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天屋・本名

2013.08/22(THU)

天屋・本名 会津坂下
てんや・ほんな




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以下、現地の案内板から(写真も)
          あい  しゅくてんや  ほんな
旧越後街道間の宿天屋・本名
 天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(一五〇六~二〇)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
 明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑(いんしん)を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ四十間余(約二五〇メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。
     束松峠を護る会
     会津坂下町教育委員会
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天屋・本名_c0185705_1741987.jpg




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