2015.08/10(MON)
若松城下の戦・寒河江の戦~謹慎、幽居 会津若松~大山
以下、「桑名藩戊辰戦記」郡義武著・新人物往来社・1996年発行から引用/要約した
--------------------
慶応 4年(1868)
・若松城下の戦い
8月13日~24日
二十一日、母成峠を守る会津藩隊、大鳥圭介率いる旧幕府隊らが撃破されて新政府軍の侵入を阻めず、この報が若松城に届くと、興徳寺にあった桑名隊に出陣要請があり、雷神・致人・風神の三隊と大砲隊総数二百余名は大寺口(城北東八キロ)の守備についた
二十三日、「敵すでに城下に迫る」の報あり、大寺口を引き上げ若松城に向う。蚕養口(こがいぐち)に達し、なお突進して入城しようとするが、四方の敵猛烈に反攻して死傷者が続出した。このまま突進を続けても入城前に全滅の虞があり、蚕養神社に向け引き上げた
着いたのは申の刻(午後五時頃)であった。この時、若松城にいた桑名藩主定敬公は城下を脱し米沢へ向ったことを知る
桑名藩戦死者(若松城下の戦)
浅井照弥 金五郎の長男/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十二歳
浅野五郎 致人隊/銃士/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/十六歳
五十嵐蔵右衛門 軍事方下目付/東北転戦/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/三十三歳
岩崎助治 銃士/致人隊/明治元年八月二十三日若松で傷、九月四日桧原で死/同地・崇徳寺に墓
小沢源三郎 源太郎とも/足軽/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
加藤鋳介 明治元年八月二十三日若松で戦死(脱走、のち水戸地方で死とも)
上月亀太郎 雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
小寺清雄 清雅、清澄とも/銃士/致人隊/明治元年八月二十三日若松で傷、九月二十二日羽前庄内で死/十七歳/庄内・極楽寺に葬
小柳佳郎 寄合席/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
佐藤鉦蔵 明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十歳
品田金八 明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/三十三歳
鈴木久太郎 雷神隊/明治元年八月二十三日若松で戦死
田中久栄 御坊主/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で傷、山形で死/十八歳
橡尾恕三 書院番/致人隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十七歳
鳥飼次郎 致人隊/使番副長、のち軍監/金子時忠の二男で鳥飼正直の養子/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十八歳/会津塩川に葬、桑名・十念寺に墓
中村藤六 軍監/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/五十三歳
米富繁右衛門 嚮導役/雷神隊/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十四歳
和田勝太郎 致人隊/軍監助勤/明治元年八月二十三日若松馬喰町で戦死/二十三歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
・塩川
桑名隊は萱野権兵衛に別れの挨拶をすると、激しい戦闘で傷ついた隊士を介護し疲れた足取で塩川(若松北方十一キロ)に後退していった
石井勇次郎は日新館病院で加療中であったが定敬公の出立を見送るとその後を追い、軍事総宰服部半蔵は興徳寺に居て、敵城下乱入の時藩士数人と共に定敬公を追う
二十四日、服部半蔵ら塩川で桑名本隊と合流
唐津藩士八名、桑名隊と同行することとなる(雷神隊指揮下)
八月二十五日、塩川出立
二十六日、大塩
先発隊が檜原に向う。この先の檜原越に米沢藩は関門を設け、領内へ入ることを拒んだ(この頃米沢藩は降伏に傾いていた模様)。桑名本隊、やむなく大塩と檜原に分散して滞留する
二十九日、岩崎助二(致人隊/二十六歳)戦傷死、檜原崇徳寺に葬る
九月一日、定敬公、米沢→白石に着く
三日、〃 福島
・檜原 9月 8日~ 9日
明治元年(1868)
九月八日、米沢藩、転向して西軍先鋒となり大軍を動かし、この地を鎮撫せんと福島城下に入り「ただちに降伏されたし」と云う
改元し「明治」となる
九日、定敬公、福島を発し仙台に向う(このため、二日後に到着する立見鑑三郎、町田老之丞らに率いられた桑名本隊には逢えず)
・福島 9月11日~13日
桑名本隊は米沢へ向う関門の通過が出来ず、間道を福島方面に向う事に決した。本隊は夜を徹して急行
十一日夜、福島城下に入る
十三日、桑名本隊は庄内中村隊と共に庄内に向う
桑名本隊 二百六十名
庄内中村隊 二百五十名
福島藩降伏
・白石 9月14日
・川崎 9月15日
・山形 9月16日~18日
笹谷街道へ入り、途中笹谷峠の難所を越え関沢村で昼食。斥候を出して山形方面を探索、夕方山形城下に達した
・長崎 9月18日
十八日朝、山形を発した桑名本隊は長崎に到着し宿陣、庄内中村隊はその手前船町へ宿陣する。西軍は山形に集結しつつあり、ここ平坦地では守りに適せず、夕方一里後方の寒河江まで後退した
ここで手配りし、庄内山田隊(四番銃隊)と桑名町田隊(神風隊)は左沢(あてらざわ)方面守備、さらに庄内栗原隊(六番銃隊)は大井沢守備に分派した。結局、寒河江本道に陣したのは桑名雷神致人二隊、庄内三番五番銃隊のわずか四小隊三百名強であった
十八日、米沢軍を先鋒とし米沢城下を発した西軍薩摩藩主力(総督黒田了介)二千五百は、十九日山形に到着した
・薩摩二番遊撃隊、十番隊、外城三番隊、番兵二番隊、兵具方二番隊、兵具方三番隊の計六隊。これに二番砲隊右半隊と砲三門、加治木大砲隊左半隊と砲三門、すなわち砲六門と兵千百六十人。米沢軍は藩主上杉茂憲自ら兵九百を率いて柏倉に宿陣し、これに上山、新庄の兵、尾州一小隊が加わる
・寒河江の戦い
9月19日~20日
十九日夜、桑名庄内隊は寒河江に着
九月二十日払暁、山形を発した薩軍は長崎に達し最上川を渡河し、二手に分かれ東と南から寒河江の桑名庄内隊の宿営する地に近づいた。一方、柏倉にあった米沢軍も北上を開始して戦場へと近づき、早朝の奇襲態勢を整えた
この頃、桑名隊は町の中心本願寺前から道場小路にかけて朝食の用意をしており、庄内兵は少し早めの朝食中であった
この日はあいにく濃霧が街並を覆っていた。七時過ぎ、寒河江の南街はずれで突然銃声が聞こえ、斥候が山形街道を南に二キロほど駈けた古河江で、霧の中に突如現れた敵の大軍に遭遇した
桑名隊は兵を集め街はずれの新宿まで進み、沼川沿いに陣を敷く。銃撃戦が始まるが、敵、大軍でたちまち不利、戦死傷者相次ぎ後退する
庄内隊は市街地での防戦は不利と見るや、素早く西北一キロの長岡山に引き上げていた。桑名隊にとっての不幸は地理不案内であり、午前九時頃、霧の中に黒々と浮ぶ長岡山を指して引き上げる。長岡山はこんもり繁った赤松に覆われ、山頂北側には八幡神社、中央には造築中の代官所があった。先着していた庄内隊と態勢を立て直し守備陣を敷く。これより長岡山の激戦が開始されるのである
午前十時過ぎ、ようやく霧が晴れ視界が開けた。長岡山の桑名庄内陣に対し、西軍はまず砲撃を開始し、大砲の援護下に三方より押し寄せて来た。南からは米沢軍、東と北からは薩摩軍である
桑名隊は庄内隊と力を合わせて、まず南の米沢軍を迎え撃って引き退かせ、次同様に薩摩軍を撃つ。しかし、敵は新手を次々と繰り出した。桑名隊は長岡山を駈け下って後退に移るが四方に敵あり想像を絶する混戦であった
長岡山から西方五キロの白岩に引いて防戦する。さらに追撃した西軍と、寒河江川をはさんで約二時間銃撃戦を続けるが、南側正面からは薩摩軍が寒河江川を渡河し、東側慈恩寺方面からは米沢軍が迫る
午後五時過ぎ、白岩より北へ銅山越の悪路を引き上げる
桑名藩戦死者(寒河江の戦)
浅井金五郎 大砲隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十三歳
伊藤喜三郎 江戸足軽/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十歳
梅沢宗助 足軽嚮導/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/十九歳
岡安栄之進 致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/十七歳
金子覚弥 嚮導役/致人隊/柏崎足軽/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十一歳/庄内・専念寺に墓
河村正治 大砲隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十三歳
菊地伊助 雷神隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死
相馬芳右衛門 明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、二年三月四日羽前庄内で死/三十八歳/庄内・専念寺に墓
田中鎌五郎 雷神隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死
谷三十郎 軍監/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死
長島民蔵 大砲隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、庄内大山で死/二十四歳
長瀬金太 金八とも/嚮導/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十歳
樋口治左衛門 書院番/銃士/致人隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、十一月二十六日庄内大山で死/四十一歳/庄内・専念寺に墓
不破右門 大砲隊小隊頭/明治元年九月二十日羽前寒河江で傷、庄内大山で死/二十九歳/庄内・専念寺に墓
町田鎌五郎 老之丞の弟/致人隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十歳
三谷卯之右衛門 大砲隊軍監助勤/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十七歳
山脇仲右衛門 馬廻/雷神隊/明治元年九月二十日羽前寒河江で戦死/二十四歳
渡部浅右衛門 病院掛/明治元年九月羽前寒河江で傷、二年一月十一日庄内で死/庄内・専念寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
・肘折 9月21日
夜を徹して山道を歩き、翌二十一日昼頃肘折温泉に到着。夕方まで休息
さらに夜道を下る
・角川
・古口 9月21日
夜十二時頃古口に着す
・清川 9月22日~25日
翌九月二十二日、古口から最上川を舟行し清川に着す。翌二十三日、神風隊はこの地の守備についた。半隊は鶴岡への間道の板敷に、残り半隊は新巻山方面に布陣し西軍の侵攻に備えたのである
寒河江の激戦で手痛い損害を受けた雷神致人の二隊はそのまま清川に宿陣する
二十三日、会津藩降伏
・鶴岡 9月26日
二十六日、庄内藩降伏。桑名隊は庄内藩と共に降伏する
・大山 9月27日
桑名隊、清川より城下を避けて大山(鶴岡の西方六キロ)に移り謹慎する。謹慎、幽居は明治三年三月一日まで続くこととなる。総数二百三十名(桑名藩士約百七十名)、こんな大勢の桑名兵に分宿された大山の村民にとって、はなはだ迷惑であっただろうが、村民達は温かく持て成してくれた
※ 平成八年三月、「桑名藩戊辰戦争記」の筆者は、桑名藩士らが当時受けた厚遇の御礼をいうため大山を訪問されたそうである
※ 桑名藩主松平定敬公だが、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡り、箱館戦争終結前の明治二年(1869)四月、従者と共にアメリカ船に乗り横浜を経て上海へ渡る。しかし路銀不足で外国への逃亡を断念して同年五月十八日に横浜へ戻って降伏、明治五年(1872)一月六日に赦免された
end
>桑名藩戊辰戦記 東北の山野を血に染めて(2015.01/17)
>桑名藩戊辰戦記1鳥羽伏見~鯨波戦争(2015.01/22)
>桑名藩戊辰戦記2長岡城落城(2015.01/24)
>桑名藩戊辰戦記3与板攻防戦(2015.03/30)
>桑名藩戊辰戦記4北越最後の戦闘(2015.03/31)
>桑名藩戊辰戦記5若松城下の戦・寒河江の戦(2015.08/10)
■ リンク
・so-netブログ;
只今出掛ケテ居リマス