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第六章 会兵白河城を奪取

2013.01/17(THU)

戊辰白河口戦争記 佐久間律堂著(昭和16年)




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第六章 会兵白河城を奪取

慶応 4年(1868)
・閏 4月16日
閏四月十六日、会藩は始めて大平方面に兵を出し眞名子(まなご)村に陣した。此頃の奥羽列藩の形成は白石会議既に成り、会藩討伐の意なく、只鎮撫総督の命を以て白河城に兵を置くに止まり、十八日には世良参謀は去ってゐる。此の機逸すべからずとして、閏四月二十日暁天、湯本口・羽鳥口に陣した会兵(丹羽長裕家記に会兵及び幕兵・彰義隊の兵とある)。その将小池周吾は搦手より、野田進は追手より白河城に攻入った。三坂喜代助は脇曲輪の女牆(じょしょう)を攀じ登って城内に入り城門を開いて会兵を導いたといふ
会藩兵先づ会津町に火を放ちて一挙にして城を抜いた。城中の兵驚愕狼狽城に火して根田方面に退却した。二本松藩和田右文城中に貯へて置いた弾薬が会津の有となることを憂ひて火に投じ、また千両箱は井中に投げ込んだと伝えてゐる(戦争後この井戸を浚って千両箱を探した者があったが何もなかったといふ。その後、この本丸の井戸は久しく埋まってゐたが、昭和十二年に旧に復した

 落城の時千両箱を舁(かつ)いだ話。後に白河の名町長になった大竹貞幹氏と川崎彌八郎氏が舁いた。大竹氏は代々城主に寒晒粉を納めた家で城中に出入しており、川崎氏は白河の名家川崎彌助の後で城中に出入して居った者である。その千両箱を舁ぐ時実に周章(しゅうしょう)したもので、前の者が立てば後の者が腰が立たぬ、後の者が立ては前の者が腰が立たぬといふやうな有様であった。三百年も太平であった当事の事で、大砲の音を聞えては全く腰がぬけて歩まれなかったものだと大竹氏が天神町の安田平助翁に後日話したといふ
 
鹿島の富山氏の記録に
・閏 4月20日
    21日
 四月二十日朝六ツ時、会津様御人数並に御旗本方都合百三十八人程と申す事、湯本・羽鳥村に固め居候処、二十日朝、米村より鉄砲を御城に打ちかけ候。白河城落城致し、丸の内残らず焼ける。家中は道場小路・会津町不残(のこらず)焼け、御城に固められた御人数千五百人根田に引くもあり、二本松藩は二百人許(ばかり)鹿島に引き俵籠の支度する様被申(もうされ)候処、その中に本沼まで引取。その中に白河城も静に相成候へば町方の者は申すに及ばず、近在の者まで丸の内の火消に参り候。この者共に御米蔵より米を下され候。町方の者は老若男女に至るまで皆貰ひ候。酒屋ではハンギリに酒を入れて表にて呑ませ候。質屋より品物を取出し皆呉れ候。廿一日、会津智慧様分にて番兵致し候。鹿島村はづれ文吉前街道にて篝火を焚き村方の者一軒一人づゝ出で焚き候。町方にても人足引出され、まことに末々どうなるものかと生きた空もなく仕事を致すいくじもなし、毎日唯日を暮し居候(富山氏の記録は大沼村鹿島の富山幸吉氏所蔵)
天神町藤田氏の記録に
 本城付の在米数千俵大庭御米蔵に貯蔵あり、兵火の為めに米蔵焼け落ちたるに、其の米は町民に与へるといふを聞き、二十日午後すぎには焼米の中より丸俵を掘り出し背負ひ来るもの蟻の卵を運ぶが如し、中には途中まで持ち出し、再び掘り出したるものを運び来る内に、他の者来りて持ち行くもあり、多きは三俵・四俵と運びたるものあり、それ故に戦争中貧民は飯米に差支たることなく、実に戦争の手始とて筆紙に尽し難し
二十日払暁、大砲の音するや戦争始まりたるを知り、家族一同家財を片付け、酒蔵の目塗の折、空飛ぶキュウ/\と砲丸の飛び行く音を聞き、慄然言語を発する事能はず、何れもウロ/\と立騒ぐのみ、空腹になりたれども飯食は更に通らず、水を飲むにも手足振ひて茶碗の水は飛出づる有様なり、宅には孫十郎と母と拙者のみ、奉公人は金之助・初蔵・宗兵衛・新三郎・孫三郎・下女イソ等都合十人なり、漸く昼過に至りて食事す。兄孫十郎は町役人なる為め会津の軍目付役と同行せり
・閏 4月21、22日
 二十一日、二十二日、市中一般表裏の戸明放しにて店飾は勿論、畳建具必要の外は夫々片付、今にも人家焼払の覚悟をなし居たり
・閏 4月23日
 閏四月二十三日、夕刻より徳川脱兵及び会津兵続々繰込み来り、寺院又は旅籠屋等に宿泊せり。武器は旧式にて火縄付鉄砲或は弓矢・槍等を多く持参せり
・閏 4月24日
 閏四月二十四日も同様繰込、徳川脱兵新撰組人数五百人位一に旗本の士なり。洋服又は野袴着用しあり。洋式鉄砲・ヘベル銃を携帯し頗る軍気を挙げたり

丹羽長裕家記云
・閏 4月20、21日
 閏四月二十日早暁、敵軍会兵・幕兵彰義隊等白河城外平藩・三春藩の警衛場なる会津町口・道場門を破り火を放ちて城中に侵入し頻(しきり)に発砲す、其の形況斥候の急報あり、城兵能くこれを防ぐ、然れども衆寡敵し難く防禦の術已に尽く、特に野村十郎城兵を指揮して本丸を自焼し遂に横町口を破って出づ、総軍根田に退く。敵兵白河を取る。城郭悉(ことごと)く焼失す。戦死一人(下士大友佐左衛門)

是日、醍醐参謀は郡山駅に抵り、将に白河に入らんとしたが、城の陥るを聞き二本松に引帰った
道場小路に火を放って会兵が白河城に迫る時、小峯寺の住職が梵鐘を搗いて之を報じた為めに、会兵に狙撃されて死んだ。と今に白河町に伝えられてゐる。白河城はその日の午の刻には全く落城した。之の戦に丹羽氏の家記に戦死者一人とあるのを見ても攻城の容易であり、城兵に戦意のないことが窺ひ知られる。此の日の会津方の兵力は百三十余人であったといふ。復古記には会藩の総兵三百人と註してゐる
翌二十一日には、下野・陸奥の両国の境に「從是北会津領」と大書した標を建てた。白坂村の石井勝彌翁曰く
 この標は丁度境明神の前に建てられた。西軍が入って来ると、この標を倒して進んだ
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--佐久間律堂「戊辰白河口戦争記」昭和16年(1941)・復刻--


第一章 幕軍鳥羽伏見に敗る
第二章 西軍江戸城に進撃
第三章 奥羽鎮定の方針
第四章 奥羽列藩の白石会議
第五章 世良参謀福島に殺さる
第六章 会兵白河城を奪取
第七章 戦争当時の白河城
第八章 白河口の戦争
第九章 五月朔日の大激戦
第十章 西軍白河に滞在
第十一章 輪王寺宮奥羽に下り給う
第十二章 東西相峙す二旬 1/2 
第十二章 東西相峙す二旬 2/2 
第十三章 西軍棚倉城に迫る
第十四章 白河地方に砲声の絶ゆるまで
第十五章 板垣参謀三春に向う
第十六章 若松城遂に陥る
第十七章 奥羽諸藩降る
第十八章 西軍帰還の途白河に宿泊
第十九章 1/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 2/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第十九章 3/3 東西両軍の墓碑及び供養塔
第二十章 戊辰戦争と地方民 1/2
第二十章 戊辰戦争と地方民 2/2



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