人気ブログランキング | 話題のタグを見る

箱館戦争 2/2

2014.10/09(THU)

箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介
明治 2年四月から五月




箱館戦争概略図 2
箱館戦争 2/2_c0185705_1126424.jpg


明治 2年(1869)
--------------------
四月
 日
  1
  2
  3
  4
  5 官軍々艦五隻、青森港から出て箱館山裏辺りに来る
  6
  7
  8 「見国隊」、鷲ノ木から箱館に入る。仙台の脱走兵凡四百八十人(隊長二ノ関源治、亜ぐ者は南条武蔵之助、風間喜太夫)旧幕臣三名なり
  9 青森港に着した官軍々艦八隻に長州、福山、伊州、備前、筑後と津軽松前大野其の外の約二千人余の兵が乗り込み乙部村(江差の北)に上陸
 10
 11 乙部に上陸した官軍の兵は三道に分かれ、江差よりaは松前、bは木古内間道へ、cは大野間道に入る
   江差道の戦い
   榎本軍松岡隊は松前守衛の遊撃隊と江差道へ出兵、夕方札前村で官軍先鋒に遭遇して戦闘となる。夜十時頃、敵が敗走するのを尾撃すると敵新たに精兵を加えて再挙し味方勇戦の間に陸軍兵一小隊斗が応援に来て大勝する・土方歳三は衝鋒二小隊、伝習二小隊を率いて市の渡口下股へ出撃
 12 大鳥圭介は伝習一小隊と額兵隊三小隊を率い五稜郭を出撃、木古内に着くと已に彰義隊五十人、伝習兵一小隊斗が在
 13 大鳥隊、敵情探索に出て小戦闘、木古内宿陣
   大野口二股の戦い
   官軍先鋒長州、福山、松前、薩州兵隊凡五六百人が大野口二股を襲撃・要地に築いた胸壁を盾に応戦したのは土方歳三、大川正次郎が指揮した衝鋒隊二小隊、伝習隊二小隊で、戦闘は凡そ十六時間、翌十四日朝七時に及んだ
   敵、稲倉石に引揚げる
   (一)二俣口の戦(2016.09/18)
   (二)二股口の敗報(2018.07/25)
   箱館戦争二股口の戦い(2018.05/01)
 14 木古内の戦い(きこない)
   大鳥隊、木古内山手の方に砲声を聞き直ぐに額兵隊二小隊・二番隊を繰出し、額兵を山上へ登らせ、伝習兵を川に沿って散開して攻撃する。山手谷間に襲来した敵に予備の彰義隊を出し、山上の額兵隊とこれを挟撃すると敵は敗走した
   (南柯紀行)
   …
   此日味方戦死  額兵隊一人
       手負  同  二人
   敵の死骸戦地に遺し置きたる者  十二
   同手負             不詳
   生捕         二人   松前藩
   此日の戦に出たるは、長州二小隊、津軽藩二小隊、松前二小隊なりしよし、後ちに生捕の物語にて知りたり。…
   大鳥圭介、軍務を本多に託して五稜郭に帰る
 15 大鳥隊、間道の一軒屋に敵情探索(敵一人もなし)
 16
 17 官軍海陸大挙して松前に襲来。軍艦から烈しい砲撃を受けて北口の砲台、城下の海岸砲台より防戦するが味方死傷多く、遂に敗走して吉岡峠方に引揚げる。仏人カズノフ負傷
 18 松前より引揚げの兵、知内、木古内に着く。神木隊、遊撃隊は知内嶺の守りに就き其余の兵は知内及び木古内に宿陣
 19
 20
 21 大鳥圭介、茂辺地、当別を経て海岸に出ると木古内沖に蟠龍艦が停泊し、回天は木古内沖の方に出ていた。木古内は今朝味方が敗走して後に異状なく敵も滞陣していないと云う
 22
 23
 24 薩州、福山、津軽の敵軍又二股口に襲来
   伝習兵二小隊、同士官隊は之を防禦して、敵稲倉石に引揚げ
   本日、官軍の軍艦八艘が箱館港に入り砲戦
 25
 26
 27
 28 矢不来の戦い(やぎない)
   榎本軍、官軍の海陸合併した矢不来の攻撃に備え、彰義隊百二十人、神木隊三十人、遊撃隊六十人、伝習隊一小隊、衝鋒二小隊、額兵隊二小隊、都合四百五十人斗に大砲四門を要害の胸壁に配備し山上より海岸まで凡一里余に歩兵を分ち敵の動静を見る
 29 敵艦五隻が進み来て砲撃し、周囲の山からは陸兵の攻撃が開始された。味方も海岸と山手の胸壁により防戦するが軍艦より飛来る大弾雨の如く。猛烈な砲撃にさらされ海岸の砲台を守る兵士大に騒乱し退き始め、隊長天野新太郎が砲弾にあたって即死すると兵士皆潰走、富川に退き、なお有川に退き、遂に七里浜に引揚げた
   (南柯紀行)
   此日味方死傷概略如左
    戦死 隊長  二人  上等士官  六人
    手負 不分明 兵士死傷  凡七十人
    大砲 五門  幷に小銃弾薬三万発を失う
 30 胸壁を棄て、兵隊皆な五稜郭に引揚げた。これよりは諸隊皆五稜郭に聚り、東は湯の川、東北は赤川、南は七里浜を限度として兵を分け防禦することにした。森、鷲ノ木の兵も既に五稜郭に戻っていた
   官軍は有川、大野、大川に滞陣
   矢不来の戦(2018.06/06)
--------------------
五月
 日
  1
  2
  3
  4
  5
  6 大鳥圭介、敵が七重浜村に来ると知って彰義隊一小隊、新選組伝習兵二小隊を率いて夜十一時頃亀田新道の陣を出て暗に乗じ潜行、橋畔の番兵を左右から撃つと逃げ去る。全隊七里浜に集まり敵の再挙に備えるが来ず
   此時味方薄手 一人
   敵の死骸   七
   分捕大砲   一門  爆薬若干  小銃弾薬若干
  7
  8 春日隊、遊撃隊、また七里浜に夜襲をかける
  9
 10
 11 七里村の戦い
   (南柯紀行)…官軍大川村、七里村に繰入りし由なれば、十一日早暁榎本と共に衝鋒隊、伝習隊、彰義隊、見国隊、松岡隊を帥いて大川村に向い、衝鉾隊、松岡隊は山手より進み、其他の兵は本道より向い、見国隊を先鋒になし、敵山上と村内に聚屯せるを以て、衝鋒隊を山手に登せ敵の砲台の後ろに出でしめんとせしに、山を越え谷を渡りて路も険阻なれば、時刻を移しける内、先鋒の者已に戦を交え、見国隊、早く進み過ぎたるに由て、他の隊も共に戦争を開き、大砲をも打たしめ間もなく酣戦に及びたれども、叢林の陰にて敵形見えがたく、狙撃すること能わず、三時間も戦いたれども、衝鋒隊猶出来らず、其内死傷も多く手筈も宜しからず故、追々引揚げしに敵追々尾撃し来り、繰退きに戦う頃漸く衝鋒隊山上に見え戦を交えたれども、本道の方已に引色になりたる故に、勢制すべからず遂に引揚げ、五稜郭の方へ退きたれば、衝鋒隊も山上を回りて険道を経て、赤川の方へ帰陣せり、此日の戦争敗績に由て、味方死傷以(意)外に多し、是地形の陰(隠)蔽せるに由てなり、全軍の死傷凡百人、内見国隊、彰義隊の者多し、敵の死傷四五十人ありたるべし、但し敵の方に潜匿したれば、死傷も察したるよりは少なしと思わる。…
   土方歳三、一本木関門で戦死
   土方歳三最期の地(2018.05/10)
 12
 13 箱館、五稜郭戦
   官軍の海陸両道から五稜郭、箱館攻撃に備えて神山、赤川には松岡隊、衝鋒隊を配置し、大鳥圭介は伝習兵、遊撃隊、春日隊、彰義隊を帥い大川、有川の両道及び海岸に向う敵の陸軍有川道より陸続と迫って、辺り一面に大小砲の音が響きわたり、夥しい弾丸が飛び交い、双方一進一退戦う内、海軍も已に砲撃を始めた。水陸共に雌雄を決せんと互に奮戦
   今暁敵陸軍一大隊斗りが箱館山、寒川に上陸
   (南柯紀行)…急遽之を防げども已に皆上陸し、山上に来りし上なれば、衆寡敵せず敗走して新選組は弁天砲台に入り、伝習士官隊は連戦して一本木関門の方に退きたり、夫より津軽陣屋にありし額兵隊、見国隊を出して之を防ぎ、烈戦二三回に及びたる由此時土方歳三流丸に中(あた)りて戦死せり、滝川充太郎も脛を傷き二ノ関源二(源次)郎も戦死せり。…
   大鳥圭介ら、夜八時頃帰郭する
   七里浜の方、蟠龍艦が朝陽艦を撃沈する。其後、蟠龍艦は弾丸も打尽して乗捨て、松岡磐吉始め弁天崎台場に入る
   松岡隊は神山の砲台を堅守していたが、衝鋒隊が退いて退路を断たれる恐れから砲台を棄てて帰郭した。此日味方陸軍の死傷凡百七八十人、多くの士官を失う。春日左衛門も小銃弾に中(あたり)て負傷、のち死す
   回天艦、蒸気器械の要所を打たれて箱館方の洲に乗上げ、既に弾丸も放尽くして、自ら火を放って焼き、乗組みの荒井郁之助を始め五稜郭に入る
 14 翌十四日頃から甲鉄艦、亀田村の海岸に近づいて、五稜郭に発砲、其七十斤の破裂尖弾の威力は、郭の柱を倒し畳を飛ばし一時に五人即死して四五人が負傷するなど、遂には夜寝る事も出来ず、恰も大地震の如く、かくも熾烈なものであった
 15 十五日なりしか、津軽陣屋の番兵所に、降伏を促す使者があり
   (南柯紀行)
   …於是て我等相議して曰く素より覚悟の事なれば、今に至り降伏すべき心なし、何れも潔く戦死せんと誓いしなり、但我等一両人罪に伏し、自余の者に蝦夷地の内、相応の場所を給らば朝裁に就かんと答え、榎本の兼て翻訳せし海軍規律の書あり、是海内無二の良本なれば今共に灰燼に帰するは遺憾少からず、願くは之留めて、永く皇国の重宝となし…
   と。蝦夷地の分与については出来ないと答えがあり、海軍規律の礼として海軍参謀より酒数樽が贈られた
   大鳥圭介、津軽陣屋に行き五稜郭へ入るよう告げる
 16 夜三時頃、津軽陣屋に敵兵夜襲。少し防戦するが衆寡敵さず、大方の兵は引揚げて五稜郭に入る。此時大砲頭並中島三郎助親子、柴田伸助外十六七歳の少年数名、額兵隊大砲士官某、士官隊の兵両三人都合十三四名、骸を駢べて戦没した
   中島三郎助(2016.02/21)
   中島三郎助父子最後の地(2018.05/11)
 17 降 伏
 18 (南柯紀行)
   …因て諸隊長を呼び会議し各々其見込を聞きしに種々異同あり、畢竟何日迄も徒に議論するも益なきことなれば、結局榎本、松平、荒井、小子四人軍門に降伏し、天裁を仰ぎ、自余の者の寛大の処分を冀(こいねが)う外あるまじと決心し、其旨を海陸軍の参謀増田虎之助、黒田了助(介)両人に応接し、承知しければ、十八日四五人五稜郭にて不残兵隊を整列し、是迄の勤労酬ゆる所無きを謝し、戎器(じゅうき)を脱し、何れも轎(かご)に乗り長州兵に護送せられて箱館に行きたり…
 19 永井、松岡、相馬三子も弁天崎台場より来て同宿。猪倉屋二泊の後、東京行きの命あり
 20 米船洋西丸に乗り、細川藩の護衛で青森に渡る。泊
 21 青森出立、浪網泊→弘前に着き、泊。七人とも網を張った駕籠に乗り秋田道を山形上の山を経て福島に出て四十日程、六月三十日に東京に入った

   end
   碧血碑(2018.04/27)
--------------------
参考文献;「南柯紀行」大鳥圭介/「威ありて猛からず」高崎哲郎
--------------------

栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)
明治維新後の大鳥圭介(2016.09/26)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス