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二本松藩の戊辰戦争

2013.08/31(SAT)

二本松城、落城する 二本松
慶応 4年(1868) 7月29日




二本松藩の戊辰戦争_c0185705_216585.jpg

写真;二本松城本丸と東櫓台、2013.08/27
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二本松城、落城する

慶応 4年(1868)
・ 7月26日
 守山藩の列藩同盟からの離脱・降伏に続き、三春藩も降伏開城した。この日、板垣退助の率いる新政府軍は三春城に入城した
・  27日
 平方面から進攻した渡辺清左衛門(参謀、大村藩士)率いる一軍が三春城に入る。いよいよ新政府軍は二本松攻略に向け進攻することとなるが、まず軍を二手に分けた。渡辺軍は三春藩を先導に小浜へ、板垣軍は本宮へ向けて夫々進攻した
 板垣軍
  先鋒 忍藩一小隊・黒羽藩三小隊と砲二門
  本隊 土佐藩三小隊と砲隊・三春藩一小隊・大垣藩二小隊・館林藩一小隊半と砲二門・彦根藩二小隊
〈遡って〉
・  26日夜
 板垣軍の一部である薩摩二、四、六番隊・土佐の二個小隊が板垣に無断で出撃した
・  27日
 払暁、糠沢村上之内の二本松兵を奇襲攻撃
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      【薩摩】              【二本松勢】
  隊長  薩摩四番隊長 川村与十郎(純義)  二小隊 樽井弥五左衛門
      〃 六番隊長 野津 七次(道貫)
  兵力  数百名               百三十~二百余名
  損害                    死傷者 凡六十名
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 この奇襲攻撃で間道を通った土佐二個小隊は戦闘に間に合わず。また軍を進めた板垣軍が阿武隈川をはさんだ本宮の対岸、高木村辺に着くがここに二本松兵の姿は無かった
 一方、二本松軍にすれば、新政府軍に本宮を占拠されれば手薄な二本松城は危機に瀕するため、郡山布陣の大谷鳴海隊二個小隊は本宮に移動していたが、板垣軍の進撃を知った血気の若侍たちはこれを迎撃せんと本宮対岸に舟で渡り、忍・黒羽の新政府軍兵を味方の樽井隊と見誤って近づき、至近距離から散弾砲をあびて四散した。しかも舟は本宮側に引き上げられており、追撃を受けて多くの溺死者を出した
 本宮の対岸に到着した板垣軍本隊も同様、本宮へ渡るにも舟は無く川を挟んだ銃撃戦が続いた。しかし、兵の過多と銃火器等の優劣もあり二本松勢は城方面へと退却した
・  28日
 郡山から進攻した仙台藩を主力の同盟軍、本宮奪還戦を試みるが失敗
 〈ところで〉
  二本松軍の総兵員   およそ 2300名
  うち郡山・須賀川方面     1400〃
  二本松             900〃(うち 500名は城下各部署に配備) 
 同盟軍の仙台・会津などの援軍を合わせてもせいぜい1000名ほどの兵力で新政府軍を迎え撃つことになるのである
・  29日
 本宮の板垣軍は 大壇(おおだん)口から
 小浜の渡辺軍は 供中(ぐちゅう)口から
 それぞれ二本松城下へ向けて進撃した。このとき大壇口の守備は二本松の丹羽右近隊、このなかには木村銃太郎(22歳)を隊長とする少年隊が入っていたのである
 > 板垣軍、尼子台で二本松の小川平助隊を撃破
 > 板垣軍、大壇口の丹羽右近隊と激しい銃撃戦(丹羽右近隊、供中口破られるの報に退却)
 > 渡辺軍、供中口を破る
 > 渡辺軍、城下各地で激しい戦闘後二本松城に突入した
 さて、藩主丹羽長国とその家族を米沢へ落とした二本松城内では重臣たちが最期を迎える。あくまでも降伏開城を拒み、大城代内藤四郎兵衛(正置)の指図により城に火が放たれた
 [自刃]
 家老丹羽一学(富穀/とみよし)
 郡代丹羽新十郎(正名/まさな)
 城代服部久左衛門(保定)
 城代丹羽和左衛門(弘道)
 勘定奉行安部井又之丞(良明)
 [討死]
 大城代内藤四郎兵衛(正置)
※ 自刃は降伏に等しいとし、城門を開いて敵陣のなかに斬りこみ壮烈な討死を遂げた
・ 9月 4日
 二本松藩主丹羽長国、帰順降伏の使者を送る
※ 藩主丹羽長国の正室・久子は美濃大垣藩九代藩主戸田氏正の二女であり、戊辰時の大垣藩主戸田氏共とは姉弟である。氏共は密使を二本松藩に送るなどして恭順、降伏を勧めていたであろうが、結果は姉と義兄に敵対して戦うこととなったのである

--参考文献;「戊辰戦争全史」菊地明/伊東成郎編--



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