カテゴリ:>函館市( 9 )

2018.05/21(MON)

五稜郭 2 函館市五稜郭町 44
タワーからの写真と...




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写真;2018.04/25
※ 写真右に箱館奉行所?
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五稜郭(2018.04/30)



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2018.05/11(FRI)

中島三郎助父子最後の地 函館市中島町 36-12




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写真;2018.04/25
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中島三郎助父子最後の地
 中島三郎助は浦賀奉行配下の役人であったが、安政2(1855)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となった
 維新後、明治元(1868)年10月、彼は榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道に来た。函館戦争では、五稜郭の前線基地であった千代ヶ岡陣屋の隊長として、浦賀時代の仲間とともに守備についた
 新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしたが、中島はそれを謝絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死した。「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残した
 昭和6(1931)年に、中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋のあったゆかりの地が中島町と名付けられた
--現地の案内板から--
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千代ヶ岡陣屋跡(2018.05/10)
(三)千代ヶ岡の追落(2016.02/21)



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2018.05/11(FRI)

武田斐三郎先生顕彰碑 函館市五稜郭町 44-3(五稜郭)
たけだあやさぶろう




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写真;2018.04/25
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五稜郭築城設計及び監督
箱館奉行支配諸術調所教授役
武田斐三郎先生
 顕 彰 碑


五稜郭は我が国はじめての洋式築城で安政4年着工、7年の歳月を費して元治元年(1864)に竣功した
のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城 100年記念に当ってこの碑を建てた
  昭和39年(1964)7月18日 函館市
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2018.05/10(THU)

土方歳三最期の地 函館市若松町 33-6(一本木関門跡)




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写真;2018.04/26
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土方歳三最期の地
 新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した
 明治元年(一八六八)十月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた
 翌二年四月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現北斗市)だけは最後まで落ちなかった
 しかし、同年五月十一日、ついに箱館も新政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、五十名の兵を率いて一本木(現若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に三十五歳であった
     函館市
--現地の案内板から--
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徳川義臣傳(土方歳三)(2014.11/23)



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2018.05/10(THU)

千代ヶ岡陣屋跡 函館市千代台町 23-7




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写真;2018.04/26
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千代ヶ岡陣屋跡
 文化5年(1808年)、幕府から蝦夷地(北海道)の警備を命じられた仙台藩が、択捉(えとろふ)などの出張陣屋の元陣屋として、現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯に、東西約 130m、南北約 150mの土塁を築き陣屋を置いたのが最初である
 安政2年(1855年)には、幕府が津軽藩に対して、西は乙部から神威(かむい)岬まで、東は箱館から恵山(えさん)岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都(すっつ)に設け、ここを元陣屋として受け持ったので、津軽陣屋、あるいは、このあたりの地名を取って千代ヶ岡陣屋とも呼ばれた
 明治元年(1868年)10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍が、五稜郭を本拠に弁天台場や津軽藩が引き揚げて空塁になっていた千代ヶ岡に兵を配置したが、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助らは壮烈な最期を遂げ、この陣屋は陥落した
     函館市
--現地の案内板から--
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2018.05/09(WED)

柳川熊吉翁の碑 函館市谷地頭町 1




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写真;2018.04/24
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柳川熊吉翁の碑
 柳川熊吉は、安政 3(1856)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献した
 明治 2(1869)年、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた
 明治 4年、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同 8年、旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正 2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた
     函館市
--現地の案内板から--
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碧血碑(2018.04/27)



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2018.04/30(MON)

箱館奉行所 函館市五稜郭町 44-3(五稜郭)




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箱館奉行所
箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭です
安政 4年(1857)に着工して 7年後の元治元年(1864)に完成し、蝦夷地の政治的中心となりました
明治維新の際には戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治 4年(1871)に奉行所庁舎は解体されました
それから 140年の時を経て、平成22年(2010)に箱館奉行所が復元されました
--現地の案内板から--

■ 復元された箱館奉行所
写真;2018.04/25
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五稜郭(2018.04/30)



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2018.04/30(MON)

五稜郭 函館市五稜郭町 44




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写真;2018.04/25
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特別史跡五稜郭跡
昭和27年 3月29日指定
 五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調書教授役で蘭学者の武田斐三郎成章により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。陵堡と呼ばれる 5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟がたてられました
 安政 4年に築造を開始して 7年後の元治元年に竣工、同年 6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治 2年 5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治 4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています
 五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています
--現地の案内板から--

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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史/五稜郭の包囲総攻撃(2016.02/26)



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2018.04/27(FRI)

碧血碑 函館市谷地頭町1




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写真;2018.04/24(合成)
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碧血碑
 箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている
 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される
 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである
     函館市
--現地の案内板から--
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■ 碧血碑台座裏面プレート
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明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志


■ 碧血碑
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■ 碧血碑はこの先
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箱館戦争史跡ほか【リンク・一覧】 (2018.05/09)



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