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古戦場と峠の茶屋

2013.07/26(FRI)

大内峠 古戦場と峠の茶屋
下郷町大内




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以下、現地の案内板から

大内峠古戦場
 戊辰戦争の際、松川新道と下野街道から進撃してきた西軍は、田島宿で合流し、倉谷宿から攻め入り、沼山での激戦を経て大内宿に入りました。慶応四年(一八六八)八月三十一日のことです。
 すでに大内峠まで撤退を余儀なくされていた会津軍は、越えさせてはならない南側最後の防御線であるため、この尾根伝いに陣を張り、進軍してくる西軍と九月二日から三日間、し烈な戦いを続けました。この戦闘を裏付けるように、大内沼からは大砲弾、茶屋跡からは鉄砲弾が発見されています。
 この戦いでは両軍ともに多くの犠牲者を出しており、大内峠周辺の街道沿いには、この攻防で亡くなった両軍の墓碑をみることができます。
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以下、現地の案内板から

大内峠の茶屋跡
一 大内峠見晴宜敷場所、茶屋前々之通、手軽ニ御駕篭立場設け候事 但し治定之所ハ申建置候間、追而可申聞候
一 右御小休場所御設入用之陣桐油、雪菰、手桶、柄杓、茶碗之類御貸渡之儀、申建置候間、追而可申聞候


 これは文政十年(一八二七)四月、会津八代藩主松平容敬(かたたか)が下野街道を通って江戸から下向する際に郡奉行から郡中各郷に出された廉書(かどがき)の一部です。南山地方にとって藩主の参勤通行は実に約百五十年ぶりの出来事で、この資料からも大内峠に茶屋があったことを確認することができます。
 発掘調査をしたところ茶屋跡からは当時の建物の遺構や江戸末期から明治初期までの会津本郷焼の陶器片などの遺物が多数出土し、礎石の配置から、当初は桁行六間、梁行四間半だったものが、最後には桁行、梁行ともに三間半の建物となっていたことがわかり、大内峠の茶屋は明治の初めまで営まれていたことが判断されました。
 大内峠を登った大名をはじめ多くの庶民がこの茶屋で小休止し、一息ついては再び旅の途についていったのでしょう。

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写真↑;峠の茶屋(2013.07/26)

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写真↑;大内峠付近の下野街道(会津西街道)2013.07/26
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大内峠から関山の戦い

慶応 4年(1868)
・ 8月25、26日
 西軍は山王峠の会津勢を制圧し糸沢に進攻した(主に芸州と宇都宮の兵)
・  29日
 田島に向け進撃を開始。田島に会津勢の姿はなく無血占領
・  30日
 西軍、後続の肥前兵を合流し大内集落を目指して進軍を開始する。途中、街道の東西の山から会津勢の抵抗を受けて敗走することもあったが後方からの増援により回復。会津勢を大内峠まで後退させた
・ 9月 1日
 大内集落に宿陣した西軍は、肥前・芸州・宇都宮・大田原兵の序列で大内峠を目指す。会津勢は山頂に胸壁を築いて正面からの敵に応戦、芸州兵は左右の山から攻撃を開始。この時会津勢の左側から迫った芸州兵に対し、清龍足軽三番隊の隊長、野村悌之助は奮戦したが討死した。これに奮起した会津勢は芸州兵を撃退したが、正面・右方からの激しい攻撃にあって堪らず大内峠を退き、さらに後方の氷玉峠を越え栃沢まで後退した
・   2日
 西軍、大内集落から再度の進撃。会津勢は栃沢に拠って抵抗したが西軍は苦戦の末栃沢を占領した。会津勢は北方三キロの関山に退く。追撃したが夕刻となり氷玉峠まで退いて野営した西軍を見て、会津勢はふたたび栃沢を占領したという
・   3日
 西軍、後続の諸隊を集結し攻撃前進を開始。薩摩・黒羽・宇都宮・中津・今治・人吉・肥前の兵が大内を出発した。戦闘膠着
・   4日
 会津勢、本道上で西軍に砲撃され、戸惑う間に西軍別動隊が前進した。さらに薩摩兵が突撃を開始したのを機に、会津勢は関山周辺から退却した。大山柏によると、会津勢は退却後の集結を予定に入れず「散乱」したという
--参考文献;「戊辰戦争全史〈下〉」菊地明/伊東成郎編・p.140・前田宣裕--

※ 大山柏(おおやまかしわ) / 1889年 6月 2日-1969年 8月20日
日本の華族、陸軍軍人、考古学者、公爵、貴族院議員(無所属倶楽部)、文学博士(慶應義塾大学)、戊辰戦争研究家。階級は陸軍少佐。明治の元老であり後の陸軍大将・大山巌の次男としても知られる
--参考文献;Wikipedia「大山柏」2013.07/27--
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