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カテゴリ:その他>その他( 91 )

2019.05/09(THU)

板垣退助 2019.05/08 NHKtv「歴史秘話ヒストリア」




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 2019.05/08 NHKtv「歴史秘話ヒストリア」
 板垣退助
写真;2019.05/08 tv画面から
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迅衝隊
前列左から ・伴権太夫・板垣退助(中央)・谷乙猪(少年)・山地忠七
中列    ・谷神兵衛・谷干城(襟巻をして刀を持つ)・山田清廉・吉本平之助祐雄
後列    ・片岡健吉・真辺正精・西山榮・北村重頼・別府彦九郎
--引用・要約;「板垣退助」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2019.05/08(水)14;49--
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2019.03/01(FRI)

彰義隊 吉村昭 最後の長編小説




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彰義隊 吉村昭著・新潮文庫 2009
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 皇族でありながら、戊辰戦争で朝敵となった人物がいた―上野寛永寺山主・輪王寺宮能久親王は、鳥羽伏見での敗戦後、寛永寺で謹慎する徳川慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走する。しかし、彰義隊に守護された宮は朝敵となり、さらには会津、米沢、仙台と諸国を落ちのびる。その数奇な人生を通して描かれる江戸時代の終焉。吉村文学が描いてきた幕末史の掉尾を飾る畢生の長篇
--引用;文庫本カバー裏面--
 当時、宮は21,2歳であられたかと
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輪王寺宮の東行(2013.10/02)
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う(2013.01/25)
(四)輪王寺宮殿下の御末路(2016.04/04)




2018.08/03(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/政府の時事
国立国会図書館デジタルコレクション




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写真;函館(八幡坂)・2018.04/26
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蝦夷の巻(第三巻)
【コマ 482・ 483】
政府の時事
蝦夷平定當時に於ける、政府の時事を摘示すれば左の如し。
 五月  會津、仙䑓以下の奥羽戦亂叛逆謀臣に死を賜ふ。
     東京九段坂上に招魂社を建設す。而して正月三日、五月十五日九月二十三日を以て戦死者を祭る。正月は鳥羽伏見役にして、五月は上野彰義隊の役なり、その九月は會津落城にして、何れも維新に重大関係あるの故なりと。
     東京横濱間に電信機を設置す。
 六月  丁卯、戌辰、巳己の軍功を賞し、左の例に依り扶祿又は御下賜金の御沙汰あり。
      兵部卿宮、大宰師宮
      薩州島津、長州毛利以下九十餘藩(西軍所属)
      薩州西郷隆盛、長州大村益次郎以下百餘人
     左、右大臣、大納言、参議を以てする官制成る。
     公卿、諸侯の稱呼を改め、公、侯、伯、子、男の□位を授與し以て華族に列す。
     府、縣、藩三治一致の制度を設け、従前の藩主を以て假りに知藩事に補す、府縣は政府の直轄にして、藩は然らず。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)




2018.07/25(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
国立国会図書館デジタルコレクション




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写真;2018.04/25 ・二股川を挟んで旧幕榎本軍と対峙した新政府軍の陣地跡
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※明治 2年(1869) 4月12~14日
蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
【コマ 447】
(二)二股口の敗報
 それ蝦夷軍の二股口防備こそ、實に難攻不落と云ふべし。されば自然の要害と敢死勇猛の蝦夷軍とは、共に持久を以て西軍を壓するに足る。然れば両軍の接戦屍山血河の陣となりて、西軍は數萬の弾丸と數百の死傷を捨てゝ、遂に其要害を抜く能はず。何ぞ二股口の頑強なる。西軍は廔々突破を企てゝ死力を盡すこと苦闘連敗、將に百計つきむとして憂苦愈大なり。蓋しこの死地の陣に、徒に時日を空費するあらば、西軍の敗陣は却て是が乗ずる所とはなりて、蝦夷軍勢を増大するに至るなきか、木古内抜けず、二股頑強なり、果して然らば、此間に於て、二股口敵兵の逆襲と爲らば如何、大勢一撃最早西軍是を防くに兵員尚足らず、延ては木古内味方の安危を左右するに至るべ
【コマ 448】
しと。即ち二股口攻撃の西軍參謀に於ては、左の報告意見を発したりと云ふ

 去ル十(約七八字不明)藝州、筑州、彦根、津軽(此間約二十字程不明)勢一手ニ、再度二股口ヲ打立候處、賊徒大勢胸壁ヲ築キ、各山上険阻ニ據リテ、大小砲ヲ討立候故、味方モ不敗ニ専途ト戦候ヘ伴、味方勢手負甚タシク且煙硝缺乏致候爲メ、一ト先ツ味方勢ヲ引揚ケ土州勢ヲ偵察ニ殘シ候、元來二股口之儀、味方ノ配陣常ニ賊陣ヨリ伏射ニ有之(以下七八字程不明)賊陣左手ヘ相廻シ後口討立ノ手筈ナリシ味方勢モ、卒然賊徒ノ逆襲ヲ受ケ防キ兼ネ、是レ又引揚ケノ有様ニテ候、其後再三軍配致シ進軍攻立候處、賊徒以前ニ倍シ、人數入込多勢ニテ押立候ヘハ、味方一齊トナリテ大小砲ヲ發砲ニ及ヒ候處、賊仲々不退夕六ツ時頃ニ至リテ、賊徒再ヒ以前ノ胸壁ニ戻リテ發砲仕リ、以來晝夜ニ亘テ憤戦仕リ居候、賊人數ヲ入替立替攻口ヲ防キ、味方攻メ立テ誠ニ困難、目下ノ味方人數ニテハ迚モ不叶、賊勢多衆押寄スル時ハ味方危ク、従テ木古内後口ヲ喰ヒ止メラレ候テハ一大事ト、日々ニ深慮仕リ居リ候、就テハ今ニシテ援兵大勢有之候ハヽ、賊陣攻立容易ニ御座候ヘ供、是ヨリ却ツテ合兵シ一擧シテ木古内及ヒ矢不來ノ賊ヲ討拂、二股援道ヲ絶ツコソ良策トモ愚察仕リ候、右ハ何レトモ多急ノ御明斷専一ト申進候
   四月十八日
          二股口參謀 片山米右衛門

 依之看定、二股口蝦夷軍の要塞突破を斷念し、海岸線に西軍主力を傾注して、矢不來方面に轉回するこそ、一擧両得の計略と爲すにあり。西軍の敗陣今や餘兵なし、其木古内方面に於ける賊將は、其名も高き大鳥圭介と思ひば木古内を崩すは目下の大要務なれ。然るに第一軍は福山方面にて遮斷せられ第二軍の全力を以てするも、木古内未だ抜けず、其二股口敗勢と聞きては、片山參謀の言は、誠に價値ある謀略と云ふべし。茲に於て、西軍は全力を擧
【コマ 449】
げて、木古内要害の突破を企てゝ、二股口第三軍の主力を注ぐなりと云ふ。
 二股口西軍の内情や、それ右の如し。然るに蝦夷軍は由を知らずして此所を解く。若し二股口要塞司令官たる土方歳三たるもの、此内情を知るに於ては、必ずや躍進して圭介と呼應したるなるべし。さても危き所なりけり。然れとも斯く相成りては、蝦夷問題も逆轉したるなるべし。大鳥圭介、軍略ある督將と雖も、戦陣常に海老の如く、徒に退却するは不運の爲めなるか、土方歳三沈勇剛邁と雖も、防禦にのみ留意し、西軍餌兵の實情偵察を閑却したる缺點あり。左るにても、木古内及ひ二股間に於ける蝦夷軍に、作戦連絡の無かりしが、先以て御目出度事共と云ふべし。
〔編者曰く〕後年榎本子、大鳥男、人見勝太郎氏及び佐々木京運氏が一堂に於ける回舊談に、二股口の實情話頭に上りしとき、榎本子、盃を捨てゝ机を叩きて大息せりと。それ或は然らむ、さても痛快と云ふべし。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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(一)二俣口の戦(2016.09/18)
慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)




2018.06/27(WED)

明治新政府軍反撃開始(箱館戦争)




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 ・明治二年(1869)
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         やまだあきよし
新政府軍 海陸軍参謀、山田顕義
・・・
 四月九日、新政府軍は江差の北方約10キロの乙部村へ続々と上陸を開始した
 海陸軍参謀、山田市之允(顕義)が率いる第一陣には領地奪回に燃える松前藩の兵士達が先頭をきって上陸、脱走軍の江差守備隊が急行したが新政府軍の軍艦から艦砲射撃を受け敗走した
--五稜郭タワー・案内板から--
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山田顕義・黒田原開拓の資料館(2015.09/23)




2018.06/20(WED)

箱館戦争史跡・リンク




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箱館戦争史跡(一部)・リンク
 1 森町   鷲ノ木  榎本軍鷲ノ木上陸地跡(2018.04/27)
 2 函館市  五稜郭町 五稜郭(2018.04/30)
 3 江差町  姥神町  開陽丸(記念館)(2018.04/28)
 4 函館市  谷地頭町 碧血碑(2018.04/27)
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  箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
  箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)
  箱館戦争史跡ほか【リンク・一覧】(2018.05/09)




2018.06/06(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/矢不来の戦
国立国会図書館デジタルコレクション




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【コマ 457】
矢不来の戦
 木古内の要害を捨てたる蝦夷軍は、長駆して矢不来の陣に據れり。夫れ此地たる、五稜郭を背後に負ふの要害にして、西軍が蝦夷本営を衝かむとすれば、必ずや此地點に占領の実力を保たざる可らず、故に若し矢不来にして西軍の手に落ちなば、急転直下五稜郭の落命を急ぐに至る。然れば蝦夷軍が敵を此所に導くは、己れの運命を短縮するものにして、木古内抛棄の祟と云はさる可らず。蝦夷南海岸の総軍、両道今や引き揚げて、矢不来の要害に據つて防戦するは、実に必死の心血を注ぐ所、目前に西軍の鋭鋒を控へて、急遽の防備いよ/\多端を告ぐ。依てその配陣如何と云ふに、山手には伝習、遊撃、砲兵の諸隊を置き、その天神森には衝鋒、会津遊撃の諸隊を配り、関門口の砲台及び海岸筋の間道には守護隊を置き、本道は伝習、彰義、小彰義、歩兵、陸軍の諸隊を以て固め、更に彰義隊は茂辺地に至りて、大に虎視を張る。時に五稜郭に於ても、戦備を議して大に憂苦し、本郭常備の長加農砲及び二十四斤砲数門を送るに決し、砲兵指図役佐々木京運、是を督して富川を固む。茲に於て、蝦夷軍の防備陣は、台場胸壁を合算して二十六ヶ所と為る。
 西軍第一軍は福島を発し、一千五百人を先発せしめて泉澤に送れり。時
【コマ 458】
に英船にて青森港出発の援軍二千五百人は、愈木古内に上陸して、泉澤に進軍す。茲に於て、泉澤に駐屯せる西軍は、弘前、松前、柳川、肥州、芸州、土州、長州、薩州の諸軍総て四千人。是れを五百人つゝ八軍団に編成して、四月二十九日を以て、愈矢不来に向ふ。更に西軍艦隊は、陽春、丁卯を先鋒とし甲鉄、春日、朝陽、飛龍、豊安の諸艦を以て、等しく矢不来に向はしめ而して沿岸砲撃を開始するにあり。西軍の陣形愈成るに及びて、英米の軍艦は遥かの沖合に在りて、両軍海陸の戦况を観戦す。
 本道の西軍愈茂辺地現はれ来れば、其威勢甚だ熾んなるに、此所を守備せる彰義隊は、皆辟易して関門を捨てゝ走る。かくて西軍五百人の軍団は、山手本道海岸の三道陣を以て、いよ/\矢不来に攻め来る。西軍艦隊、是を遥かに望み見て、俄然として出動し、陸岸七八丁に来りて、轟然として猛弾を送る。さる程に、陸上の突進は、いよ/\急迫を告げ、その浜手に向ふ西軍は、岩に添ふて磯辺に現はれ、身体半は海水に浸しつゝ、一列となりて海を渡らむとす。守護隊、陣を隠して総軍水中に入るを待ち、銃口を一斉に並列して、胸壁より狙撃すれば、天神森の衝鋒隊も是に呼応して、大に弾丸を雨注す。海中の西軍素より防ぐ能はず、狼狽して銃殺せらるゝもの数十人、遂に狂乱して本道口に走る。此時に當りて、山手西軍は藤澤の嶮を踏破して矢不来に連なる高峯に進み、また本道西軍も迫れり。されば蝦夷軍は、坂道を扼して是を防戦せしかと、西軍の突撃陣は、霹靂天地を鳴動し、砲弾を注ぐこと雨霰の如く、捲土重来して攻め立つるには、蝦夷軍も寡勢を以て、苦闘悪戦す。されど尚屈せず、益々結束して防戦頑強なり。依て西軍は新手の精鋭を入替立替に攻め入るに、蝦夷軍の戦守も最早堪ゆる能はざるに至りて、本道坂道の上には、地雷火を埋没して、隊士はみな山手に走りて、大に間道口を防ぐにあり。而して彰義隊及び工兵隊の壮士は、その埋没地の附近に在りて、潜んで西軍の到るを要す。果せるかな、西軍の精兵は鬨を挙げて本道口を攻め上り、大呼豨突の威勢を以て、見る/\坂を踰へて猛進す。勇士、早くも引綱を断てば、爆裂悽まじく天を衝き、地雷火は噴煙渦き起りて、砂礫は四方に飛び上る。かくて地雷火の爆発所々各所、西軍即死するもの甚だ
【コマ 459】
多し。さる程に、甲鉄艦の打ち出す巨弾は、海岸の台場に爆裂して、砲車を砕き、築立を崩すに至る。されば天神森は、今や海陸の攻撃に遂に守りを失し、参軍永井蠖伸介、同天野新太郎苦闘遂に起つ能はず、血染の討死となりて敗兵散乱、茲に於て、士官隊長滝川充太郎は是を叱咤し、敗兵を集めて浜手を固守すれば、守護頭取太田貞恭も亦敗兵を率ゐて、頑強に浜手西軍に抗す。然れども大軍豨突の決戦には、遂に粉と砕けて、太田貞恭は腹郎を斬られ、大腸漏出して苦悶絶倒、後三日函館病院に於て死す。攻防烈戦蝦夷軍遂に混乱し、本道口も浜手も、今や一度に崩れて天地寂寞。
・・・
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)




2018.02/22(THU)

子爵谷干城傳 平尾道雄著・マツノ書店(復刻版)




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子爵谷干城傳 平尾道雄著・マツノ書店(復刻版)
 マツノ書店さんから出版の案内が届いた。今回は..
  1.久坂玄瑞史料  16000円
  2.子爵谷干城伝  16000〃
  ※2点セット特価 30000円
  ※予約特価締切りは三月十日
     *
略目次(抜粋)
 東征藩兵大軍監 上
  ④ 江戸駐陣と関東の情勢
  ⑤ 安塚の役と壬生占拠
  ⑥ 日光進撃と霊廟保存
  ⑦ 今市駅の防禦戦
 東征藩兵大軍監 下
  ① 土佐藩兵の第二次出動
  ② 奥羽地方の戦況
  ③ 米沢藩勧降書
  ④ 会津若松城攻囲

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慶応3年(1867)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、板垣退助や毛利吉盛とともに京都の小松帯刀邸で、薩摩藩の西郷隆盛や吉井幸輔と会い、薩土討幕の密約(※薩土盟約とは異なる)を結んで武力討幕を目指した。明治元年(1868)の戊辰戦争では、板垣退助の率いる迅衝隊の大軍監として北関東・会津戦線で活躍する。明治3年(1870)には家禄 400石に加増され、仕置役(参政)や少参事として藩政改革に尽力した
--引用・要約;「谷干城」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.11/05(日)12;54--




2017.11/02(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 維新の巻(第一巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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維新の巻(第一巻)
幕末の薩長土肥 2
【コマ 64】
西郷も蹶起するなるべしと、その到るを待ち迎ふる様の如し。
 然るに薩摩藩にも穏和、激論の二大潮流あり。久光は前者の首領にして、堀次郎、中山忠左衛門、大久保市蔵の輩これに随従し。其激論黨には、二才衆と云へる一団、西郷を首領と為して、之が中抽たり。今回の上京は名こそ薩藩の上洛なるも、内部は両黨混入互に隙を狙つて、今にも爆発せむとするにあり。かくて是等の一行も、大阪までは極めて無事平穏なりしも、やがて京都伏見に到れば、待ち兼ねたる激論黨は、早くも群がる天下浪人志士と呼応して、いよ/\幕府反対の旗幟を立てゝ、関白九條常忠公及び所司代酒井忠義を斬殺し、京都の大勢を決定して、而して島津久光の態度を動かさんとの謀議は、伏見の旅館寺田屋に於て、暗々裏に決定せられたり。思ひも依らぬ寺田屋の謀議、是を聞きて穏和黨の狼狽一方ならず、主謀の者を探れば、又もや西郷隆盛、今や此爆発の黒幕となりて、危険云ふ可らず、依て西郷を捕へ、帰国せしめて流罪に処し、徒黨斬滅を令するに至りて、浪人の腹案こそは、実に意外の凶変に遭遇したるものと云ふべし。島津侯の探索急なり、巨魁平野等は捕へられ、浅川等江戸へ遁れ、激論黨の密計も水泡に帰着す。是所謂寺田屋事件にして、薩州島津は、佐幕本領を遺憾なく発揮したる訳なるを以て、不平満々として、長藩より遁れて、折角薩藩に投じたる浪士、寺田屋事件を望み見ては、失望落胆たゝ憤々大息あり。されば形勢の非なるもの、みな不平を鳴らして四方に散逸し、又もや長州へと接近するに至る。何と厄介至極の浪人ぞや。
 薩長の形勢に次ぎて、方今に於ける土佐の内情を見るに、土佐藩主山内容堂侯は、徳川家に系縁あるのみならず、穏和黨の有力者なり。然ればこれに補佐役たる、参政吉田元吉、同後藤象次郎等は、能く佐幕の政策を維持し、藩論を統一するに努めし所ありけるも、時勢は又激論黨の侵す所とはなりて、志士は京師の間に往行するあり。武市半平太、その巨魁となる。
 武市は、早く其藩を脱して、身は土佐の浪人を自負し、竊かに京師に潜みて、同志の間に気脈を通じ居りしもの。常々京師と土佐を往行して、時勢を説きて藩土を煽動せしかば、志士風に臨むで同するもの、坂本龍馬中岡慎之
【コマ 65】
助を始め、脱藩浪士は次第に蔓延して、皆激論思想に熱狂するに至れり。されば浪士の十八番として、論難囂々勢の激する所風を起し、遂に参政吉田元吉をば暗殺するに至りて、土佐の形勢は愈々不穏の兆を来したり。茲に於て、吉田参政の死後は、後藤象次郎、是に代つて土佐藩に要路の職たり。依て藩内過激の妄論を望み見て、其藩政改革に着手すべく、激徒鎮圧の策を講ずるに頗る是が憂慮する所にてありき。
 夫れ薩長土肥は、幕末の有力なる四藩にして、長州は極端なる倒幕激論黨なり。薩州は倒幕佐幕両立にして、寧ろ佐幕黨優勢にあり。其土州は大勢佐幕と、まづ旗幟鮮明たるに反して、其肥前藩に於けるや、両黨全く傍観の態度にあり。蓋し藩主齊正侯が、両黨の接遇に付きては、所謂不得要領主義を以てする藩政の致す所ならん。然れどもその閉窓せる態度は、却つて両黨より不快を以て迎へらるゝものゝ如し。
 然れども、肥前藩は、時勢に慮して、徒に藩論の発表を避けつゝ、隠秘の裡に学問技芸を励まし、他日飛躍の時期に至りて、暗中総挙の企てに備へんとはなしたるものゝ如し、然れば之を知る者は、深く肥前を刮目監視したりと云ふ。されど藩内鳴りを殺すの態度は、全く外見のみにして、其内部たる既に激論分子の排出あり。即ち副島種臣、江藤新平、大隈重信の如きは、頗著なる過激家として数ふべき也。彼等諸国浪人の妄言を耳にしては、如何にしても腰を落付け置く能はず、過激の思想に、血湧き、肉踊りて、竊に藩を脱し、肥前の浪人を気取つて、京師浪人の巣窟に出没せむとしたる事一再ならず。加之。今は激徒煽動の危険人物として、環視せらるゝに至りしと云ふ。江藤新平の乱や、大隈重信の気焔を以て見るも、確かに尋常一様には非ざりしなるべし。然り、彼等浪人たらむとして、熱を吐いて、抜け殻と為りしこと幾度、然れども脱走の都度追手に捕へられて、帰国と共に学堂に詰め込まるゝが常、敢て暴挙の機会なかりしは、大幸の至りと云ふべし。
[附記] 肥前藩過敏家江藤が、其同志を煽動するに奔走せし當時の書翰は頗る天下の消息を知る便あり。左に摘抄すべし。(江藤新平が国元に送りしものゝ由)
一、 今日の問題は公武合体、尊王攘夷にして両黨の争奪、衝突は遠からず実現すべく、奸雄私曲を謀する好機会を与ふると共に、夷狄の窺ひ乗ずる機運に瀕す
【コマ 66】
るに至るべし。
一、 近世幕府は政略を以て国政に起ち、其残骸を保たんとするものゝ如し。元来幕府は武力を以て起ちしものにして、実力なくば既に其存在の必要を認めず。然るに政略を以て之を持続せんとするは、根拠なき空位なるべく亡滅必至遠きに非ず。時運は倒幕以て天皇親政を要望す。
一、 幕府有司久世及び長州藩永井の妥協は長州藩の不平□、勝を制して、妥協水泡となり俗説紛紜(ふんうん)たり。
一、 薩は長に依りて議を変じ、長は薩に依りて論を変じ、薩長両藩は道を二つに求めて相反目し、両藩亦内部に議論四分五裂、其の帰着するを知らず。
一、 国政多事之を双肩に荷負ふ敏腕家、天下幾人ありや。水戸烈公薩州斉彬公及び吾が藩公より外なし。然るに前二公既に死去す、之れ吾が公の一奮発すべき機会にして、天下亦此に嘱望する事厚し。
    *
當時の浪人が天下国家を論じて、東奔西走の運動費は、主として激論黨の巨魁より貢がれしと雖も、尚不足するは勿論なり。茲に於て浪士等は、一人一日一百文の貯金を為せしといふ。當時の一百文、現代の一銭也。若し其力なき者は、書籍を筆写し、是を書店に売却して、筆耕料を得るなりと。
end
( 1へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

江藤新平
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小笠原唯八墓、小笠原謙吉墓(西軍墓地)(2015.05/06)



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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

2017.10/28(SAT)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 維新の巻(第一巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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維新の巻(第一巻)
【コマ 60】
幕末の薩長土肥 1
 夫れ国学は泰平の安きに人心を啓発し其結果は尊王賊覇論(治国は王道に俟つべく武門の是に當るは変則的政治なり)復古説(歴史的観念に従ひ、往時に於ける吾皇権隆盛時代を回想し武家政治を打破して皇権政治とす)天皇中心論(天皇を政務の中枢に、諸多公卿及び武家は随従的に参政すべし)等を産むに至りて、吾が建国の歴史は治国の大権皇室に属し、名分愈確認せらるるにつれ、その幕府なる武家政治が、果して吾が国體に相容るゝべき哉、否や。世上漸く是を疑ふに至りしのみならず、今は却変則異例なるに、学者政客の等しく公認する所とは為りたり。さらば幕末に於ける政権論、是等幾多変遷跡を辿りて、遂には幕政に対立するの風潮と化し、同志相需めて派
【コマ 61】
を為し、党を結びて、勢の激する所幕府破壊を論じ、政体改革を絶叫して、尊王の大義を説くに至る。かくて時勢の推移は復古の萌芽をして、武門の権に超脱せしめて、国論いよ/\鼎立と為りし折柄、敵々米国水師総督ヘルリは、当時日本に比類なき四隻の大艦を率ゐて、相州浦賀港入津事件の惹起するあり。世上所謂毛唐人なるものを嫌悪する当時の趨向は、国内尊王論と相俟つて、一種の反幕思潮は志士の口吻を介して、愈天下の耳目に喧しきを告ぐ。頃しも万延元年秋水戸烈公の歿するや、有繋は尊王思潮の本源地たる名に背かず、水戸は忽ち藩政弛みて、俄然君臣相殺す天狗の輩出と為り、筑波山、大平山は志士浪士の出没地と化して、骨肉相喰む黨争(尊王黨/幕府黨)に日も是れ足らざるが如く、やがては尊王の論客勢ひの非なるに及びて、郷を脱し家を捨て、次第に西漸して、江戸に侵入するあり。横浜に焼討を企つるあり。遠きは木曽路を辿りて京都に上るあり。何れも勤皇家を標榜して、天下人心を収撹するに西奔東走の多事にあり。
 此時に當りて、江戸幕府の消息を窺ふに、大老井伊直弼の安政の大獄以来は、奥州平藩主安藤信正、井伊の跡始末を継受して外交の衝にあり。而かも安藤の外交政策たる、即ち舊套襲蹈主義にして、開港及び公武一和の確立に全力を注ぐ所たり。然れば浪士は桜田門の変を以て、開港論の本源を絶ちて漸く安堵の昨今、安藤また前例に懲りずして、その抱持する政策を実行するに於ては、御機嫌斜ならざるは勿論にてありけるが、端なくも和宮(カズノミヤ)の御降嫁と為り、愈御東下の慶事を見るに至れり。それ和宮は既に有栖川宮家に御婚約にありしかど、這去井伊直弼存世に於て、即ち大老たる権威を揮つて、乱暴にも御婚約を破り、而かも無理まで通して、十四代将軍家茂の許に、御降嫁を強請したる内情のことゝて、其処置既に万人の咎むる程に、愈是が実現となりては、激論家が不倶戴天の仇の如くに看做せる公武一和策、再び其強固を見るに至りては、浪士たるもの憤慨せざるを得ず。茲に於て、私憤公憤今や絶頂に達し、人心熱狂して明日の変を知る可らす。幕府と浪士の間は愈険悪となる也。然れども幕府は皇妹の御降嫁に依りて、公武一和策だけは、兎に角安全の途も得たりと雖も、尚幕府有司に対しては、差し迫れる頭痛の
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種あるなり。即ちそは外交問題にして、時の大老井伊直弼の在世に於ける、彼の安政の假り條約に汲みて、開国政策を以て、外国よりの圧迫を和らげ得たりと雖も、是とて永久無限の程にも非ずして、悲しきかな、條約充許の期間は、當分の内なる條約付勅命なるを以て、遠からず、鎖国閉洋の攘夷策に復帰すべき筈にあり。然れば幕府有司當路者たるものは、何時までも安閑たるを得ざるは勿論にして、早晩対外政策を確定するの必要に迫り居るもの。さればこの難題につき、幕府當局者の所論を見るに安藤正信は、當時に無類の開国眼を以て、内治外交共に欧洲主義に則り、其結果は宮中方の攘夷論者に対し、まづ宇内の大勢を説き付けて、既に開国の餘義なきを含ましめ置き、以て開国策を取りて、これを国是となさゞるべからずと、提唱するもの。然るに同僚久世大和守廣周(関宿城主)は、必ずしも安藤の主義には反対するに非ずと雖も、突飛に開国策を持出して、京師に上るは、或は宮中違勅の責任を畏れ、さらばこの大問題を提けるに付けても、その下準備として、まづ京都の公卿と幕府の折合をして、円満ならしめ置く必要上、予めその内運動を急務と論ずるに至る。此時に當りて、幕閣硬軟の議論は、端なくも長州藩参政永井雅楽の耳に入る。依て永井は好事逸すべからずと、輙ち久世に公武周旋をば建言したりけり。されば軟派の久世廣周は、竊かに永井の言に賛して、今回の京都周旋を委嘱せんとしけるが。安藤、頑として聞かず。蓋し事もあるべきに、外様大名殊に徳川創業に於ける、関ヶ原の張本人たる長州藩の周旋に委するは、徳川幕府の威厳を損ふを以て、須く幕府直参に如かじと云ふあり。茲に於て、幕府の内部には議論二派に分れて、互に仇敵視し、これに攘夷論者が雷同して、いよ/\安藤は孤立憎悪の人と為り、威望は地に落ちてその暗殺計画は、坂下門の要撃(文久二年正月とす)に変じたり。事茲に至りて、安藤も兜をぬがざるを得ず。依て安藤は遂に退隠するに至りて、即ち久世の独占舞台は来りぬ。されば京都周旋に関する長藩永井との妥協案は、いよ/\久世の持説の通りに、京都に実行を見んとす。
 元来永井なる者は、周布政之助と共に、當時長州藩要路の人なり。其の性格を釋ぬれば、甘言玉を解かすの類にして、即ち口の人なり。されば斯る素
【コマ 63】
性の人なる故、藩主を手玉に取りて、毛利侯の信任殊の外厚きは勿論なれども、斯る性格の人に限りて、下僚の信用薄きは、古今変らぬ通理、果たして長藩士その多くは、至つて周布に随従するものゝ如し。何となれば、長藩の大勢は、攘夷論に傾きつゝある折柄、吉田松陰の門下生は四方に潜伏し、次第に頭角を現はして萩に割拠し、先師が遺志を貫かんと、互に呼応して一物を畫するに、東西に熱中するにあり。長州の本国既に右の如くなるに至りて、その江戸詰重役桂小五郎(木戸孝允)等、水戸浪士に結託するありて、幕府と長州の持論は、両々千里の差を産みて氷炭相容れざる訳と為るなり。依て長藩とて、その大勢に見て、幕の久世と長の永井が妥協案には、悉く反対せざるを得ず。されば長藩士は、京都周旋を耳にしては、心竊かに永井の不心得を憤りて、何事をか起さんと敦圍くものとす。
 時に毛利侯には、永井を随へて上京の事あり。永井の所業を憤りし攘夷論者は、早馬を駆つて使を京に送り、而して公卿を巻き込めて、幕府の妥協案を受附ざらしめ置き、更に藩主上京を尾行して、永井を道中に於て暗殺の密計を立てたりと云ふの凶報来つて、御本尊の耳を驚かし、その成る可らざるを見て、永井は風を喰つて走る。されば切角の公武周旋は、暗殺の裏書に依て、見事失敗に帰着したるなり。然れどもこれ専ら長州藩内部の出来事、その外圍に群集せる浪人志士は、方今の形勢に見て、永井の作業を以て、長州と即断し、最早長藩の頼むに足らざるを嘆じて、次第に薩摩に帰順せり。
 長藩の永井が、公武周旋を約する事に於て、天下浪人の嘱望は、忽ち薩州に注ぐに至りし所以のものは、蓋し薩藩西郷吉之助(隆盛)等の一組が、先代、幕府大老井伊の奸謀を挫かんとして、僧月照等と共に、義兵の挙ありしを以てなり。
 文久二年四月に至れば、薩州藩島津和泉守久光、参覲(さんきん)の報あり。浪人志士之を目して西郷及月照等が、義兵を実現する第二の関ヶ原と夢想し、筑前平野次郎、出羽清川八郎の如き神経過敏家は、久光の上京に対して、一種の深き意味を含ましめ、浪人の糾合に大奔走を開始し、而して久光の上京と共に
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( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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