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2018.02/22(THU)

子爵谷干城傳 平尾道雄著・マツノ書店(復刻版)




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子爵谷干城傳 平尾道雄著・マツノ書店(復刻版)
 マツノ書店さんから出版の案内が届いた。今回は..
  1.久坂玄瑞史料  16000円
  2.子爵谷干城伝  16000〃
  ※2点セット特価 30000円
  ※予約特価締切りは三月十日
     *
略目次(抜粋)
 東征藩兵大軍監 上
  ④ 江戸駐陣と関東の情勢
  ⑤ 安塚の役と壬生占拠
  ⑥ 日光進撃と霊廟保存
  ⑦ 今市駅の防禦戦
 東征藩兵大軍監 下
  ① 土佐藩兵の第二次出動
  ② 奥羽地方の戦況
  ③ 米沢藩勧降書
  ④ 会津若松城攻囲

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慶応3年(1867)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、板垣退助や毛利吉盛とともに京都の小松帯刀邸で、薩摩藩の西郷隆盛や吉井幸輔と会い、薩土討幕の密約(※薩土盟約とは異なる)を結んで武力討幕を目指した。明治元年(1868)の戊辰戦争では、板垣退助の率いる迅衝隊の大軍監として北関東・会津戦線で活躍する。明治3年(1870)には家禄 400石に加増され、仕置役(参政)や少参事として藩政改革に尽力した
--引用・要約;「谷干城」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.11/05(日)12;54--



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2017.11/02(THU)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 維新の巻(第一巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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維新の巻(第一巻)
幕末の薩長土肥 2
【コマ 64】
西郷も蹶起するなるべしと、その到るを待ち迎ふる様の如し。
 然るに薩摩藩にも穏和、激論の二大潮流あり。久光は前者の首領にして、堀次郎、中山忠左衛門、大久保市蔵の輩これに随従し。其激論黨には、二才衆と云へる一団、西郷を首領と為して、之が中抽たり。今回の上京は名こそ薩藩の上洛なるも、内部は両黨混入互に隙を狙つて、今にも爆発せむとするにあり。かくて是等の一行も、大阪までは極めて無事平穏なりしも、やがて京都伏見に到れば、待ち兼ねたる激論黨は、早くも群がる天下浪人志士と呼応して、いよ/\幕府反対の旗幟を立てゝ、関白九條常忠公及び所司代酒井忠義を斬殺し、京都の大勢を決定して、而して島津久光の態度を動かさんとの謀議は、伏見の旅館寺田屋に於て、暗々裏に決定せられたり。思ひも依らぬ寺田屋の謀議、是を聞きて穏和黨の狼狽一方ならず、主謀の者を探れば、又もや西郷隆盛、今や此爆発の黒幕となりて、危険云ふ可らず、依て西郷を捕へ、帰国せしめて流罪に処し、徒黨斬滅を令するに至りて、浪人の腹案こそは、実に意外の凶変に遭遇したるものと云ふべし。島津侯の探索急なり、巨魁平野等は捕へられ、浅川等江戸へ遁れ、激論黨の密計も水泡に帰着す。是所謂寺田屋事件にして、薩州島津は、佐幕本領を遺憾なく発揮したる訳なるを以て、不平満々として、長藩より遁れて、折角薩藩に投じたる浪士、寺田屋事件を望み見ては、失望落胆たゝ憤々大息あり。されば形勢の非なるもの、みな不平を鳴らして四方に散逸し、又もや長州へと接近するに至る。何と厄介至極の浪人ぞや。
 薩長の形勢に次ぎて、方今に於ける土佐の内情を見るに、土佐藩主山内容堂侯は、徳川家に系縁あるのみならず、穏和黨の有力者なり。然ればこれに補佐役たる、参政吉田元吉、同後藤象次郎等は、能く佐幕の政策を維持し、藩論を統一するに努めし所ありけるも、時勢は又激論黨の侵す所とはなりて、志士は京師の間に往行するあり。武市半平太、その巨魁となる。
 武市は、早く其藩を脱して、身は土佐の浪人を自負し、竊かに京師に潜みて、同志の間に気脈を通じ居りしもの。常々京師と土佐を往行して、時勢を説きて藩土を煽動せしかば、志士風に臨むで同するもの、坂本龍馬中岡慎之
【コマ 65】
助を始め、脱藩浪士は次第に蔓延して、皆激論思想に熱狂するに至れり。されば浪士の十八番として、論難囂々勢の激する所風を起し、遂に参政吉田元吉をば暗殺するに至りて、土佐の形勢は愈々不穏の兆を来したり。茲に於て、吉田参政の死後は、後藤象次郎、是に代つて土佐藩に要路の職たり。依て藩内過激の妄論を望み見て、其藩政改革に着手すべく、激徒鎮圧の策を講ずるに頗る是が憂慮する所にてありき。
 夫れ薩長土肥は、幕末の有力なる四藩にして、長州は極端なる倒幕激論黨なり。薩州は倒幕佐幕両立にして、寧ろ佐幕黨優勢にあり。其土州は大勢佐幕と、まづ旗幟鮮明たるに反して、其肥前藩に於けるや、両黨全く傍観の態度にあり。蓋し藩主齊正侯が、両黨の接遇に付きては、所謂不得要領主義を以てする藩政の致す所ならん。然れどもその閉窓せる態度は、却つて両黨より不快を以て迎へらるゝものゝ如し。
 然れども、肥前藩は、時勢に慮して、徒に藩論の発表を避けつゝ、隠秘の裡に学問技芸を励まし、他日飛躍の時期に至りて、暗中総挙の企てに備へんとはなしたるものゝ如し、然れば之を知る者は、深く肥前を刮目監視したりと云ふ。されど藩内鳴りを殺すの態度は、全く外見のみにして、其内部たる既に激論分子の排出あり。即ち副島種臣、江藤新平、大隈重信の如きは、頗著なる過激家として数ふべき也。彼等諸国浪人の妄言を耳にしては、如何にしても腰を落付け置く能はず、過激の思想に、血湧き、肉踊りて、竊に藩を脱し、肥前の浪人を気取つて、京師浪人の巣窟に出没せむとしたる事一再ならず。加之。今は激徒煽動の危険人物として、環視せらるゝに至りしと云ふ。江藤新平の乱や、大隈重信の気焔を以て見るも、確かに尋常一様には非ざりしなるべし。然り、彼等浪人たらむとして、熱を吐いて、抜け殻と為りしこと幾度、然れども脱走の都度追手に捕へられて、帰国と共に学堂に詰め込まるゝが常、敢て暴挙の機会なかりしは、大幸の至りと云ふべし。
[附記] 肥前藩過敏家江藤が、其同志を煽動するに奔走せし當時の書翰は頗る天下の消息を知る便あり。左に摘抄すべし。(江藤新平が国元に送りしものゝ由)
一、 今日の問題は公武合体、尊王攘夷にして両黨の争奪、衝突は遠からず実現すべく、奸雄私曲を謀する好機会を与ふると共に、夷狄の窺ひ乗ずる機運に瀕す
【コマ 66】
るに至るべし。
一、 近世幕府は政略を以て国政に起ち、其残骸を保たんとするものゝ如し。元来幕府は武力を以て起ちしものにして、実力なくば既に其存在の必要を認めず。然るに政略を以て之を持続せんとするは、根拠なき空位なるべく亡滅必至遠きに非ず。時運は倒幕以て天皇親政を要望す。
一、 幕府有司久世及び長州藩永井の妥協は長州藩の不平□、勝を制して、妥協水泡となり俗説紛紜(ふんうん)たり。
一、 薩は長に依りて議を変じ、長は薩に依りて論を変じ、薩長両藩は道を二つに求めて相反目し、両藩亦内部に議論四分五裂、其の帰着するを知らず。
一、 国政多事之を双肩に荷負ふ敏腕家、天下幾人ありや。水戸烈公薩州斉彬公及び吾が藩公より外なし。然るに前二公既に死去す、之れ吾が公の一奮発すべき機会にして、天下亦此に嘱望する事厚し。
    *
當時の浪人が天下国家を論じて、東奔西走の運動費は、主として激論黨の巨魁より貢がれしと雖も、尚不足するは勿論なり。茲に於て浪士等は、一人一日一百文の貯金を為せしといふ。當時の一百文、現代の一銭也。若し其力なき者は、書籍を筆写し、是を書店に売却して、筆耕料を得るなりと。
end
( 1へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

江藤新平
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小笠原唯八墓、小笠原謙吉墓(西軍墓地)(2015.05/06)



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2017.10/28(SAT)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 維新の巻(第一巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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維新の巻(第一巻)
【コマ 60】
幕末の薩長土肥 1
 夫れ国学は泰平の安きに人心を啓発し其結果は尊王賊覇論(治国は王道に俟つべく武門の是に當るは変則的政治なり)復古説(歴史的観念に従ひ、往時に於ける吾皇権隆盛時代を回想し武家政治を打破して皇権政治とす)天皇中心論(天皇を政務の中枢に、諸多公卿及び武家は随従的に参政すべし)等を産むに至りて、吾が建国の歴史は治国の大権皇室に属し、名分愈確認せらるるにつれ、その幕府なる武家政治が、果して吾が国體に相容るゝべき哉、否や。世上漸く是を疑ふに至りしのみならず、今は却変則異例なるに、学者政客の等しく公認する所とは為りたり。さらば幕末に於ける政権論、是等幾多変遷跡を辿りて、遂には幕政に対立するの風潮と化し、同志相需めて派
【コマ 61】
を為し、党を結びて、勢の激する所幕府破壊を論じ、政体改革を絶叫して、尊王の大義を説くに至る。かくて時勢の推移は復古の萌芽をして、武門の権に超脱せしめて、国論いよ/\鼎立と為りし折柄、敵々米国水師総督ヘルリは、当時日本に比類なき四隻の大艦を率ゐて、相州浦賀港入津事件の惹起するあり。世上所謂毛唐人なるものを嫌悪する当時の趨向は、国内尊王論と相俟つて、一種の反幕思潮は志士の口吻を介して、愈天下の耳目に喧しきを告ぐ。頃しも万延元年秋水戸烈公の歿するや、有繋は尊王思潮の本源地たる名に背かず、水戸は忽ち藩政弛みて、俄然君臣相殺す天狗の輩出と為り、筑波山、大平山は志士浪士の出没地と化して、骨肉相喰む黨争(尊王黨/幕府黨)に日も是れ足らざるが如く、やがては尊王の論客勢ひの非なるに及びて、郷を脱し家を捨て、次第に西漸して、江戸に侵入するあり。横浜に焼討を企つるあり。遠きは木曽路を辿りて京都に上るあり。何れも勤皇家を標榜して、天下人心を収撹するに西奔東走の多事にあり。
 此時に當りて、江戸幕府の消息を窺ふに、大老井伊直弼の安政の大獄以来は、奥州平藩主安藤信正、井伊の跡始末を継受して外交の衝にあり。而かも安藤の外交政策たる、即ち舊套襲蹈主義にして、開港及び公武一和の確立に全力を注ぐ所たり。然れば浪士は桜田門の変を以て、開港論の本源を絶ちて漸く安堵の昨今、安藤また前例に懲りずして、その抱持する政策を実行するに於ては、御機嫌斜ならざるは勿論にてありけるが、端なくも和宮(カズノミヤ)の御降嫁と為り、愈御東下の慶事を見るに至れり。それ和宮は既に有栖川宮家に御婚約にありしかど、這去井伊直弼存世に於て、即ち大老たる権威を揮つて、乱暴にも御婚約を破り、而かも無理まで通して、十四代将軍家茂の許に、御降嫁を強請したる内情のことゝて、其処置既に万人の咎むる程に、愈是が実現となりては、激論家が不倶戴天の仇の如くに看做せる公武一和策、再び其強固を見るに至りては、浪士たるもの憤慨せざるを得ず。茲に於て、私憤公憤今や絶頂に達し、人心熱狂して明日の変を知る可らす。幕府と浪士の間は愈険悪となる也。然れども幕府は皇妹の御降嫁に依りて、公武一和策だけは、兎に角安全の途も得たりと雖も、尚幕府有司に対しては、差し迫れる頭痛の
【コマ 62】
種あるなり。即ちそは外交問題にして、時の大老井伊直弼の在世に於ける、彼の安政の假り條約に汲みて、開国政策を以て、外国よりの圧迫を和らげ得たりと雖も、是とて永久無限の程にも非ずして、悲しきかな、條約充許の期間は、當分の内なる條約付勅命なるを以て、遠からず、鎖国閉洋の攘夷策に復帰すべき筈にあり。然れば幕府有司當路者たるものは、何時までも安閑たるを得ざるは勿論にして、早晩対外政策を確定するの必要に迫り居るもの。さればこの難題につき、幕府當局者の所論を見るに安藤正信は、當時に無類の開国眼を以て、内治外交共に欧洲主義に則り、其結果は宮中方の攘夷論者に対し、まづ宇内の大勢を説き付けて、既に開国の餘義なきを含ましめ置き、以て開国策を取りて、これを国是となさゞるべからずと、提唱するもの。然るに同僚久世大和守廣周(関宿城主)は、必ずしも安藤の主義には反対するに非ずと雖も、突飛に開国策を持出して、京師に上るは、或は宮中違勅の責任を畏れ、さらばこの大問題を提けるに付けても、その下準備として、まづ京都の公卿と幕府の折合をして、円満ならしめ置く必要上、予めその内運動を急務と論ずるに至る。此時に當りて、幕閣硬軟の議論は、端なくも長州藩参政永井雅楽の耳に入る。依て永井は好事逸すべからずと、輙ち久世に公武周旋をば建言したりけり。されば軟派の久世廣周は、竊かに永井の言に賛して、今回の京都周旋を委嘱せんとしけるが。安藤、頑として聞かず。蓋し事もあるべきに、外様大名殊に徳川創業に於ける、関ヶ原の張本人たる長州藩の周旋に委するは、徳川幕府の威厳を損ふを以て、須く幕府直参に如かじと云ふあり。茲に於て、幕府の内部には議論二派に分れて、互に仇敵視し、これに攘夷論者が雷同して、いよ/\安藤は孤立憎悪の人と為り、威望は地に落ちてその暗殺計画は、坂下門の要撃(文久二年正月とす)に変じたり。事茲に至りて、安藤も兜をぬがざるを得ず。依て安藤は遂に退隠するに至りて、即ち久世の独占舞台は来りぬ。されば京都周旋に関する長藩永井との妥協案は、いよ/\久世の持説の通りに、京都に実行を見んとす。
 元来永井なる者は、周布政之助と共に、當時長州藩要路の人なり。其の性格を釋ぬれば、甘言玉を解かすの類にして、即ち口の人なり。されば斯る素
【コマ 63】
性の人なる故、藩主を手玉に取りて、毛利侯の信任殊の外厚きは勿論なれども、斯る性格の人に限りて、下僚の信用薄きは、古今変らぬ通理、果たして長藩士その多くは、至つて周布に随従するものゝ如し。何となれば、長藩の大勢は、攘夷論に傾きつゝある折柄、吉田松陰の門下生は四方に潜伏し、次第に頭角を現はして萩に割拠し、先師が遺志を貫かんと、互に呼応して一物を畫するに、東西に熱中するにあり。長州の本国既に右の如くなるに至りて、その江戸詰重役桂小五郎(木戸孝允)等、水戸浪士に結託するありて、幕府と長州の持論は、両々千里の差を産みて氷炭相容れざる訳と為るなり。依て長藩とて、その大勢に見て、幕の久世と長の永井が妥協案には、悉く反対せざるを得ず。されば長藩士は、京都周旋を耳にしては、心竊かに永井の不心得を憤りて、何事をか起さんと敦圍くものとす。
 時に毛利侯には、永井を随へて上京の事あり。永井の所業を憤りし攘夷論者は、早馬を駆つて使を京に送り、而して公卿を巻き込めて、幕府の妥協案を受附ざらしめ置き、更に藩主上京を尾行して、永井を道中に於て暗殺の密計を立てたりと云ふの凶報来つて、御本尊の耳を驚かし、その成る可らざるを見て、永井は風を喰つて走る。されば切角の公武周旋は、暗殺の裏書に依て、見事失敗に帰着したるなり。然れどもこれ専ら長州藩内部の出来事、その外圍に群集せる浪人志士は、方今の形勢に見て、永井の作業を以て、長州と即断し、最早長藩の頼むに足らざるを嘆じて、次第に薩摩に帰順せり。
 長藩の永井が、公武周旋を約する事に於て、天下浪人の嘱望は、忽ち薩州に注ぐに至りし所以のものは、蓋し薩藩西郷吉之助(隆盛)等の一組が、先代、幕府大老井伊の奸謀を挫かんとして、僧月照等と共に、義兵の挙ありしを以てなり。
 文久二年四月に至れば、薩州藩島津和泉守久光、参覲(さんきん)の報あり。浪人志士之を目して西郷及月照等が、義兵を実現する第二の関ヶ原と夢想し、筑前平野次郎、出羽清川八郎の如き神経過敏家は、久光の上京に対して、一種の深き意味を含ましめ、浪人の糾合に大奔走を開始し、而して久光の上京と共に
【コマ 64】
( 2へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2017.04/25(TUE)

川路大警視 彰義隊の撃滅
マツノ書店復刻版




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目次 ※一部
第一章 少年時代と其環境
第二章 島津斉彬公の偉大なる感化と訓陶
 一、斉彬公の襲封と士民の翹望
 二、開国進取主義と富国強兵策
 三、大義名分上千古の卓識
 四、公の薨去と士民の慟哭
第三章 藩内外に於ける君の活動
 一、文久二年の上京と出府
 二、久光公の帰国と海防準備
 三、文久三年の薩英戦争と再度の上洛
第四章 王政復古と戊辰役
 一、比志島青年の指導訓練
 二、太守茂久公の上京と利良君等の従軍
 三、戊辰役と利良君等の転戦
    戊辰役の導火線
    鳥羽伏見の戦
    比志島抜刀隊の奮撃
 四、利良君東征の途に上る
    宇都宮其他の形勢視察
    江戸開城と利良君の入城

「川路大警視」マツノ書店復刻版、p.74
慶応 4年(1868)
彰義隊の撃滅
慶喜恭順の意を表するや舊幕臣の之に服せざる者相結び、彰義隊と称して上野東叡山に據り、輪王寺宮公現
法親王を奉じて、徳川氏の恢復を計る、澁澤誠一郎之が隊長たり。五月十五日、西郷南洲大村益次郎等、薩
摩、長州、肥後、備前、大村、佐土原諸藩の兵を以て東叡山に迫り一は正面の黒門口より向ひ、一は本郷湯
島台方面より背腹を衝く、・・・
--引用;川路大警視・中村徳五郎著--

    東北の転戦
    凱旋賞賜と兵具奉行の任命
第五章 明治新政と警察制度の創設
第六章 征韓論の破裂と利良君の態度
第七章 警視庁の創設と其活動
第八章 西南役と川路大警視
第九章 西南役後の大警視
第十章 大警視の餘栄遣芳
年譜
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川路大警視(2017.03/02)



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2017.03/06(MON)

越ノ山風 山縣有朋公




山縣公は慎重のうえにも慎重な性格であったらしい。そんな公の著作による「越ノ山風」の一節を以下に引用してupする(5月19日、新政府軍は長岡城を落としたが追討する余裕は無かった。7月25日、一度落とした城を同盟軍に奪還されて、その時の心境等を書いたものである)

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引用(部分);国立国会図書館デジタルコレクション/陸軍省編修掛編(陸軍省編修掛、1930)
【コマ 108】
越ノ山風 自七月廿六日/至十月七日
【コマ 109】
長岡ヲ取リ返サレタルコトハ、大イニ諸藩ノ人心ニ影響ヲ及ボシ、中ニハ急使ヲ京師ニ出シテ、事変ヲ報告スベキ乎ナド、照會シ来ルモノモアリタリ、余ハ三日ノ中ニ必ス長岡ヲ恢復スヘキニツキ改メテ京師ニ報告スルノ必要ナキ旨ヲ以テ、之ヲ斥ケタレドモ、要スルニ是レ敗餘ノ人心ヲ鎮静シ、以テ神速ニ攻撃ノ画策ヲ立ツルノ決心ニ過キス、諸兵ヲ集注シ、総テノ準備ヲ為スニハ、多少ノ時日ヲ要スルコト勿論ニシテ、長岡恢復ノ困難ナルコトハ、其実余ノ頭脳ヲ苦シメツヽアリシナリ
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山縣有朋記念館(2012.11/20)
長岡城落城(2015.01/24)



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2017.03/02(THU)

川路大警視 中村徳五郎[著]/マツノ書店復刻版




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川路大警視 /中村徳五郎[著]
付・大警視川路利良君伝/鈴木蘆堂[著]
維新史料出版・古書売買の「マツノ書店」さんから、予約限定復刻の案内が届いた。よく/\検討したうえで「川路大警視」のみの予約申込みをした
     *
「西南戦争」で陸軍少将を兼任。日本警察の父・川路利良を描いた稀書二点を合本復刻
--リーフレットから--
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幕末期の戦功
元治元年(1864)、禁門の変で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。慶応3年(1867)、藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学んだ
慶応4年(1868)、戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに薩摩官軍大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくる。東北に転戦し、磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したが、傷が癒えると会津戦争に参加。戦功により明治2年(1869)、藩の兵器奉行に昇進した
--引用・要約;「川路利良」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.02/21(火)23;50--



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2017.01/27(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 7
【コマ 323】
・・・
 折しも新発田藩主溝口伯耆守は、俄然として動静を一変せる形迹あり。茲に於て、津川に在りし桑名藩主松平定敬は、報を得て憂苦措く能はず、軍事奉行を送りて、往いて新発田を勸説し、同盟の實を挙ぐるに、藩主を津川に預らんとす。然れども新藩是を聴かず。されば六月十八日を以て、村松藩を先鋒として、會津、桑名、米澤の諸軍を以て、いよ/\新発田城に迫り、大に厳談に及べば、新藩畏怖して異心なきを誓ひ、兵を出して、奥羽軍と共に長岡口に向ふ。以来新発田藩の奮闘、接戦最も努むる所、諸軍、毫も其の異心を疑はず。然れども、新発田藩は、上野征伐につき、既に西軍に欵を通じたるもの、今奥羽軍に伍するも、一度西軍の圧迫を受くれば、旗幟暗々、奈何なる変轉も計る可らず。内実恰も薄氷を踏むにも似たりと云ふべし。若しそれ新発田が、終始一貫、その態度を奥羽軍と共にするあらば、越後口の戦争は、西軍百万を以て當るも、容易に抜く能はざるものゝ由、然るを事茲に出でざるは、會津を追落する唯一の動機となると云ふ。當時越後口西軍に歌はれたる軍歌を見るに「會津殿様トンボの性よ、新発田掃木(伯耆)に落され
【コマ 324】
た」とは、又以て知るべし。余談はさて措き、新発田先鋒とする奥羽軍は、直ちに見附の苦戦を挽回せんとして、南進するに至る。さる程に、曩き(さき)に見附に迫れる西軍は、新発田口奥羽軍の襲来を耳にして、各要衝の地に兵を配り、而して其進撃を阻隔せんとす。然れども奥羽軍は、見附を挽回せんとするもの、疾風迅雷、早くも前衛を破りて、二十二日には、見附に迫れり。時に西軍は福島及び大黒村に在りて、奥羽軍の後背を保つに至りしかば、長岡、會津、庄内の諸軍は、此所に迫りて勝敗を決せんとして進む。されば奥羽軍は初めより攻勢を取るものなるを以て、突戦頗る頑強を極め、砲銃の発射天地を破りて、硝煙朦々忽ち駅中を焼き、肉迫また疾風迅雷も啻ならず。會将佐川、早くも松代の陣を衝き、是を破つて長岡、庄内の諸軍を進ましむ。此間西軍の防戦は、必死をつくして大小の砲を発し、萬山みな呼応して轟声百雷に似たり。庄将石原多門、奇略を以て富山の陣を動かし、鼓声堂々大呼して猛撃す。須臾にして、松代の敗士は加軍と共に反撃し、岡軍の部署に當りて、弾丸雨注す。龍争虎闘、岡軍遂に苦戦となりて、米将中條豊後、同色部兵部、芋川大膳の率ゆる一隊、猛然起つて岡軍を保つに至る。烈戦奮闘、惨また惨を極めて、西軍遂に利非す、土崩瓦解となりて、弾薬砲車を掠奪せられたり。此時に當りて、西軍の一隊は捲土重来して、長岡城下を出発し、往いて大黒村方面の敵を防がんとす。奥羽軍一勝に乗じ、凱歌を挙げて長岡に向へは、両軍の先鋒は突如として相會し、而かも奥羽軍の狼狽殆んど戦守の策を失し、漸く水田に撒兵して防戦しけるが、折しも此所は粘土泥濘にして隊士半身濁水に在り。されば隊士の疲労は、苦戦の陣となりて、最早堪ゆる所に非ず、退きて福井村を保てば、此時新発田口の奥羽軍は、見附に戦つて遂に抜く能はず、今や塁を築きて対峙の姿にあり。此間に於て、西軍は大黒村の防備を益々固む。されば、奥羽軍は、西軍の戦陣その固きを望み見ては前日来の大敗戦に憤激措く能はず、猛然再興の勇を揮つて豨突せんとす。茲に於て、岡将河合継之助、自ら自藩の精鋭を督して急先鋒となり、而して福井村を発す。六月二十四日、岡軍は先陣の勇を揮つて、大黒村の駅外に至れば、遙かに見ゆる西軍の陣、忽然巨砲を発して、力拒甚だ熾ん也。依て後詰
【コマ 325】
の奥羽軍は、
・・・
( 8へ続く)
( 6へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2017.01/17(TUE)

壬生義士伝 吉村貫一郎
南部盛岡藩二駄二人扶持足軽、脱藩後新選組入隊




 み ぶ ぎ し で ん
「壬生義士伝」
 浅田次郎による日本の歴史小説。南部地方盛岡藩の脱藩浪士で新選組隊士の吉村貫一郎を題材とした時代小説である。新選組で守銭奴や出稼ぎ浪人などと呼ばれた吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞した
--引用・要約;「壬生義士伝」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.07/24(日)13;55--
     *
五稜郭に霧がたちこめる晩、若侍は参陣した。あってはならない“まさか”が起こった―義士・吉村の一生と、命に替えても守りたかった子供たちの物語が、関係者の“語り”で紡ぎだされる。吉村の真摯な一生に関わった人々の人生が見事に結実する壮大なクライマックス。第13回柴田錬三郎賞受賞の傑作長篇小説
--内容(「BOOK」データベースより)--

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盛岡藩

盛岡藩は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた

慶応4年(1868)
当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない

明治元年(1868)
  9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏
 10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が盛岡城に入城する
 10月14日 奥羽鎮撫総督府から沢宣種が入城、戦後処置を行う
 11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、藤川能登(藤川三渓)が入城。南部利剛、利恭の東京への護送、楢山佐渡・江幡五郎・佐々木直作ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う
 11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、久保田藩兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる
 12月 7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収
 12月17日 南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を課せられる(白石藩)
 12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は松代藩、松本藩、弘前藩の管理下となる
--引用・要約;「盛岡藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.12/03(土)00;09--

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 本を読んでいて、以前にtv放映(映画、2003年「壬生義士伝」)された中井貴一が演じた吉村貫一郎とどうしても重なって仕方がない
 吉村貫一郎は本名嘉村権太郎、幕末の盛岡藩士(二百石六人扶持)であり慶応元年一月に盛岡へ下向を命じられると出奔した。その後新選組の隊士となる(ウィキ)
現在伝わる吉村貫一郎像は、嘉村権太郎をモデルとした浅田次郎氏の創作であるらしい
--2017.03/24 更新--
     *
【二駄二人扶持】 一駄は馬が背の両側に背負う分の米で、つまり二俵、二駄で四俵。普通これを年に二度か三度に分けていただくから御切米と呼んだ。一人扶持は一日約五合、二人扶持で一日一升。一年で三六〇升(三六斗)、おおよそ十俵
--引用;「壬生義士伝」浅田次郎--



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2016.12/18(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 6
【コマ 321】
・・・
 時に與坂方面に於ては、西軍五百余人の一隊、島崎より進み来つて、突如北野の奥羽軍を襲ふに至りしかば、桑将町田老之丞は、本軍となりて是を防ぎ戦ひ、更に立見尚文は、左翼軍となりて、荒巻山に陣し、両道呼応して俯瞰して撃つ。然れども西軍は大兵のもの、即ち桑軍の寡を侮りて、接戦毫も倔する色なく、更に大砲隊を富岡山に送りて、烈戦奮闘、益々馬首肉迫して猛撃す。桑軍、寡兵と雖も、常に千兵の働きを為すもの、眼前この急迫を望むも、敢て動かず、志気を鼓舞して奮撃突戦、威風甚だ熾ん也。依て西軍は更に一隊を迂回せしめ、以て荒巻の後背を衝かしむるや。桑将立見尚文、猛然起つて、一挙して是を崩すに至る。砲戦天地を震裂し、激闘いよ/\酣となるに至りて、會軍来り是を援護すれば、庄軍又寺泊より駆け来つて、北野を保たむとす。桑軍驀進遂に北山に陣し、而して島崎攻撃の西軍を俯撃す。西軍、北山の変を望み見て大に驚き、兵を送りて是を防がしめんとすれば、早くも桑軍の為めに、島崎の駅中を焼討せらるゝに至りて、陣営惶擾殆んど為す能はず、兵器を捨てゝ、出雲崎にと逃げ走る。
 北越の戦陣、戦闘四方に起りて、攻防いよ/\多端を告ぐるも、新発田藩は尚閉息して、敢て傍観するには、奥羽軍の憤激一方ならず、依て今に於て一挙是を屠らんとす。然るに上杉弾正大弼は、遅々たる新発田の内情を察知
【コマ 322】
し、先づ温和手段を以て彼を収めんと、即ち六月五日を期して、藩主溝口伯耆守をば、親しく米藩に延見し、而して軍謀を建てんと申出でたり。然れども新発田藩は是を解するに、米藩、軍謀を名とするも、實は藩主の出陣を促がし、機に乗じて人質と為し、而して厳談を浴せ掛けるものと為し、一に是が防遏策を講じて、領民を扇動し、土寇を起して、藩主の出陣に反対せしむ。されば土民の狂乱いよ/\實物となりて、領内の騒動言語に絶し、切角来りし米藩の重臣も、是を望み見て同情満身に溢れ、旨を報じて、その会見を中止せざるを得ざりき。
 六月八日、奥羽軍は見附宿の総攻撃を決す。時に西軍はその大口及び十二潟の要衝に厳備をつくし、以て見附の前衛陣を張るにあり。茲に於て、奥羽軍は長岡、米澤、會津、庄内、仙台の大勢を本道に進め、巨砲十数門是を川岸に配置して攻撃の陣を固むるや、更に千坂の大兵を前進せしめて、一呼して此所を猛撃すれば、大口及び十二潟の西軍陣は、一度に瓦解して、敗士は皆見附に走る。されば連勝に乗ずる奥羽軍、喊声今や百雷の如く、馬首は勇んで愈見附に迫る。長岡、會津、庄内の諸軍は、七軒村より進撃し。木本、砲兵の部隊は、福井村より進み。衝鋒、遊撃、新遊撃、浩義、金田及び仙軍を以て、二手に分れて、大口及び十二潟より進み 更に七軒村右側は砲兵、浩義及び庄軍を以て是に當る。斯くて七軒村の會軍は、一躍して本道関門を抜き、福井村の木本隊は、突進するに至りて、大口村方面は奥羽軍の向ふ所敵なし。依て西軍は主力を駅中に収めて、守死防戦、百砲を発して猛勢侮る可らず、攻守の激闘天地唯だ轟々として砲声四面を破り、萬山鳴動して互に勝敗あり。然れども数道より攻め上る奥羽軍の鋭鋒は、忽ちにして胸壁を抜き、陣営に乱入して、鬨を挙げて全軍を躍進せしむ。血戦激闘十数合、龍争虎撃の間に、西軍の苦戦も遂に其堪ゆる所に非ず、隊士の死傷山積して、見附の西軍こゝに壌乱せり。
 見附の敗戦に西軍はその回復を計る為め、敗兵尚ほ援を収めて、主力を五泉及び福井村に駐屯するに至れり。茲に於て、木本隊は福井口に胸壁を築き 岡軍は、五泉口に虎視を張りて、西軍の動静を警戒せしむ。六月十三日に至
【コマ 323】
りて、西軍は砲銃を乱発して突進す。捲土重来。奥羽軍の殊守殆んど計を失して、苦戦堪ゆ可らず、急騎を飛ばして、援を見附に乞へば、會津、庄内、米澤の諸軍は、佐川會将と共に、長駆して是を保つて烈戦奮闘、尚ほ敵する能はざるに至りて、後詰の諸軍は岡将河合継之助に率ゐられて、漸く敗陣を守るに至る。然れども西軍の鋭鋒は、大勢の陣を以て押し寄せ、急転直下、弾丸雨注して益々肉迫するには、奥羽軍みな辟易して防ぐ能はず、先を競ふて見附に敗走し来る。両軍堅闘烈戦相當り、砲声日夜に亘りて、益々弾を込めて戦ふ。龍争虎撃、屍山血河となりて、勝敗尚決せず、惨風吹き巻き起りて、奥羽軍の兵気は次第に沈下するのみ。やがて六月十七日に至れば、奥羽軍の戦闘力は、最早持久の策も尽きて、漸く残塁を固守するに過ぎず。是に反して西軍は益々兵を動かし、包囲の圧迫は日を逐ふて厳を極め、更に精鋭なる別軍は、福井村より迂回して、見附の後背を圧迫するに至る。奥羽軍の鏖戦、みな苦闘の間に隊士は四散し、弾つき、力つきて、最早手の出づるの策無し。
 ・・・
( 7へ続く)
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--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.12/02(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 5
【コマ 320】
 金崎に於ける西軍の一敗、雷塚の陣、また守備弛む。茲に於て、桑軍は突如横背に現はれ、疾駆して弾丸雨注するや。西軍惶擾殆んど戦守に苦しみ、土崩瓦解となりて、鹽の入嶺に敗走す。依て二十八日、奥羽軍一勝の勢に乗じ、桑軍を先鋒として来り是を攻めけるが、敗士今や四方より群集して今や大勢の陣、桑軍破竹の勢ひを以てするも、何ぞ一手を以て抜くべくも非ず。茲に於て、兵を引き揚げ、而して本道の味方と合撃せんとす。時に西軍の一隊は、島崎に侵入の報あり。依て桑将町田老之亟は、北野の要衝に到りて、その到るを扼守す。さる程に、本道進撃の會津、村上、上ノ山の諸軍は、進み来つて遠浦に陣し、以て長軍奇兵隊と接戦猛烈也。元来長の奇兵隊は、兵制を改良して、教練また本邦第一と称するもの、その作戦の巧妙勇敢の術技奥羽軍を壓すること數等。されば是を對敵とする奥羽軍、また如何に困難なりしぞ。龍争虎撃、銃戦遂に破れしかば、見る/\蛍勇を揮つて、抜刀して突進す。血戦激闘、死傷相當り、有繫(さすが)の奇兵隊も遂に守りを失して潰走す。時既に桑軍の一隊は大山に迫り、砲声三方に湧きて天地轟々、萬山震裂して奥軍利あらず。
 五月二十九日、會津、桑名、上山の諸軍は大山を発し、根小屋に到つて、夜の明くるを待ち、六月一日の暁氣を侵して、小島谷より阿弥陀山に豨突すれば、此所は西軍の守備百砲を発し、弾丸を注ぐこと雨霰の如し。依て桑将大平九右衛門は、一隊を率ゐて備後山より背撃せんと、麓を迂回して兵を進むれば、又もや起る西軍の射撃陣、発銃一斉に弾丸を送って、遂に桑軍を破り、督将大平九右衛門を殪すに至る。茲に於て、桑軍みな小島谷に退かさるを得ざりき。されば桑軍督将立見尚文は、味方の敗戦に憤激措く能はず、是より寺泊に進みて、庄内、會津の諸軍と合し、以て出雲崎を攻撃せんとす。されど會藩是に賛せず、議、遂に決せずして此所に宿陣せざるを得ず。
 六月二日に至れば、本道進撃の奥羽軍先鋒は、道中雨露の困苦を凌んで、漸く今町に達す。然るに此所には、既に西軍の陣するありて、薩州、長州、高田、松代、富山の諸軍、部署を保つて巨弾を連発す。會将佐川官兵衛、隊
【コマ 321】
士を激督して猛進すれば、西軍の胸壁は白煙朦々銃丸雨注して、防戦最も頑強也。攻防烈戦、龍争虎闘となりて、勝敗決せず、両軍の死傷惨また惨を極む。折しも猛弾は信濃川対岸より飛び来つて、西軍の後背陣を襲ふに至る。西軍愕動殆んど為す所を知らず、後顧の憂色今や陣頭に漲りて、部署大に弛めり。何ぞ計らん、米軍督将千坂太郎左衛門、衝鋒、遊撃、新遊撃、浩義、金田の諸軍を率ゐて、対岸に雄飛せるを。茲に於て、本道の奥羽軍は、一斉に躍進して益々弾を注ぎ、南北挟撃の陣形に、志気昇天の慨を示すに至れり さる程に、庄軍の一隊は今町を始め、中ノ島、千戸の各部落に侵入して火を放ち、駅中を焼き払つて、西軍に肉迫すること豨突迅雷、威勢甚だ猛悪なり。さる程に、奥羽軍の突入は四方に起りて、大呼の壓迫何ぞ西軍の堪ゆる所ならんや、見る/\土崩瓦解となりて敗走す。
 時に與坂方面に於ては、
・・・
( 6へ続く)
( 4へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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