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2018.05/01(TUE)

佐藤安之助の墓 亀田郡大野村(北海道北斗市中山峠)




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写真;2018.04/25
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箱館戦争二股口の戦い
佐藤安之助の墓
 函館戦争の台場山を中心とした戦いは、明治2年(1869)4月13日から18日間にわたり乙部に上陸した新政府軍約 600人と榎本軍約 300人が、この台場山周辺で大激戦となり、新政府軍軍監駒井正五郎が戦死した
 この墓はその激戦で戦死した佐藤安之助のものである
 墓には「佐藤安之助鹿児島藩従者・明治2年4月24日」と刻まれているが、「弘前藩記事・戦死履歴」には「文政10年8月18日生・鹿児島藩伊集院宗次郎軍夫」、開拓使編「戦死人墳墓明細履歴書」に「42歳陸奥国津軽郡駒越村」とあるように、その履歴は、ほぼ明らかにされている
 駒越村とは岩木山の山麓の町で現在の岩木町である
 明治から大正時代、この場所に□(やまちょう)前田吉五郎が旅館を開業していたが、それを引き継いだ大野町市渡の横山重雄さんによるとお盆には遺族の方がお参りに見え、周辺の掃除や手入れをしていたという
     平成12年8月
     大野町教育委員会
--現地の案内板から--

・薩摩藩 佐藤安之助  要之助、弥之助とも/伊集院宗次郎隊軍夫/弘前藩領駒越村の農藤助の子/明治二年四月二十四日蝦夷二股で戦死/四十二歳/同地と函館護国神社に墓碑/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--


新政府軍陣地
写真;2018.04/25 ・下二股川を挟んで旧幕榎本軍と対峙した新政府軍の陣地跡
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(一)二俣口の戦(2016.09/18)



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2018.05/01(TUE)

箱館戦争二股口の戦い 亀田郡大野村(北海道北斗市中山峠)




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箱館戦争二股口の戦い
 明治元年(1869)10月、榎本武揚率いる艦隊は鷲ノ木に上陸した
 新政府軍に勝利した榎本政権は五稜郭に樹立した
 奪回をめざす新政府軍は江差方面から上陸し江差山道を通過するのは十分想定された。従って榎本軍は山沿いに散兵壕や台場を築き、下二股川の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た
 新政府軍は翌 2年(1869)、予想通り乙部・江差から上陸した約 600人が山道を通った
 一方榎本軍の土方歳三を隊長とする約 300人は台場山へ砲台も築き二股口で待ち構えていた。 4月13日(旧暦)、新政府軍は対岸にたどりつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しようと何度も試みるが土方隊の発砲で押し返された
 海岸線矢不来の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊は 5月 1日、陣地を放棄して五稜郭方面へ退却した
     平成12年 8月
     大野町教育委員会
--現地の案内板から--

写真;2018.04/25
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二股口の戦い 
経過
  4月13日午後 3時、江差から進軍してきた新政府軍は天狗山を攻略し、そのまま台場山本陣に対して攻撃を開始した。旧幕府軍は胸壁を盾に小銃で防戦し、熾烈な銃撃戦が展開された。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返し、迎え撃つ旧幕府軍も 2小隊ずつが交替で休憩をとりながら小銃を撃ち続けた。日没頃から雨が降り出すと、旧幕府軍では弾薬が濡れないように上着を掛けて守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かした。翌14日午前 7時頃、銃弾を撃ちつくした新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退。16時間に及んだ戦闘で、旧幕府軍は 3万5000発の弾丸を消費した。戦闘が終わったこの日、土方歳三は報告と援軍要請のために五稜郭へ向かっている
  4月16日、新政府軍の第二陣2400名が江差に上陸すると、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣され、弾薬と食糧も補給された。一方で、二股の堅塁を抜くことが容易ではないことを痛感した新政府軍は、 4月17日以降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き始める。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背後から二股口を攻める作戦であったが、この作業も困難を極めた。この間、旧幕府軍でも滝川充太郎率いる伝習士官隊 2個小隊が増強されている
  4月23日、福山藩が警備していた新政府軍の天狗山陣地に旧幕府軍の斥候が近づいて戦闘が始まる。同日午後 4時頃、胸壁突破を断念した新政府軍が急峻な崖によじ登って、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明、滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行した。滝川充太郎は馬上のまま敵中に突進し、隊士たちも一斉に抜刀して隊長に続いた。不意を付かれた新政府軍は混乱し、自軍の敗走を単身食い止めようとした駒井政五郎は銃弾を受けて戦死。それでも新政府軍は新しい兵を次々に投入するが、旧幕府軍を打ち破るには至らず、25日未明、ついに撤退した。一昼夜以上に及んだこの戦闘で、旧幕府軍は熱くなった銃身を桶水で冷やしながら小銃を撃ち続けた。新政府軍はこれ以降、台場山攻略をあきらめ、迂回路の構築に専念する
 二股口で土方軍が新政府軍の進撃を食い止めている一方で、松前と木古内は新政府軍に突破され、旧幕府軍は矢不来で守勢に回っていた。 4月29日、土方は援軍を派遣したが矢不来は突破され、これにより退路を絶たれる恐れがあった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる
--引用・要約;「二股口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.07/24(日)22;01--
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(一)二俣口の戦(2016.09/18)



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