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2018.04/30(MON)

箱館奉行所 函館市五稜郭町 44-3(五稜郭)




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箱館奉行所
箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です
安政 4年(1857)に着工して 7年後の元治元年(1864)に完成し、蝦夷地の政治的中心となりました
明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治 4年(1871)に奉行所庁舎は解体されました
それから 140年の時を経て、平成22年(2010)に箱館奉行所が復元されました
--現地の案内板から--

■ 復元された箱館奉行所
写真;2018.04/25
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五稜郭(2018.04/30)




2018.04/30(MON)

五稜郭 函館市五稜郭町 44




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写真;2018.04/25
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特別史跡五稜郭跡
昭和27年 3月29日指定
 五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調書教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。陵堡と呼ばれる 5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟がたてられました
 安政 4年に築造を開始して 7年後の元治元年に竣工、同年 6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治 2年 5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治 4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています
 五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています
--現地の案内板から--

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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史/五稜郭の包囲総攻撃(2016.02/26)




2018.04/28(SAT)

開陽丸(記念館) 檜山郡江差町姥神町 1-10




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写真;2018.04/25
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開陽丸
 近代国家として海防強化を目指す幕府にとり、1866年オランダのヒップス父子社で建造した開陽丸は最強の旗艦となった
 木造艦とはいえ、各所に鉄材を使い、主なロープにワイアを用いている。大砲も当初よりも増備している可能性が大きく、アメリカ南北戦争で活躍したダルグレン砲をも装備していた。なお、帆走時には煙突をちぢめスクリューを引き揚げる方式をとっている

  ・船型     シップ型 3本マスト・補助エンジン付き
  ・排水量    2590トン
  ・最大長    72.80m(バウスピリットを含む、81.20m)
  ・最大幅    13.04m
  ・吃水深    前部 5.70m 後部 6.40m
  ・帆面積    2097.8㎡
  ・補助エンジン 400馬力蒸気機関1基(トランク・スチームエンジン)
  ・速力     10ノット(汽走時)
  ・標準装備   大砲26門(うち18門は16センチクルップ砲)
          後に 9門が追加され35門。外に小型ブロンズ・ホーウィツェル砲など 8門
  ・乗員数    350~500人
  ・設計者    J.W.L.ファン オールト(van Oordt)
  ・造船所    ドルトレヒト市ヒップス・エン・ゾーネン造船会社(C.Gips en Zonen)
  ・起工     1863年 9月16日(文久 3年 8月)
  ・進水式    1865年11月 2日(慶応元年 9月)
  ・引渡し    1866年 9月10日(慶応 2年 8月)貿易会社
          1867年 6月22日(慶応 3年 9月)幕府
--現地案内板・パンフレットから--
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開陽丸記念館
 開陽丸は、江戸幕府が諸外国の海軍に対抗するため、江戸時代末にオランダで作られた軍艦です
 開陽丸は、江戸幕府に引き渡された後に起こった戊辰戦争で活躍しましたが、明治元年(1868)に江差沖で座礁・沈没しました
 昭和50年(1975)から昭和59年(1984)にかけて、水中での発掘調査が行われ、約3万3千点の遺物を引き揚げました
 平成2年(1990)実際の開陽丸と同じ大きさで復元した資料館で、大砲・砲弾・船具などの遺物を展示しています
--現地の案内板から--
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箱館戦争 1/2 (2014.10/07)
慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)(2016.02/22)




2018.04/27(FRI)

碧血碑 函館市谷地頭町1




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写真;2018.04/24(合成)
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碧血碑
 箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている
 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される
 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである
     函館市
--現地の案内板から--
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■ 碧血碑台座裏面プレート
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明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志


■ 碧血碑
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■ 碧血碑はこの先
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箱館戦争史跡ほか【リンク・一覧】 (2018.05/09)




2018.04/27(FRI)

榎本軍鷲ノ木上陸地跡 茅部郡森町鷲ノ木(桂川の河口付近)




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写真;2018.04.24
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榎本軍鷲ノ木上陸地跡
 明治元年(一八六八)旧十月二十日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武陽(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪三〇cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる
 榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか七艦(回転・蟠龍・長鯨・神速・鳳凰・回春・大江)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久佐衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした
 当時の鷲ノ木村は戸数約一五〇、人口約八〇〇で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました
 二十一日、人見勝太郎以下三十二名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯ノ崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました
 こうして、明治二年五月の、箱館戦争終結までは負傷者や病人達の療養所となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました
 今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります
     平成二年七月三十日
     森町教育委員会
--現地の案内板から--
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 明治元年(1868)10月20日、箱館から45キロほど北方の「鷲ノ木」海岸の沖に旧幕府艦隊が次々に投錨しました
 脱走軍が蝦夷地へやってきた目的は、仕事を失った多くの旧幕臣の生活を安定させるために蝦夷地を開拓し同時に北辺の防備にあたるというもので、榎本武揚は再三にわたり、その考えを嘆願書として明治新政府へ訴えていたのです
 軍艦・輸送船八隻からなる旧幕府艦隊には約三千名の将兵が乗り込んでいました。その中から選ばれた、幕府遊撃隊長人見勝太郎らの先遣隊が吹雪をついて上陸し、蝦夷地開拓の嘆願書を新政府の役所である「箱館府」へ提出するため五稜郭へ向けて出発しました
--五稜郭タワー展示資料から--
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■ 鷲ノ木史跡公園
 榎本軍鷲ノ木上陸地跡へはここから海岸に向かう坂を下る
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■ 箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑
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■ 史跡/箱館戦争/榎本軍鷲ノ木上陸地跡
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箱館戦争 1/2 (2014.10/07)
榎本軍/山本泰次郎墓(2018.05/03)




2018.04/11(WED)

塩の湯温泉 那須塩原市塩の湯




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おかね道碑
     塩の湯温泉
 塩原十一湯のひとつである塩の湯温泉は、塩釜から鹿股川をさかのぼった谷間に湧く温泉です
 塩の湯温泉は慶長二年(一五九八)、君島氏が温泉宿をひらいたのが始まりだと言われ、当時から夏ともなれば数千人の湯治客が訪れるほどのにぎわいでした
 この石碑は君島家の子孫カネが、ふるさとの塩の湯への道を開いたことを記念して、大正四年に建てられたものです
※[写真]大正時代の絵ハガキより
 塩釜から塩の湯へ至る塩の湯新道は、道を開いたカネにちなんで「おかね道」とよばれました
--現地の案内板から--
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