西軍墓地(会津若松市)
2016.06/13(MON)
西軍墓地 会津若松市大町二丁目1-45・東明寺
写真;2016.06/06
西軍墓地入口門扉の家紋(左から)
・大垣藩 戸田氏 10万石
・薩摩藩 島津氏 77万石
・岡山藩 池田氏 31.5万石
・長州藩 毛利氏 36.9万石
・佐賀藩 鍋島氏 35.7万石
・土佐藩 山内氏 24.2万石
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以下、現地の案内板から
西軍墓地
この西軍墓地は戊辰戦役(一八六八)に従軍し此の会津の地に散華した西軍十余藩 一七四柱の精霊の眠る霊域である
回顧すれば星霜ここに九十年墓地亦著しく荒廃した、勇士の郷里各県は深くこれを憂え、相呼應して志願を結び、昭和三十二年九月十五日茲に墓地改修の工成り永く霊地の尊厳を護持することヽなった。同じく九月二十二日戊辰戦没九十年祭施行されるや関係各県代表として山口県知事小澤太郎氏参列し、この墓前に立ち郷土勇士の遺徳を讃仰し篤く敬弔の誠を表した
昭和三十三年九月□□
戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会
*
西軍墓地
戊辰戦争で会津に来攻した西軍のうち会津若松付近で戦死した将兵の墓で、会津藩の悲惨は極まったが、西軍もまた多くの血を流さなければならなかった
遠く故郷を離れ、戦乱の中に散っていった多くの命。会津の山河には、会津の人々の血だけではなく、他国の人たちの血もしみこんでいる
昭和32年、荒廃していた墓地を改修し、現在は西軍墳墓史跡保存会が清掃管理している
*
戊辰戦役西軍戰没者墓地
明治戊辰(明治元年、一八六八)の戰死した西軍の人々を葬った墓地である。明治二年四月現在の墓石が建てられてからは県の招魂社で管理をし祭祀をしてきたが今次大戰後は官修墓地の制もなくなったので西軍墳墓史跡保存会が年々祭祀を行ってきている
ここに葬られている各藩戰没者は次の通りである
土佐藩 四十九人
薩摩藩 三十三人
長州藩 二十四人
大垣藩 二十人
肥州藩 十一人
備州藩 六人
岡山藩 三人
館林藩 二人
越前藩 一人
藩籍不明 一人
計 百五十人
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>墓碑配置図(概略)
■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス
西軍墓地 会津若松市大町二丁目1-45・東明寺
写真;2016.06/06
西軍墓地入口門扉の家紋(左から)
・大垣藩 戸田氏 10万石
・薩摩藩 島津氏 77万石
・岡山藩 池田氏 31.5万石
・長州藩 毛利氏 36.9万石
・佐賀藩 鍋島氏 35.7万石
・土佐藩 山内氏 24.2万石
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以下、現地の案内板から
西軍墓地
この西軍墓地は戊辰戦役(一八六八)に従軍し此の会津の地に散華した西軍十余藩 一七四柱の精霊の眠る霊域である
回顧すれば星霜ここに九十年墓地亦著しく荒廃した、勇士の郷里各県は深くこれを憂え、相呼應して志願を結び、昭和三十二年九月十五日茲に墓地改修の工成り永く霊地の尊厳を護持することヽなった。同じく九月二十二日戊辰戦没九十年祭施行されるや関係各県代表として山口県知事小澤太郎氏参列し、この墓前に立ち郷土勇士の遺徳を讃仰し篤く敬弔の誠を表した
昭和三十三年九月□□
戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会
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西軍墓地
戊辰戦争で会津に来攻した西軍のうち会津若松付近で戦死した将兵の墓で、会津藩の悲惨は極まったが、西軍もまた多くの血を流さなければならなかった
遠く故郷を離れ、戦乱の中に散っていった多くの命。会津の山河には、会津の人々の血だけではなく、他国の人たちの血もしみこんでいる
昭和32年、荒廃していた墓地を改修し、現在は西軍墳墓史跡保存会が清掃管理している
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戊辰戦役西軍戰没者墓地
明治戊辰(明治元年、一八六八)の戰死した西軍の人々を葬った墓地である。明治二年四月現在の墓石が建てられてからは県の招魂社で管理をし祭祀をしてきたが今次大戰後は官修墓地の制もなくなったので西軍墳墓史跡保存会が年々祭祀を行ってきている
ここに葬られている各藩戰没者は次の通りである
土佐藩 四十九人
薩摩藩 三十三人
長州藩 二十四人
大垣藩 二十人
肥州藩 十一人
備州藩 六人
岡山藩 三人
館林藩 二人
越前藩 一人
藩籍不明 一人
計 百五十人
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>墓碑配置図(概略)
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by mo20933
| 2016-06-13 09:40
| 会津若松市