佐川官兵衛顕彰碑

2016.06/12(SUN)

佐川官兵衛顕彰碑 会津若松市追手町 1-1(鶴ヶ城三之丸)




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佐川官兵衛顕彰碑 解説
 佐川官兵衛は幼名を勝、諱を直清、天保二年(1831)年九月五日、禄高三百石の会津藩物頭佐川幸右衛門直道・俊子夫妻の長男として若松の五軒町に生まれた。剣と馬術、歌道に秀でた文武両道の士として知られ、慶応年間に上京、京都守護職であった主君松平容保のもと、京都日新館の学校奉行と別選組、諸生組の各隊長とを兼務した。別選組は刀槍の達人たち、諸生組は藩士子弟たちから成る部隊である。慶応四年(1868)、戊辰一月三日勃発の鳥羽伏見の戦いに、彼はこの二隊を率いて最前線で奮闘。五日に淀川堤で薩長勢と激突した時、刀は折れ、右目の上に銃創を負っても平然と指揮をつづけたことにより「鬼官兵衛」の異名をとった。その後会津に帰国してからは、朱雀四番士中隊の隊長として越後口へ出陣し、長岡藩家老河井継之助と共闘して「佐幕派強い者番付」にも武名を謳われた。八月九日、席次を家老に進められ、禄高を一千石に加増されたのも、容保にその指導力を高く評価されたためである。八月二十三日、鶴ヶ城への籠城戦が始まってからは、城外諸兵指揮役となり、二十九日には精鋭一千を率いて一大出激戦を敢行。ついで城下に遊撃戦を展開し、九月五日には桐野利秋を将とする薩軍一千を材木町の住吉河原に撃破した。籠城戦開始後、会津藩のあげた最大の勝利がこれである。同月二十二日、会津藩が城下の盟を余儀なくされてからは、謹慎。斗南での耐苦生活を経て、若松郊外に移り住み、旧藩士子弟に剣を教えるうち川路利良警視長に乞われて東京警視庁へ出仕した。明治七年にそろって奉職した旧藩士が三百人に達したことからも、その人望のほどが察せられる。そして明治十年ニ月、西南戦争が始まるや、一等大警部、警視第一方面第一分署(のちの麹町警察)署長の職にあった彼は薩軍征討を命じられ、豊後口警視隊副指揮長として熊本県下へ出征した。三月十二日、佐川小隊の進出した先は熊本県阿蘇郡の南の要衝白水村。蛭子屋と長門屋を本陣とした彼は、姓を異名と取り違えた村人から「鬼さま」と呼びかけられてもにこやかな態度を崩さなかった、という逸話が残る。一方、この頃すでに薩軍の一部は阿蘇の西方二重峠を占拠していたため、佐川小隊は同月十八日の夜明けを期して同方面へ出動することになった。それに先立って彼の書き残した辞世こそ、このたび令孫佐川和子氏の筆によって顕彰碑の台座に刻まれた一首である。しかし、約三里西進した佐川小隊は、長陽村黒川に布陣していた優勢な薩軍に遭遇。彼はその隊長鎌田雄一郎と思われる人物と朝日を浴びながら一対一で切り結ぶうち、薩軍に味方していた地元農民の発射した一弾によって仆(たお)れた。今日年かぞえ四十六であった。その霊魂は大分県護国神社に眠っているが、福岡市の柏木隆之助氏の音頭によって、有志の手で彼を会津藩の故地会津若松市へ還してあげようとの声があがるに至り、旧鶴ヶ城三の丸にあたるこの地に佐川官兵衛顕彰碑が建立されたのである。これによって会津の生んだ屈指の名将は、戊辰の年の八月二十九日に鶴ヶ城を去って以来、実に百三十三年ぶりに帰城を果たしたことになる
 ああ、会津士魂を一身に体現して一直線に生きたその御霊よ安かれ
 合わせて祈る。この顕彰碑の寄贈者たる熊本県阿蘇郡の両村--「佐川官兵衛討死之地」碑のある長陽村および「鬼官兵記念館」の建つ白水村と、会津若松市との交流が末永くつづかんことを
  平成十三年(2001)九月二十二日 「鬼官兵衛烈風録」作者・中村彰彦 誌
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※ 佐川官兵衛辞世の句 「君がため 都の空を 打出でて 阿蘇山麓に 身は露となる」
--引用;現地顕彰碑、解説から--
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佐川官兵衛夫妻の墓(2014.04/20)



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by mo20933 | 2016-06-12 10:06 | 会津若松市 | Comments(0)