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徳川海軍の品海脱走

2016.02/22(MON)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)
近代デジタルライブラリー




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↑写真;「開陽丸」/1867年頃
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【コマ 408】
蝦夷の巻(第三巻)
徳川海軍の品海脱走
 新政の不満と藩閥打破の攻撃は、徳川家臣と奥羽越諸藩に依りて、東北の天空に兵力を以て絶叫せられたり。然れば是が鎮定にと西軍は錦旗を押し立てヽ、東山道軍を白河及び平潟より注ぎ、北陸道軍を越後口に起して、更に北海を航して秋田、弘前に送りて、東北の戦陣愈多端を告ぐるに至りて、明治元年八月も半ばなり。
 徳川慶喜の身の上も、田安家達をして、駿、遠、奥、七十万石の宗家を継がしめ、駿河藩の賜封ありて、七月二十一日慶喜は銚子浦を出帆し、駿府室臺院に蟄居の身となりて、僅かに二十有余日、突如として品川沖には、海軍
【コマ 409】
の脱走事件は起れり。即ち其等軍艦は、過般江戸城明け渡しに際して、徳川海軍副総裁榎本鎌次郎が、絶世の一念を揮つて哀願懇請したるに依り、漸く其領有を特免せられたる軍艦なり。かヽる理由ある徳川の艦隊が、八月十九日の夜暗に乗じ、品川沖の碇泊所より繋留を破りて、何所とも其影を隠すに至りしには、何分突然なる所と、而かも軍艦の脱走なる事とて、民心上下の驚愕なるは勿論にして、家財を纏めて遠く避難せむと、近邑騒然を極む。
 脱走事件の起るや、軍艦頭たりし榎本和泉守(鎌次郎=武揚)は所在を晦まし、永井玄蕃頭は抜け殻となり、更に松平太郎を始め、新撰組、彰義隊の敗士に至るまで、品川の地を払つて、逃走不在続々、是等の事実に依りて、愈榎本和泉守の所業なるを予測せらるヽに至る。かくて徳川軍艦奉行勝安房守等には、此度の脱艦につき、榎本の遺書を送り届けられしかば、駿河藩の驚愕こそ、果たして如何ばかりなりけむ。茲に於て、飛脚船を以て、四方に探索する所ありけるも、最早沓として踪跡を見る能はず。駿河藩は事茲に至りて、事件を届出づるより外途無し。
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/近代デジタルライブラリー--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)
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