2015.07/25(SAT)
徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
永井玄蕃

明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
明治十六年 十月三日 出版御届
同 十一月 出版
編輯人 東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
出版人 東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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永井玄蕃
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈7/31〉(引用)
永井玄蕃ハ幕臣にして尤も強勇の聞あり榎本以下の人々と共ニ品川沖より軍艦に乗じ直ちニ函館に走り上陸ニ及んで江刺を攻て破り又松前城をも乗取大ひニ勢を得てより榎本を総裁と為し其身も又副総裁を兼て遂ニ五稜郭をも陥れます/\官軍と相戦ひ頗る両軍に其名を知らる海陸の兵大擧して悉く脱兵の得る處となる其後諸士ニ代り降伏す
飛ちがふ弾丸の日毎にたへぬより今に小鳥の陰さへも見す
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ながい なおゆき
永井尚志
文化13年(1816)11月 3日
三河奥殿藩の第五代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれ、幼名を岩之丞、号を介堂といった。25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となる
嘉永 6年(1853)
目付として幕府から登用される
安政元年(1854)
長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手する
安政 5年(1858)
岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられ、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した
文久 2年(1862)
京都町奉行として復帰
元治元年(1864)
大目付となる
文久 3年(1863)の八月十八日の政変、
元治元年(1864) 7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷との交渉にあたる
慶応 3年(1867)
若年寄となり大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷地へ向かって箱館奉行となり、新政府軍と戦った。しかし、敗れて榎本と共に自決しようとしたが、周囲に止められて降伏した
明治 5年(1872)
明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、
明治 8年(1875)
元老院権大書記官に任じられた
明治24年(1891)7月1日
死去した。享年76
*
※ 幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた
※ 長崎海軍伝習所では、勝麟太郎、矢田堀鴻、木下利義、榎本釜次郎、肥田浜五郎、他数十人を教えた
※ 戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである
※ 戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った
※ 養子である永井岩之丞の長女・夏子は内務官僚の平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が作家の三島由紀夫で、尚志は三島の養高祖父にあたる
--引用・要約;「永井尚志」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.11/03(月)08:25--
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>箱館戦争 1/2(2014.10/07)
>箱館戦争 2/2(2014.10/08)
〈徳川義臣傳〉
>大鳥圭介(2014.06/08)
>秋月登之助(2014.06/10)
>松平太郎(2014.06/13)
>松平肥後守(2014.07/23)
>松平越中守(2014.08/31)
>丹羽左京太夫(2014.08/31)
>牧野越中守(2014.09/01)
>板倉伊賀守(2014.11/22)
>土方歳三(2014.11/23)
>榎本和泉守(2014.11/25)
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>永井玄蕃(2015.07/25)
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永井玄蕃

明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883
明治十六年 十月三日 出版御届
同 十一月 出版
編輯人 東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
出版人 東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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永井玄蕃
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈7/31〉(引用)
永井玄蕃ハ幕臣にして尤も強勇の聞あり榎本以下の人々と共ニ品川沖より軍艦に乗じ直ちニ函館に走り上陸ニ及んで江刺を攻て破り又松前城をも乗取大ひニ勢を得てより榎本を総裁と為し其身も又副総裁を兼て遂ニ五稜郭をも陥れます/\官軍と相戦ひ頗る両軍に其名を知らる海陸の兵大擧して悉く脱兵の得る處となる其後諸士ニ代り降伏す
飛ちがふ弾丸の日毎にたへぬより今に小鳥の陰さへも見す
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ながい なおゆき
永井尚志
文化13年(1816)11月 3日
三河奥殿藩の第五代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれ、幼名を岩之丞、号を介堂といった。25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となる
嘉永 6年(1853)
目付として幕府から登用される
安政元年(1854)
長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手する
安政 5年(1858)
岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられ、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した
文久 2年(1862)
京都町奉行として復帰
元治元年(1864)
大目付となる
文久 3年(1863)の八月十八日の政変、
元治元年(1864) 7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷との交渉にあたる
慶応 3年(1867)
若年寄となり大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷地へ向かって箱館奉行となり、新政府軍と戦った。しかし、敗れて榎本と共に自決しようとしたが、周囲に止められて降伏した
明治 5年(1872)
明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、
明治 8年(1875)
元老院権大書記官に任じられた
明治24年(1891)7月1日
死去した。享年76
*
※ 幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた
※ 長崎海軍伝習所では、勝麟太郎、矢田堀鴻、木下利義、榎本釜次郎、肥田浜五郎、他数十人を教えた
※ 戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである
※ 戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った
※ 養子である永井岩之丞の長女・夏子は内務官僚の平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が作家の三島由紀夫で、尚志は三島の養高祖父にあたる
--引用・要約;「永井尚志」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.11/03(月)08:25--
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〈徳川義臣傳〉
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by mo20933
| 2015-07-25 22:35
| 徳川義臣傳
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