丈の山、千仞の谷
前に聳へ、後方にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか
一夫關にあたるや、萬夫も開くなし
山野に狩りする剛毅のますらを
猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ
八里の碞根踏み破る
かくこそあるなれ、当時のますらを



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2012.09/10(MON)

壬生、安塚の戦い 壬生町大字安塚周辺
蓋し本日の戦争八分の敗軍なり




 江戸を発って小山で戦い、一旦は壬生城下を迂回して日光を目指した大鳥旧幕府軍だったが、壬生に新政府軍が入ったことを知る

宇都宮城の攻防Ⅰ(2012.05/28)
宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)
壬生城跡(2012.09/09)

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慶応 4年(1868)
・ 4月21日
 宇都宮城の落城後、城の外にいた伝習隊第一大隊と桑名藩隊があらためて入城した
 新政府軍が壬生城に入ったとの報告を受けた大鳥旧幕府軍は、第七連隊を幕田に出して壬生道の防禦に備えた
 会津砲兵隊一中隊が宇都宮に入り、翌22日に壬生城を総攻撃することになる
 ※ この日の天気を大鳥は次のように記している
  本日雨天寒気透 レ衣如 レ冬
(南柯紀行)
・ 4月22日
 小山での新政府軍敗退の報は中山道の宿場板橋(現東京板橋)にいた新政府軍東山道総督府にも届き、援軍が三次にわたって派遣されていた

 イ)因州(鳥取)藩士河田佐久馬率いる 山国隊・鳥取藩・土佐藩兵混成隊
 ロ)総督府参謀伊地知正治率いる   薩摩藩・長州藩・大垣藩兵隊
 ハ)野津七次、大山弥助率いる    薩摩藩・大垣藩兵隊

 ※ 山国隊は京都丹波国山国郡で結成された農兵隊(草莽隊)
 ※ この時の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)は水戸徳川斉昭の五男、15代将軍慶喜の異母兄

 この日(南柯紀行では23日)は暴風雨
 夜の 2時、大鳥旧幕府軍は隊を 3つに分け壬生城へ向け出発した

 イ)右間道から壬生城に向う        会津兵
 ロ)本道(正面攻撃隊)          第七連隊、伝習隊の内4小隊、砲兵、土坑兵(本多指揮)
 ハ)雀宮から壬生城に向い敵背後から攻撃  伝習隊2 小隊(大川指揮)

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戦闘の様子を「南柯紀行」では次のように記している(引用)

本道の兵、幕田に至りしに暴風雨にて殊に闇夜途上咫尺を弁ぜずに漸くに安塚の前に達せしに天未レ明、諸軍小休の後又安塚の方に向い進みしに敵早くも安塚に出来り、地形を見立て胸壁を築き大砲を備え、且左右の林に歩兵隊を潜伏せしめ置き、我兵の正面を挟みて忽然打出せしに由り、味方大に驚き急に備を立て頻りに打出し互に戦いけれども、夜未だ明けざれば地勢不案内にて甚困幣す、去れども各隊入れ替り三時間も血戦し、已に敵の大砲も分捕せし程に至りしが雨天にて寒気強く兵隊大に疲労し、士官兵士共打(討)死も多分に出来たれば一旦引退く方可レ然と申伝え全隊引揚の喇叭を吹きたり、敵も少しは追撃したれども格別長追も為さず物別れと成りたり。
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 ハ)雀宮から壬生城に向い敵背後から攻撃する手筈の隊は、この安塚の戦闘には参戦せず。城下には入ったが城を攻撃するには兵が不足だし、味方も来ない。町屋数軒に火をかけたが大雨で火が充分に挙がらず、引き揚げた(壬生城郭・城下町解説書/壬生町歴史民俗資料館の壬生城と城下町年表に記載のある「壬生城攻撃さる。町屋4、5軒焼失」とはこの時の事か)
 大鳥圭介、体調不良で出陣せず

・戦力
 旧幕府軍  600人(正面攻撃隊)
 新政府軍  500人

・戦死
 旧幕府軍  60-70人(士官8、9人)
 新政府軍  17人

 大鳥旧幕府軍は江戸を発って初の敗戦となった

 蓋し本日の戦争八分の敗軍なり
(南柯紀行)
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安塚、戊辰戦役の碑。「戊辰役戦死之墓」と刻まれている(中央)
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以下、現地の案内板から

戊辰戦役の碑
 慶応四年(1868)、江戸開城に不満をもった幕府軍は、江戸を脱出し各地で官軍に反抗しました。安塚の戦いもその一つです。
 幕府軍の将、大鳥圭介は会津藩を中心として奥羽同盟を強大にすべく壬生を経て宇都宮に入ろうとしましたが、壬生藩の拒絶にあい、鹿沼を通り宇都宮に入りました。さらに、壬生を攻略せんとして幕田に進出しました。
 一方、壬生に入城した官軍は、因州藩(鳥取)・土佐藩(高知)を主力として安塚に向い、島田家を本陣とし、幕府軍と姿川を挟み陣を構えました。
 戦いは同年四月二十一日夜半から約四時間、豪雨と深い霧の中で行われたといわれています。
 この時戦死した幕府軍三十四名の霊を弔い、有志大久保菊十郎他三名の手によって、明治十三年(1880)に建立されました。
     平成三年三月
     壬生町教育委員会
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安塚、激戦地付近(写真は旧栃木街道、宇都宮・壬生の市町境)
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参考文献;「評伝 大鳥圭介・威ありて、猛からず」高崎哲郎
     「南柯紀行」大鳥圭介
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2012.09/09(SUN)

壬生城跡




平成24年
・ 9月 9日
 この時期、山では朝夕は寒い程になって日中の風も涼しくすっかり秋めいて来た。そんな時に壬生に行ったのだが、暑い!

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)

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・壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)
以下、現地の案内板から

壬生城本丸址
 壬生城は室町時代のなかば、文明年間(1469-86)に壬生綱重によって築かれたといわれています。各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました。
 しかし、壬生氏は小田原城の北条氏に味方していたために、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めにより、北条氏とともに亡びました。
 慶長六年(1601)からの110年間は、日根野氏(一万石)・阿部氏(二万五千石)・三浦氏(二万石)・松平氏(四万二千石)・加藤氏(二万五千石)というようにたびたび城主が替わりました。そして、正徳二年(1712)鳥居忠英(ただてる)が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの約150年間、鳥居氏(三万石)が代々城主となりました。
 江戸時代の記録によると、壬生城は本丸・二の丸・Ξの丸・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭からなり、これらの郭は土塁と堀でかこまれていました。また天守や櫓(やぐら)といった建物は建てられていませんでした。
 本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていました。
 また、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには将軍の日光社参の宿舎として使われました。現在、本丸址もその南側を残すのみとなりましたが平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の一つとなっています。
     平成二年三月
     壬生町教育委員会

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御祭神 鳥居彦右衛門元忠公「精忠神社」
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2012.09/07(THU)

戊辰戦死若干墓 会津中街道三斗小屋宿




平成24年
・ 9月 3日
 三斗小屋宿に行く。宿南には宿住人(と思う)の墓地があって、その一隅に戦死墓がある。墓名は「戊辰戦死若干墓」と読める
 正面向って左には世話人の名が、右側面には「明治十三庚辰五月」と刻まれている。(裏面には「戊辰戦死者十三年忌供養」とあり、会津藩兵一〇数名の墓である)
 宿住人の墓には最近お参りに来た形跡があった。先祖の供養であろうか
 会津藩は会津中街道を開設し三斗小屋宿を設けたが、その際に宿に移り住む者には支度金を支給したと云う

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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2012.09/05(WED)

三斗小屋宿 会津中街道
那須塩原市




平成24年(2012)
・ 9月 3日
 若松から続く街道(会津中街道)は野際宿を経て大峠に至り、越えて下野に入る。大峠は標高が1468メートルで、そこを下って那須の山中に設けられたのが「三斗小屋宿」である
 今回は那須側から上り始め、峰の茶屋からは三斗小屋温泉(煙草屋と大黒屋の旅館二軒がある)に向けてひたすら下る。ここから三斗小屋宿に向けてひたすら下る。帰路はおのずと、上る、上る、下るとなってひどく疲れた

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)

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写真;【三斗小屋宿】那須塩原市三斗小屋
   2012.09/03
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以下、現地の案内板から

史跡 三斗小屋宿跡
     那須塩原市指定文化財
     昭和四十四年七月十日指定
 三斗小屋宿は、元禄八年(1695)に会津藩によって整備された会津中街道に設けられました。北には国境となる大峠、南には麦飯坂があり、この一帯は街道一の難所でした。
江戸時代の末期に修験道の白湯山信仰が盛んになるとその登山口として栄え、今なお寄進された常夜灯や石仏・大鳥居(平成十九年復元)などが残っています。
慶応四年(1898)の戊辰戦争の際、会津軍(旧幕府軍)と新政府軍との激しい山岳戦が展開され、戦火により宿の十四戸が焼失しました。宿跡南の墓地には、この戦死者の墓が残っています。
 明治二十六年(1893)には三斗小屋に銅山が開かれ、宿の近くで精錬が行われました。明治四十一年(1908)五月の大火で十四戸すべてが焼失し、昭和三十二年(1957)に最後の一戸が転出して以降、無人の地となっています。
     那須塩原市教育委員会
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以下、現地の案内碑から

鳥居復元記念碑
 元禄八年会津中街道の開削により白湯山信仰が盛んになった頃、表参詣口として三斗小屋宿に大鳥居が建立されました。
 慶応四年戊辰の役で戦火に罹り頽壊し一部は苦土川崖下に転落埋もれていました。
 明治の先人が渇望した歴史ある大鳥居の復元に着手し三ヶ年の期間を要し此処に完成しました。
     平成十九年九月吉日

 古より白湯山の大鳥居
   くずれおちてし神額をば
    復元されし永遠の礎に

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※ 2012.09/07、ちょっとだけ詳しくした概略図に差し替えた ^^;)
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