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箱館戦争二股口の戦い

2018.05/01(TUE)

箱館戦争二股口の戦い 亀田郡大野村(北海道北斗市中山峠)




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箱館戦争二股口の戦い
 明治元年(1869)10月、榎本武揚率いる艦隊は鷲ノ木に上陸した
 新政府軍に勝利した榎本政権は五稜郭に樹立した
 奪回をめざす新政府軍は江差方面から上陸し江差山道を通過するのは十分想定された。従って榎本軍は山沿いに散兵壕や台場を築き、下二股川の崖をはさんで反攻を防ぐ作戦に出た
 新政府軍は翌 2年(1869)、予想通り乙部・江差から上陸した約 600人が山道を通った
 一方榎本軍の土方歳三を隊長とする約 300人は台場山へ砲台も築き二股口で待ち構えていた。 4月13日(旧暦)、新政府軍は対岸にたどりつき戦闘が開始された。川を渡り天然の要塞である二股口を突破しようと何度も試みるが土方隊の発砲で押し返された
 海岸線矢不来の戦いで榎本軍が敗れたため、土方隊は 5月 1日、陣地を放棄して五稜郭方面へ退却した
     平成12年 8月
     大野町教育委員会
--現地の案内板から--

写真;2018.04/25
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二股口の戦い 
経過
  4月13日午後 3時、江差から進軍してきた新政府軍は天狗山を攻略し、そのまま台場山本陣に対して攻撃を開始した。旧幕府軍は胸壁を盾に小銃で防戦し、熾烈な銃撃戦が展開された。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返し、迎え撃つ旧幕府軍も 2小隊ずつが交替で休憩をとりながら小銃を撃ち続けた。日没頃から雨が降り出すと、旧幕府軍では弾薬が濡れないように上着を掛けて守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かした。翌14日午前 7時頃、銃弾を撃ちつくした新政府軍は疲労困憊して稲倉石まで撤退。16時間に及んだ戦闘で、旧幕府軍は 3万5000発の弾丸を消費した。戦闘が終わったこの日、土方歳三は報告と援軍要請のために五稜郭へ向かっている
  4月16日、新政府軍の第二陣2400名が江差に上陸すると、二股方面には薩摩・水戸藩兵などからなる援軍が派遣され、弾薬と食糧も補給された。一方で、二股の堅塁を抜くことが容易ではないことを痛感した新政府軍は、 4月17日以降、厚沢部から山を越えて内浦湾に至る道を山中に切り開き始める。ここから兵と銃砲弾薬を送り込んで、旧幕府軍の背後から二股口を攻める作戦であったが、この作業も困難を極めた。この間、旧幕府軍でも滝川充太郎率いる伝習士官隊 2個小隊が増強されている
  4月23日、福山藩が警備していた新政府軍の天狗山陣地に旧幕府軍の斥候が近づいて戦闘が始まる。同日午後 4時頃、胸壁突破を断念した新政府軍が急峻な崖によじ登って、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる。24日未明、滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行した。滝川充太郎は馬上のまま敵中に突進し、隊士たちも一斉に抜刀して隊長に続いた。不意を付かれた新政府軍は混乱し、自軍の敗走を単身食い止めようとした駒井政五郎は銃弾を受けて戦死。それでも新政府軍は新しい兵を次々に投入するが、旧幕府軍を打ち破るには至らず、25日未明、ついに撤退した。一昼夜以上に及んだこの戦闘で、旧幕府軍は熱くなった銃身を桶水で冷やしながら小銃を撃ち続けた。新政府軍はこれ以降、台場山攻略をあきらめ、迂回路の構築に専念する
 二股口で土方軍が新政府軍の進撃を食い止めている一方で、松前と木古内は新政府軍に突破され、旧幕府軍は矢不来で守勢に回っていた。 4月29日、土方は援軍を派遣したが矢不来は突破され、これにより退路を絶たれる恐れがあった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる
--引用・要約;「二股口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.07/24(日)22;01--
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(一)二俣口の戦(2016.09/18)
(二)二股口の敗報(2018.07/25)