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中野竹子

2013.08/13(TUE)

会津戦争記聞 会津坂下町「法界寺」




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平成25年(2013)
・ 8月11日
 会津坂下に行く。メインの通りから少し奥まった場所に「法界寺」があり、中野竹子の墓がある。寺入口に「会津戦争記聞」の案内板があった
 刀をくわえた中野竹子の勇ましい姿に興味があってupする
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--以下、現地の案内板から--
「会津戦争記聞」
 明治10年(1877)に製作された戊辰戦争(会津戦争)の様子を描いた三枚組の錦絵。馬上の人物は藩主松平容保で、手綱を取るのが家老梶原平馬、藩主を守るように家老の内藤助右衛門と左に原田対馬、若年寄(防衛総督)の山川大蔵「のちに浩と改名」の重職が並び、真ん中に薙刀を持った玉木勇女、刀を口にくわえた赤岡竹女が描かれている。二人の女性はともに裸足で、男性に混じって戦う勇ましい姿が描かれている。中野竹子は薙刀の名手であるが、薙刀を持っていない赤岡竹女が竹子と思われる。左手遠方より板垣退助、西郷隆盛ら西軍が押し寄せてきており、実際にはない場面であるものの、当時の緊迫した臨場感が伝わってくる。
   【資料提供;福島県立博物館】
   会津坂下町(商工観光班)
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※↑ 錦絵右辺り
 馬上は藩主松平容保公、前左内藤助右衛門(介右衛門)、右梶原平馬

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※↑ 錦絵中央辺り
 左から山川大蔵、原田対馬、赤岡竹女(中野竹子)、玉木勇女

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※↑ 錦絵左辺り
 左手遠方から西軍、迎え撃つ構えの山川大蔵ら
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中野竹子(なかのたけこ)
嘉永 3年(1850)または弘化 4年(1847)?-明治元年(1868) 8月25日

生涯

 会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸で生まれた。聡明で学問に長じ、また薙刀術の名手であった。戊辰戦争が始まると会津若松城下に戻り、学問や薙刀を教える
 新政府軍が城下に侵攻した際、母・こう子らと共に娘子軍を結成し奮戦したが頭に銃弾を受けて戦死。首級を敵に与えることを潔しとしない母の介錯により果てた。首級は農兵の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。享年18(21、22の異説がある)

辞世の句

 武士の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも

--Wikipedia「中野竹子」2013.08/13--



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