大鳥軍参謀柿澤勇記墓(観音寺)

2013.10/17(THU)

大鳥軍参謀柿澤勇記墓 日光市上鉢石町1003・観音寺




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写真;2013.10/17
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現地の案内標柱〈戊辰戦争隊士の墓〉に
「会津藩士で大鳥軍参謀の柿沢勇記重任の墓、慶応四年(一八六八)四月二十三日、宇都宮の戦いで□□を□□(重傷を負い)同二十七日、日光和泉屋金右衛門宅で死亡した。三十六才であった」
  日光市教育委員会
とある
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 柿沢勇記信任 大鳥圭介軍に属し参謀/変名森三之丞/明治元年四月二十三日下野壬生(宇都宮とも)で傷、二十七日日光で死/三十六歳/日光・観音寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

宇都宮第二次攻防戦要図(2013.10/09)
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以下、現地の案内板から

はっせきざん むりょうじゅいん かんのんじ
鉢石山 無量寿院 観音寺

 当寺は、弘仁11年(820)、弘法大師空海の開基と伝えられ、山門右手の石段を上った見晴らしの良い山上に、大師自刻の千手観音を祀った観音堂がある。中世には、栄蔵坊という名の真言密教の道場として、山下に六宇の支坊(宝珠院・円長坊・真乗坊・守藏坊・安養坊・宝藏坊)を擁し、「坂本」とよばれる町並みも形成された。永正6年(1509)に来た連歌師宗長は、紀行文『東路のつと』に、「坂本の人家は数を分ず続きて福地と見ゆ 京・鎌倉の町有て市の如し」と記している。
 しかし戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めにそむいた日光山が、寺領を没収されて衰退し、当寺も六つの支坊が宝珠院・宝蔵院の二坊に減じた。
 元和3年(1617)、東照宮の鎮座によって鉢石町付近は日光街道の終着宿として繁栄にむかい、当寺も鉢石宿の香華院として復興。寛永4年(1627)、天海大僧正から「鉢石山無量寿院観音寺」の三号を賜って天台宗に改宗、日光山輪王寺の直末となった。以後住職が定住して現在にいたるが、貞享元年(1684)・弘化3年(1846)二回にわたって罹災し、現在の本堂は弘化4年(1847)再建のもので、本尊は阿弥陀如来坐像。
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by mo20933 | 2013-10-17 17:52 | 日光市 | Comments(0)