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芦野宿

2014.10/24(FRI)

奥州街道芦野宿 那須町芦野




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写真;現在の芦野宿(仲町通り)・2014.10/24
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以下、「那須歴史探訪館」展示資料説明から引用

奥州道中と芦野宿

 奥州道中は、江戸幕府により整備された五街道の一つであり、道中奉行によって管轄されていた。街道の成立は、天正18年(1590)、小田原城攻略が間近に迫った7月3日、豊臣秀吉が小田原から宇都宮を経由して会津へ向う軍用道路の開削を命じたことによる(「従小田原面至于会津道作御法度事」伊達家文書)。その後、慶長6年(1601)には徳川家康によって東海道をはじめとする主要街道が整備され、同9年には、奥州街道でも並木や一里塚の整備が始まったとされる

 江戸から宇都宮までは日光道中と同一であり、宇都宮市伝馬町を分岐点に白沢、氏家、喜連川、佐久山、大田原、鍋掛、越堀、芦野、白坂を経て、奥州の白河に至る道筋を奥州道中と呼び、道程は、21里18町14間半という。宿駅間距離の最長は、芦野・白坂間、最短は佐久山・大田原間である。鍋掛宿は大田原からの下り、越堀宿は芦野からの上りの継ぎ立てを行う片継(片馬ともいう)の宿であった

 奥州道中の宿駅は、17世紀半ばに形成されたと考えられている。芦野宿の成立時期は定かでないが、17世紀初頭には成立していたと推定される。関東の要衝であった宇都宮宿と奥州の拠点であった白河宿を結ぶ街道は、宿場として町割りが形成され、喜連川、佐久山、大田原、芦野には、大名や1万石以下でも大名並みの格式を持つ領主が屋敷を構えており、城下町でもあった
 宿の形成時期を示す記録は現在見当たらないが、慶長3年(1598)の直江兼続・石田光成連署状に、米沢藩主蒲生四郎兵衛並びに家来の荷物を米沢から「那須之内芦野マテ」送り届けることを「在々肝煎中」に命じている(上杉家御年譜)。このことから、この時期には芦野を経由する道中が成立したとする説もある

 芦野宿の範囲は、新町、仲町、川原町の三町といわれ、新町の高橋から川原町の芦野橋までである。両橋際に建つ地蔵尊は、宿内への流行病の侵入を防ぐためのものといわれている。新町の地蔵尊は享保2年(1717)、川原町の地蔵尊は享保12年(1727)の建立である。この間約1kmを宿内という

 芦野宿の本陣は代々臼居氏が務めていた。建物等は現存せず、現在の那須屋商店と石の美術館が敷地となっている。脇本陣は吉川屋という旅籠であり、現在のめがね魚店とほていややの二軒分の敷地であった
 問屋職は代々戸村氏の世襲で、戸村氏は元禄年間に須佐木(現大田原市)から移り住んだ家である。現在は、町営の駐車場となっている。問屋場の前には高札場があった。米問屋は川原町にあり、池沢氏の世襲であった。町年寄は、安達氏(現丁子屋)、高久氏(塩屋)、鏑木氏(和泉屋)、青木氏(大坂屋)らが務め、宿内の直接の支配を行った。また、江戸時代の遺構を残す山本屋(旧大塚家住宅・仲町)は、間口6間半の中2階の建物で、当時の旅籠の面影を残している
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那須歴史探訪館 那須町大字芦野2893番地

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by mo20933 | 2014-10-24 19:19 | 那須町