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(ニ)棚倉の戦

2016.03/21(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
近代デジタルライブラリー




 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
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奥羽の巻(第ニ巻)/奥州白河口戦史
【コマ 268】
(ニ)棚倉の戦
 白河関門の戦闘地と為りて、奥羽軍連りに是が回復を計りつつある六月、その二十四日を以て、西軍には棚倉攻撃の命は降れり。茲に於て、薩州、長州、土州、大垣の諸軍は、白河関門棚倉本道口に戦守を張りけるが、大命一下忽ち方向を輾還して、本道に進撃戦を取る也。蓋し事茲に至れるは、西軍棚倉藩の虚を看破しての事也。何となれば、白河口の防備に於て、奥羽軍は是が回復を計りて、容易に白河の地を去らざるのみか、却つて戦守を固むる今日、その棚倉藩とて、同盟藩たる責任上、白河口総指揮の命は至重至厳にして、等しく持場を守るべきは勿論なるを以て、此戦況に臨む間は、素より居城の武備を顧るの遑も無し。棚倉の実情それ右の如し。果たして然らば、今や棚倉街道に在りし西軍、俄然その姿を歿して、南進するに至りし□報の起るに於ては、棚倉藩たるもの、何ぞ閑々として居らるべきものぞ。然りと雖も、白河関門の部署を虚にする訳にも参らず、茲に於て、白河在陣の棚倉は、西郷総督将の許可を得て、居城の守備に當るにあり。さりとて大兵を割く訳には非ず、実に寡勢の孤兵に止まる也。武士の去就は、斯る場合に処して、少しは馬鹿げたる感もありけれど、同盟の義約を主位として、自己一藩を客と為すは、飽く迄も奥羽の士道を脱せず、棚倉藩たるもの、能く列藩の武道を体現したるなれ。
 居城守備の許可に依りて、参謀阿部内膳、同平田弾右衛門等は、自藩の孤兵を以て、郷渡村の要衝を保ち、而して大敵此所に防ぐにあれど、西軍の進撃は、破竹の勢を以て、巨門を開いて郷渡の陣を撃殺する也。されば棚軍は必死の勇を揮つて、大に防戦に努めしかど、元来が寡兵なるを以て、力拒遂に敵する能はず、退きて金山村に走れり。棚軍郷渡の敗戦に、白河在陣奥
【コマ 269】
羽軍の本営に於ては、相馬、石城、会津、仙台の諸軍の中より、更に部署を割きて援を送るあり。茲に於て、棚軍は先觸を得て大に踴躍し、而して金山に一戦を交ゆるも、西軍大呼の勢には當る可らず、退きて松原に砲陣を敷くに到る。此時に至りて、白河の援軍は三森、上台に依りて戦守するも、西軍一呼の勢は威風堂々棚軍の陣を抜き、更に急転して三森に逼り、上台を撃つに至る。石城相馬の諸軍、三森の陣を固守して是を防ぎけるが、砲戦一敗地に塗れて部署を壊乱し、而して逆川に遁れ、激闘の戦陣これを遥かに望み見て、その抜く可らざるを知りて、浅川に退却して防備を固む。さる程に、上台の戦闘は猛烈を極めて、仙台、会津の孤兵は烈戦遂に守りを失し、長駆して須賀川に兵を引く。かくて棚軍の孤兵のみ本道の大敵に當るに至りて、是が防禦の策も全く尽き果てヽ、本城の禍危は眼前に横はりたり。
 西軍、上台を略取して、愈攻城の策を決す。薩州、大垣、黒羽の諸軍は、山手の間道して小菅生より進み、長州、土州、館林、彦根、因州の諸軍は、尚も本道に添ふて進撃す。然るに此時に當りて、海軍に依て常州平潟に上陸したる浜道の西軍は、奥州関田村より進み来つて、等しく棚倉に迫るにあり。西軍両道の攻撃陣、巨弾を遥かの彼所より送りて、こヽに攻城の砲声は伝へられたり。されば棚倉藩の孤城や、今や興廃与奪の分岐に掛る火急に臨み、一藩挙げて是が防戦に當るも、其多くは白河に在陣して、漸く警備の許可を得たるものヽみ、是が実戦に當らむとは、勝敗云はずして定まる所、更に列藩の援軍すら、石城、相馬の諸軍は、浅川にて援道絶たれ、仙台、会津の諸軍は須賀川に走るに及びて、本陣の援兵派遣も、今や全く時遅く、向後たヾ城を枕に討死を決する外、更に手の出すべき策は無き也。
 西軍、益々砲弾を送るに至りて、棚軍は孤塁に拠りて、数門の大砲を以て応戦はしたるものヽ、東西の総攻陣には當る可らざる勿論也。かくて巨弾は益々城街に落下して、爆発四方に飛び上り、砲煙朦々、大風襲来して砲火を導き、見る間に黒煙は天に漲りて、棚倉落城の火災は起れり。西軍、是を望み見て、凱歌を挙げて猛撃すれば、飛弾は城郭に爆発し、石垣を破り、土堤を崩して猛弾の往行満目悽惨。此間隊士は鬨高く、焼熱の戦場に向つて、剣
【コマ 270】
を抜いて発す。龍争虎闘、屍山血河となりて、尚戦に堪ゆる者は、血戦陣中に一死を決する也。勇往混乱、城兵みな去るに及びて、棚倉城、こヽに陥落す。
 此時に當りて、平潟口西軍は新田山の険を抜き、総軍大呼して湯長谷藩に攻め入るの形勢にあり。されば棚倉追撃の西軍は此所に屯営して、南門外の民舎を宿営地に當て、而して平城の攻撃を環視するものとす。
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
阿部内膳正煕之墓(常宣寺)(2014.06/21)

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 戊辰役棚倉藩戦死者弔魂碑
・蓮家寺境内
  藩士阿部内膳以下四十七名
  郷夫/殉難者十名
  明治庚辰五月 阿部正功
・内儀茂助之墓
  表郷村下羽原
  鹿島神社隣り緑川氏敷地内



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