六、棚倉城の戦い

2012.12/06(THU)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




平成24年(2012)
・12月06日
 「戊辰戦争と棚倉藩」近藤敏明(1989.02/24) 59p
 古書てんとうふ(郡山市池ノ台)から本を購入した。著者の近藤敏明氏は地元棚倉町在住
 以下、引き続き部分的に引用しながら要約してupする
※ 残りあと1回なり ^^;)
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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟
五、白河口の戦い①
 1.会津兵白河城を奪う
 2.皮篭原の戦い
 3.白河口の大激戦
五、白河口の戦い②
 4.五月一日以後の白河城攻防戦

 六、棚倉城の戦い

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 1.西軍棚倉城に迫る

・ 5月29日
 東山道先鋒総督参謀板垣退助は宇都宮より土佐軍を率いて白河に入る。大工町の常端寺を陣営とした
・ 6月23日
 六月十四日阿波藩を率いて江戸を発った大総督参謀鷲尾隆聚(たかつむ)、白河に入り常宣寺を本営とした
・官遣密使(東白川郡史)
「官参謀伊地知正治、阿部家元主家と縁あり、撃つに忍びずとなし、川村純義と謀り、僧賢邦をして窃に、降を棚倉に勤めしむ、賢邦、蜜旨を齎らし下るの途、会々棚倉藩士石山斎兵衛に逢ふ、斎兵衛、賢邦の往くを遮る、賢邦、還りて命を複す、伊地知等怒り、棚倉攻撃の議を決す。」
・6月24日
 鷲尾大総督参謀白河着によって棚倉城攻撃の軍議が決し、参謀補助(副参謀)板垣退助の指揮する薩・長・土・忍・大垣五藩の兵八百余人が大砲六門をもって棚倉に向かう
 関山前から二手に分かれ
 一隊は薩兵百五十人、土兵百余人旗宿を通る
 他の一隊はその余の兵で本街道(棚倉街道)郷土を通る。郷土には東軍砲台を設けるも破られ、関山上からも砲撃したが効果はなかったと云う
 黒羽兵八十は白坂村から中野村に出て、白河からの旗宿通りの兵と合流、中野の東軍を破り、番沢で戦い、金山村に出て本道隊と合流した
 金山村には仙台・相馬・二本松・棚倉の兵四百余が守備していたが、番沢の砲声に驚き退却した

 2.棚倉城落城

・西軍は金山を出て二手に分かれ、薩・長・大垣・黒羽の兵は間道を通り小菅生から小丸山に出て棚倉を砲撃
 戊辰戦争記阿部正功家記によると
 「西軍金山口を破りて、熊坂越の間道を経て棚倉城の西南に迫りて発砲頻りなり」
 とある。小菅生を通ったのか熊坂であったのかは不明
・一隊は本堂を進み逆川に至る(長・土・忍の兵)
 逆川の東軍は防戦するが、先に相馬の援兵は逆川から浅川へ、会津兵は須賀川へ引き揚げてしまっていた。棚倉藩兵孤軍支えきれず城下に退く
 釜子にいた兵も棚倉の砲声を聞き西軍を横撃しようと進軍したが、社川が増水していて来援は叶わなかった
・四方に出兵し、相馬・会津の兵は引き揚げ、来援は来たらず、城を守るのは棚倉藩兵三百士。死力を尽くしても城を支えることは不能とみて、自ら城と城下に火を放った
 慶応四年六月二十四日正午頃、棚倉城落つ
 棚倉藩戦死者
本多九左衛門、奥原一、三沢錦八郎、内儀茂助、上田源八、村田磯吉、小林庄次郎、武川子之吉、郷夫・惣内、郷夫・新吉、郷夫・竹次郎
 東白川郡史によると
「六月二十四日、棚倉城落城。
夜半の大雨、暁に至りて竭み、炎晴、銕を燬く時、六刻、砲声、殷々,城下を圧し,金山の関門破ると伝ふ、老若先づ走り、男女、家を舎て北ぐ、全街人無き、狗子、影を滅す、官、赤館に迫る、大砲隊長、吉田七郎左衛門、其子、国之進を始め、部下を従い防戦死力を尽す、突如、小丸山上、銃声、急霰の如く起る、支え難きを覚り、砲を壕に投じて走る、先是藩兵、火を城に放つ、焰、天に渦き、英俊苦心の名城、一瞬にして消ゆ、次いで、炬を街に挟む、官、来りて水を濺くも、古町以南、全く玄野と化す」
 西軍の記によると
官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧らが如く..
 この日東軍の首級十五、長藩手負三人、土藩即死一人、手負一人とある

 4.浅川城(青葉城)の戦い

・ 7月16日
 すでに棚倉城は落城していたが、会津・仙台・二本松・棚倉の残兵は棚倉城を奪回しようと計り、棚倉の外郭陣地浅川城に集結
 西軍の記録によると
「敵は七月十六日払暁、雨をついて浅川の東北で、社川の対岸にある城山上に大砲五門を引き上げ、ここから浅川の西軍陣地を眼下に見て砲撃し、歩兵も山を降って前進攻撃してくる。西軍は砲二門で応戦したが、東軍の勢力は衰えをみせず、必死の防戦をし、援軍の来るのを待った」

「臨時救援隊の応援で急峻な城山の敵をその側面攻撃が成功し、敵の陣地に突込み敵は全くの不意打ちをくって山下に逃げ滝輪方面に逃走した」

 七、落城後の棚倉

 1.政府軍占領下の棚倉

 棚倉城が落ちると総指揮をとっていた前藩主(白河)阿部正外は敗残の兵を集め、所領地伊達郡保原に退き、援兵要請のため会津に行っていた正静も保原に入った
 落城後城下を占領した政府軍は住民の帰住を呼びかけた

 阿部美作儀
 朝敵たるにより追討被
 仰付候、然に農工商三民之儀ハいささか御かまぬ不被為在候間、早々帰住安堵いたし、成丈生業相いとなみ可申候事
   辰 六月     棚倉在陣
              下参謀
              軍監

・占領下の棚倉では掠奪、無法が横行した
「家々の諸道工衣類に至る迄不残官軍の中ニハ、人足等を至り分取りいたし候事ハ、咄し筆舌につくしがたき其内ニも商人ごふく太物によらず堅口五穀ニ至る迄分取はげしく事かぎりなし。」
 これは木谷正男文書の日記覚控にある文章と云う
・見かねた大総督府は板倉参謀補助らに宛てた示達に
「去ル二十四日、棚倉落城の節、各藩之内敦レノ藩ニ候哉、市中或ハ農家ニ立入、金銀其外衣服等奪取候徒も有之趣相聞、如何之事ニ候、兼テ被仰出御箇条モ有之候故、向後屹度取締可申旨、仰出候事」
とある
 棚倉藩兵の放った火によって焼け落ちた家の復旧もままならず、政府軍の労役に従い、小屋掛け住い、焼け残った家は政府軍宿舎に提供しなければならなかった

 2.黒羽藩管理下の棚倉

 慶応 4年(1868)
・ 7月24日
 棚倉城下を占領していた政府軍は、板垣退助に率いられて棚倉を発し、三春・二本松攻略に向かって、棚倉は黒羽藩の管理となる
・黒羽藩は棚倉に取締役所を置き、新政府からの示達等を村・町役人などに知らせる一方、願書・届書を処理するなどの業務を行った。黒羽藩支配の基調は、戦災のために荒廃した城下や村々が一揆など起さぬよう、かつ復興することにあった
 旧棚倉藩の封建制とは対照的な施政は領民に朝廷の恩恵を印象付けたのである

--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

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by mo20933 | 2012-12-06 22:16 | >戊辰戦争と棚倉藩 | Comments(2)
Commented at 2014-06-27 20:50 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by mo20933 at 2014-06-27 23:28
コメント、ありがとうございます
--幕末維新全殉難者名鑑--という本があり、ここに「本多九右衛門」の名が載ってます(若干、名が異なりますが)
それには
『本多九右衛門  銃卒小隊長。明治元年六月二十四日棚倉で戦死』
とあります。
おそらく同一人だと思われますが・・・
白河、棚倉には割と頻繁に出掛けています。お城などであやしい者を見かけましたら声を掛けて見て下さい ^^;)