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(一)白河関門の戦 2

2016.03/23(WED)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
近代デジタルライブラリー




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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
(一)白河関門の戦 2
( 1から続く)
【コマ 262】
・・・茲に於て、薩軍参謀川村純義は十文字坂を間道して、八龍神の麦畑に銃手を撒兵せしめ、突如として奥羽軍の足もとを衝く。奥羽軍、不意の襲撃に驚き立ち、アワヤ土崩瓦解と為らんとする折しも、棚将阿部内膳は馬上勇々しく、部署を疾駆して兵を田畝に移し、以て薩軍三方の進撃に當らしむ。此時に當りて、純義隊副長渡邊網之助は、棚軍の火砲を道路の上に挽き出し、榴弾を連発せしめて、その砲煙の立ち昇るを見て凱歌は高く、川村を目掛けて突進す。続いて阿部内膳も躍り出て、棚軍は先鋒と為りて、麦浪を押し分けて勇み進む。両軍殊守力戦、川村、棚軍の勇猛に恐れて走り去る。さる程に、白坂口の西軍は兵を纏めて山手に走り、次第に総軍を撤兵して、田畝の間に潜みつヽ、銃を発して驀進す。更に大砲隊は、本道より山上に移して、益々弾を込めて奥羽軍を撃つ。此時に至りて、仙将坂本大炊は、会津街道の要害に在り。西軍の突進益々火急の報を得て、兵を二手に分ちて、谷間に降りて防戦必死也攻防遂に西軍辟易し、百歩を退きて是を防ぐ。坂本、寡兵を率ゐて阿武隈川を渡り、銃を発して益々西に進み、而して部下を激して奮撃突戦。折しも飛び来る銃弾に、頭部貫通せられて茲に殪る。かくて白坂口の戦闘は、いよいよ酣となるに至りて、参謀今泉亀之助、仙台及び会津の諸軍を率ゐて、鬨を挙げて驀進す。
 此時に棚倉街道の守備振はず、棚軍衆寡敵し難きに至りて、退きて桜町関門を固守す。西軍是を逸せず、総軍驀入して桜町に放火するに至る。棚軍遂に守る能はず、隊士、部署を捨てヽにくるや。諸口々の奥羽軍も、此時みな退きて、白河城塁に據りて戦ふ。茲に於て、西軍は三道より兵を進め、奥羽軍を白河城に挟撃して鬨高し。奥羽軍、必死と為りて四方を防ぐも、総軍一
【コマ 263】
郭の割據は作戦不利なる所、隊士は抜刀して血路を開くに至る。血戦苦闘、会将一柳四郎左衛門、此所に討死し、奥羽軍四散す。此時に當りて、参謀瀬上主膳は、仙軍の敗士を収めて、須賀川駅に逃げ延び、更に軍事局の命に背きて、二本松まで、にげ来れるに依り、軍罰に処せらる。
 五月二日、敗報、福島に達す。軍事局の狼狽、果たして如何ばかりなりけむ。参謀増田歷冶、一軍を率ゐて福島を発す。四日須賀川に到る。此時に當つて、奥羽軍路局総長坂英力は、諸藩に令を伝えて、而して須賀川を去る。奥羽軍即本道及び会津街道より進みて、須賀川より再び白河城に迫る。西軍力拒百砲を発して、防戦猛烈を極め、かくて戦闘は日夜に連り、彼我の損傷も甚し。さる程に、軍路局の命に依る援軍は、伍々として列藩より群り、頽勢(たいせい)の奥羽軍を援けしかば、砲声轟々万馬狂奔して、五月十日も暮れたり。然れども西軍には援兵無く、且つ弾薬缺亡(けつぼう)するに至りて、最早奥羽軍の鋭鋒を衝く能はず、烈戦遂に敗績して、兵を国境に引揚ぐ。敗報、江戸に達す。大総督府、愕然として後事を議するや。総指揮官大村益次郎、猛然議を立てヽ曰く、伝へ聞く、越後口の戦争激烈を極め、総督宮様、日夜苦慮遊さると云ふ。援兵は此所に急かざる可らざる所、今や白河口を顧る逞あらずと。此時西郷隆盛は、大村の議に不法を鳴らして曰く、白河口は賊勢大衆を以て固むる所、容易に抜く能はざる可し、果たして然らば、仙米を撃つ尚遼遠に終る 况んや伊地知正治(総督将)は同郷の士也。我、伊地知を援けざる可らずと。茲に於て、上野彰義隊を攻む。五月十八日となりて、彰義隊突破の西軍は、いよ/\白河に達したり。
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( 3へ続く)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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