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吉田松陰

2014.10/27(MON)

安政六年十月二十七日




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よしだしょういんのりかた
吉田松陰矩方
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長州藩士/杉百合之助の二男/寅次郎/変名松野他三郎、瓜中万二/六歳で山鹿流師範吉田家を継ぐ/五十七石六斗/叔父玉木文之進や山田宇右衛門、山田亦介らに学び、十一歳で藩主毛利敬親に「武教全書」を講義/各地を巡遊して志士と交わり、安政元年米艦に投じようとして失敗、入獄/赦されて松下村塾で俊秀を育成/五年大獄により就縛、六年十月二十七日江戸で斬/三十歳/東京世田谷区・松陰神社に祀/墓は東京荒川区・回向院/贈正四位/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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 安政五年(1858)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため計画は頓挫したが、入江九一・和作(後の野村靖)兄弟だけは賛成し、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される
 安政六年(1859)十月二十七日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年三十(満二十九歳没)
--引用・要約;「吉田松陰」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.10/22(水)17:06--
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※ 念五日  二十五日のこと



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