2012.09/29(SAT)
鍋掛宿
なべかけしゅく
旧奥州街道、那珂川を挟んで「越堀宿」と一対となっている宿である
鍋掛宿
鍋掛の集落の成立は、平安時代の元慶3年( 879)と言われます。そして、鍋掛宿が宿場として繁栄したのは、江戸時代に入って五街道の一つである奥州道中(奥州街道)が整備され、参勤交代が実施(1635)されるようになってからです
奥州道中は、宇都宮から白河までをいい、この街道には南から白沢宿、氏家宿、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿、越堀宿、芦野宿、白坂宿、白河宿の10宿がありました
鍋掛宿は、鍋掛から芦野までの下りの旅客や物資の輸送を担当し、越堀から大田原までの上りは、越堀宿があたっていました。こうして、明治初年まで宿場として栄えました
天保14年(1843)の調査では、本陣・脇本陣がおのおの1軒、旅籠屋が23軒あり、宿内の総家数は68軒、人口は346人を数えていました。なお、宿内の家々には、それぞれ屋号がついていました
--引用;鍋掛、日新の館にある案内板--
>「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)
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鍋掛宿「正観寺」

>多田温兵衛墓(正観寺)(2014.06/06)
最盛期には戸数百余戸を数え、旅籠、茶屋、多くの商家などで賑わった
江戸時代の正保三年(1646)以降は幕府直轄地(天領)として明治まで治められていた
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※ 天領
天領という用語は、明治初期に旧幕府直轄領が天皇の御料(直轄領)になったときに天領と呼ばれたもので、さかのぼって幕府時代のものも天領と通称するようになったものである。江戸時代には支配所とか通称で御料、御料所などと呼ばれた
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■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
鍋掛宿
なべかけしゅく
旧奥州街道、那珂川を挟んで「越堀宿」と一対となっている宿である
鍋掛宿
鍋掛の集落の成立は、平安時代の元慶3年( 879)と言われます。そして、鍋掛宿が宿場として繁栄したのは、江戸時代に入って五街道の一つである奥州道中(奥州街道)が整備され、参勤交代が実施(1635)されるようになってからです
奥州道中は、宇都宮から白河までをいい、この街道には南から白沢宿、氏家宿、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿、越堀宿、芦野宿、白坂宿、白河宿の10宿がありました
鍋掛宿は、鍋掛から芦野までの下りの旅客や物資の輸送を担当し、越堀から大田原までの上りは、越堀宿があたっていました。こうして、明治初年まで宿場として栄えました
天保14年(1843)の調査では、本陣・脇本陣がおのおの1軒、旅籠屋が23軒あり、宿内の総家数は68軒、人口は346人を数えていました。なお、宿内の家々には、それぞれ屋号がついていました
--引用;鍋掛、日新の館にある案内板--
>「越掘宿」と戊辰戦争(2012.09/28)
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鍋掛宿「正観寺」

>多田温兵衛墓(正観寺)(2014.06/06)
最盛期には戸数百余戸を数え、旅籠、茶屋、多くの商家などで賑わった
江戸時代の正保三年(1646)以降は幕府直轄地(天領)として明治まで治められていた
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※ 天領
天領という用語は、明治初期に旧幕府直轄領が天皇の御料(直轄領)になったときに天領と呼ばれたもので、さかのぼって幕府時代のものも天領と通称するようになったものである。江戸時代には支配所とか通称で御料、御料所などと呼ばれた
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by mo20933
| 2012-09-29 12:26
| >黒磯
|
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