町野主水家墓所(融通寺)

2015.05/01(FRI)

町野主水家墓所 会津若松市大町2丁目7-45




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平成27年(2015)
・04月27~28日
27日;会津西街道を北上し、会津若松→喜多方→[米沢街道]→米沢(米沢城址・林泉寺・上杉家廟所)→会津若松(東山温泉泊)
28日;若松(天寧寺・融通寺・西軍墓地)→猪苗代(戸ノ口原古戦場跡)→郡山→帰宅
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以下、現地の案内板から

町野主水家墓所について
 町野源之助重安主水は会津戊辰戦争の際、越後境の小出島の奉行に任命されました。会津藩朱雀隊四番士中隊長佐川官兵衛や長岡藩家老河井継之助と相提携して、部下と共に転戦しました。白虎隊士であった弟の久吉は三国峠の戦いで壮烈な戦死を遂げました。主水等は衆寡敵せず若松城に帰着しましたが、それよりも以前に主水の母、姉、妻、長女、長男は南摩三右衛門の母、息子二名と共に戦火を避けて移動中、落城の噂を聞き会津坂下町の勝方寺の裏山で自刃しました
 維新後、主水等は残留を命じられて斗南に行かず、戦死した藩士等の遺体処理に尽力、阿弥陀寺・長命寺に埋葬しました。末永く弔霊の祭典を執行する為に、大正二年、会津弔霊義会を設立、その初代会長に就任しました。爾来再三の申請を重ねて四年後の大正六年三月二十九日付をもって財団法人として当時の内務大臣後藤新平の名で許可されました。戊辰戦後実に五十年も経過してからでした
 主水は大正十二年六月九日、永眠いたしましたが、自らは息子武馬に遺言して、他の戦死者同様に菰に包み荒縄で縛り馬に曳かせて、ここ融通寺に埋葬させました
 武馬は、士官学校を経て日露戦争に従軍、後満州に渡り張作霖の軍事顧問として活躍、帰国後は近衛文麿公のブレーンとして第二次大戦に反対しました。又戦後は吉田茂首相の御意見番として活躍し、日本財団の笹川良一氏とも親交がありました
 ここ融通寺境内には『町野家塋域』が北側奥の一角にあります。一際高い三基の五輪の塔が目標です
 この度、融通寺の書院及び庫裏の落慶を記念して、本銘板を奉納しました
     平成十九年五月二十七日
     町野主水家顕彰会 建立

     *

町野家・南摩家家族殉難(自刃)の地・勝方寺(2015.11/07)
阿弥陀寺・戦死墓(2014.09/04)
長命寺・会津藩士戦死者之墓(2014.09/03)
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■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2015-05-01 10:16 | 会津若松市 | Comments(0)