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只見における河井継之助2

2014.08/09(SAT)

只見村、塩沢村
只見における河井継之助最後の十二日間




 河井継之助記念館に「ご自由にお持ち下さい」とあった資料(全6頁)で、当時の様子が良く解るものであった。これを勝手に引用・要約してupする
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慶応 4年(1868)
  8月 5日
 夕刻、雨の降る中、河井継之助一行は只見村目明し清吉の家に着く。嶮しい峠道を二日間も担架に揺られ、創傷は一層悪化して「容易ならざる」ほどであり、暫くこの地に滞留することになる
 熊倉の目黒正家に残る「文政以来万覚帳」にこの時期の様子が書かれている。「味方(会津方)は仙台・庄内、会津・長岡、八十里へ引き上げ、八月二日より六日頃まで二万五千人余が叶津・只見・蒲生・塩沢辺残らず御泊りに相成り」とある。この中には引き上げる兵の外に、長岡家中の婦女子も含まれている。当時、田子倉村から塩沢村まで八ケ村の全戸数が二百九十二戸という寒村であったので、その混雑ぶりは想像を絶する
 只見周辺だけでは収容できず、伊南川筋の村々にも広がり、黒谷や沖にも「長岡の家族連れが泊まった」との話しが今に伝わり、楢戸横山哲夫家の「楢戸村ニ家内止宿人別取調帳」には、戸数三十の楢戸村に五百八人が泊まったという記録が残されている
 この時の食糧調達について、旧伊南村宮沢の河原田家文書「三猿日記」に「八十里山より只見迄に一日の入用米が三斗入百俵宛を要し、間に合い申さず由」とあり、毎日百俵の米調達は容易ではない。この食糧調達には会津藩野尻代官の丹羽族(やから)が任にあたった。米味噌は当初会津城下の坂下辺から供給されていたが、折悪く悪天候が続いて運送が滞り、そこに引き上げ者の急増が重なった。その窮状を打開するため、丹羽は現地調達を試みるがうまく行かず、自害するに至った。丹羽の死を知った只見村をはじめ近村の人々は僅かな蓄えをも提供してこの危機を脱し一人の犠牲者も出さなかったと云う
 河井継之助は目明し清吉の家に八月十二日まで滞在したが、継之助と前後して只見に入った長岡藩士は千二、三百人。とその家族を四千人余と見て六千近くの人が只見地方に滞在したことになる
 藩士は只見において直ちに隊の再編成をして西軍の追撃に備え、八十里越の陣地と津川口方面の守備についた
・只見から黒谷辺まで民家に分宿していた藩士家族四千人余は八月十日を前後して若松へと発った
・すでに若松に居た長岡藩老公は、継之助が重傷を負って途中に留まっていることを知り、一刻も早く若松に呼び寄せて治療をさせようと槙吉之丞を只見に急行させた。八月五日、吉之丞は若松を発ち只見に向うが只見に入る途中で牧野市右エ門に遭遇、「重傷ゆえ急ぎ良医の派遣を請う」と云われ、そこから若松へと引返し、九日その次第を報告した。老公が会津に滞在中の旧幕府侍医松本良順に依頼すると良順はその要請に応え、その日のうちに若松を出立し只見に向った
   10日
・松本良順、夕刻頃に只見村の目明し清吉の家に着く。継之助は大層喜んで話しに興じ、良順が土産に持って行った西洋料理風の肉のタタキを喜んで食べたと云う。継之助の傷は重く只見での処置はできないので、せめて若松での処置を強く勧め、翌十一日若松へと発った


只見における河井継之助2_c0185705_1752726.jpg

写真;塩沢村の医師矢沢宗益宅(展示パネル)・2014.08/06


   12日
・継之助、只見で死を覚悟していたが、行けるところまで行くことを承知し七日間滞在した目明し清吉の家を後に只見を発つ。途中、塩沢村の医師矢沢宗益宅で休息をとるが、そこで体調思わしくなく投宿する
 戦況については、八月十二日の「三猿日記」に、「越後表敵方大軍ゆえ、万一峠を防ぎ兼ね候はば、入叶津は焼払い、出戸叶津と中ノ平の間ニテ」防ぐとある。長岡藩は会津の山内大学隊、井深隊等と共に山本帯刀隊を中心にした千人近い藩兵を交代で八十里峠の陣に出しており、なお緊迫した状況下にあったのである
   13日
 「邑従日記」の植田十兵衛の報告に「継之助殿、十二日塩沢駅迄参られ止宿。翌十三日朝五時前より、少々フサギ気味にて、熱が出て、ウワゴトばかりだった。夕方になって、小水があり、二回ほど通じがあって、追々快方となる。十四日朝は、特に別条もなかったが、体力の衰えが増して、若松まで参られ候も六ケ敷」とある
   15日
 夜、継之助は松蔵を枕辺に呼び、「松蔵や、永々厄介して呉りやって有り難かったでや」と礼を言ったと云う。そして死期が迫ったことを告げ、火葬にし、納棺と骨箱を作れと命じた。松蔵は涙ながらに夜を徹して棺を作り、骨箱を二つ作り、一つには土を入れた。途中もし西軍に見とがめられた場合の備えであると云う
   16日
 継之助、午前中は皆と談笑して過ごし、午後になってひと眠りしようと付き添いを遠ざけて眠りについた。しかし、そのまま昏睡状態となり、午後八時ごろ四十二年の生涯を閉じたのである
 只見に入り十二日目のことであった
   17日
 「明治備忘録」に
 「御家老河井継之助殿手負ニテ当地山崎矢沢新角方御滞在中、死亡セラル、火葬ニテ御持チトナル」とある
 火葬は塩沢川と只見川の合流地点、通称"ざる岩"と云われる川原で、村人によって集められた川木(流木)により荼毘に附されたと伝わる。塩沢の村人は火葬の跡の残灰を拾い集め医王寺の墓所に埋葬し、手厚く供養がなされ現在も命日には墓前祭が行われている
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引用、要約;「町史とっておきの話」--最後の只見における河井継之助十二日間--その2~6
只見町文化財調査委員 飯塚恒夫

只見における河井継之助1(2014.08/08)
河井継之助墓(2014.08/06)



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by mo20933 | 2014-08-09 12:53 | 只見町