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丹波山国隊・戦死二名墓、新井兼吉墓(興光寺)

2016.01/30(SAT)

丹波山国隊・戦死二名墓、新井兼吉墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺
丹波山国隊(丹波北桑田郡山国郷の郷士、農民で組織した勤皇隊。鳥取藩軍に属す)




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丹波山国隊戦死二名墓 高室治平、田中浅太郎
丹波山国隊・戦死二名墓、新井兼吉墓(興光寺)_c0185705_14114999.jpg

・高室治平 宗昌  山国郷塔の人/隊上士/明治元年四月二十二日下野安塚村で戦死/三十二歳/壬生・興光寺に墓/靖国
・田中浅太郎 利政 上士/山国郷塔の人/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十三歳/壬生・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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新井兼吉墓
丹波山国隊・戦死二名墓、新井兼吉墓(興光寺)_c0185705_14121487.jpg

・新井兼吉 道成 諱行方とも/山国郷比賀の人/徒士/明治元年四月二十二日下野安塚の戦いで行方不明、戦死と認定/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
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山国隊
・・・慶応四年(1868)三月、隊は甲州勝沼の戦いに加戦したのち江戸入りし、翌、四月には野州・安塚の戦いに参戦。ここで激戦により最初の戦死者二名(および行方不明者一名)を出す。江戸凱旋後、五月には上野戦争で彰義隊と交戦し、ここでも戦死者一名を出した。六月には隊士のうち九名が隊長とともに奥州へ向け江戸を出陣し、常陸平潟に上陸。八月に相馬中村城に入城し、ここで六名の隊士が東京(江戸)に帰営した。残留した隊長・隊士は九月に亘理城、十月に仙台城に入城したのち同月東京に帰営した。明治改元を経た同年十一月、隊は有栖川宮の凱旋に随伴して東京を出発、同月二十五日、京都に凱旋した
・年表
慶応 4年(1868)
   1月18日 -岩倉具視の指示で山国隊が誕生
   2月13日 -山国隊 1個小隊が京都を出陣
    15日 -補充 6人が合流。隊士34人となる
    20日 -美濃大垣で戦場に臨む決意を示す血判書を作成
   3月 3日 -鳥取藩内参謀の河田左久馬が山国隊隊長を兼務
     6日 -甲州勝沼の戦いに加戦
     9日 -ゲベール銃に換えてミニエー銃を付与される
    19日 -江戸入り
    24日 -隊士に「魁」(さきがけ)の文字を冠した熊毛の陣笠配布
   4月22日 -野州安塚の戦いで激戦。戦死 2人、負傷 5人、行方不明 1人
 閏 4月25日 -江戸に凱旋。錦旗の警衛を任される
   5月15日 -上野戦争で彰義隊と交戦。戦死 1人、負傷 4人
   6月28日 -隊士 9人が隊長と奥州へ向け江戸を出陣
   7月 3日 -常陸平潟に上陸
   8月 7日 -相馬中村城に入城
明治元年(1868) 改元
   9月12日 -隊士 3人が隊長と残り、 6人は東京(江戸)に帰営
    21日 -亘理城に入城
  10月 1日 -仙台城に入城
    21日 -隊士 3人が隊長と東京に帰営
  11月 5日 -有栖川宮の凱旋に随伴して東京出発(錦旗警衛)
    25日 -有栖川宮とともに京都凱旋。帰洛(錦旗警衛)
--引用・要約;「山国隊」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.02/18(水)11;38--



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by mo20933 | 2016-01-30 15:04 | 壬生町