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五、白河口の戦い①

2012.12/02(SUN)

戊辰戦争と棚倉藩
慶応 4年(1868)




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目次
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三、幕末の白河・棚倉
 1.白河城
 2.棚倉城
四、官軍東征と列藩同盟
 1.官軍東征の途につく
 2.奥羽列藩同盟
 3.世良修蔵暗殺
 4.奥羽越列藩同盟

 五、白河口の戦い①

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 1.会津兵白河城を奪う

・閏 4月20日(閏 4月19日か)
 閏4月18日に世良修蔵が白河を発って仙台に向かった機会をねらって湯本口、羽鳥口に駐屯していた会津兵は白河城の搦手・追手門より攻め入った
 白河城を守備していた奥羽軍は既に奥羽列藩同盟が成立し、会津を攻める意志をもってないため戦うことなく逃亡した。城はその日のうちに会津兵の手に落ちたのである。21日には下野・陸奥両国の境に「従是北白川領」の道標を取り払い「従是北会津領」の標が立てられたと云う

 2.皮篭原の戦い

 西軍(ここから官軍を西軍、奥羽軍を東軍と呼ぶこととする)が境の明神を越えて奥羽に攻め入ると、会津攻撃の奥羽関門口である白河城を攻撃の第一目標としたのであった
慶応 4年(1868)
・閏 4月24日
 21日に大田原を発った西軍は芦野に宿す。東軍は白坂口、棚倉口、原方街道に兵を出し西軍に備えた
・閏 4月25日
 棚倉藩は総指揮阿部内膳のもと四百の藩兵が白河城に向け進発した
 東白川郡史によると
 同月二十五日、棚倉城、号砲を放って兵を集め、白河に進発す。「棚倉進発」城内十柵砲を放ち、令を四方に伝う。士卒、疾駆して集り、陣容、忽に整はる。
 総指揮阿部内膳、隊長高木与三兵衛、軍目印藤庄右衛門、副軍目海野甚蔵
(以下省略)

 同月二十五日、払暁から正午にかけて薩・長・大垣・忍藩の西軍白坂口を攻める。東軍白坂口の山口次郎(新撰組)、遠山伊右衛門、米村の会津藩日向茂太郎、九番町の樋口久吾、棚倉口の小池周吾、原方より鈴木作右衛門ら進撃する
 西軍は皮篭原に散開し猛烈に東軍を衝いたが、東軍は三方より包囲したため参謀伊地知正治は戦況の不利をみて芦野に退却した
 東軍は余勢をかって境の明神まで西軍を追い、戦いは正午ごろ終った。この日の戦いで、与惣小屋付近から稲荷山方面を目がけて攻め込んできた薩・長・大垣兵十三人を捕え斬首した。首級を追手門にさらしたと云う

 3.白河口の大激戦

・ 5月 1日
 皮篭原の戦いで芦野に退却して隊勢を増員し、白河攻略の策を練っていた西軍は再び進発する
東軍
 仙台藩、棚倉藩(平田弾右衛門指揮)来援。会津、仙台、棚倉藩は桜町方面を守り、白河口方面には井口源吾、杉田兵庫、新撰組の山口次郎らが向った。原方方面は日向茂太郎長坂山の麓に塁を築き、井深右近これに加わる。東軍総兵二千、砲八門をもって対す
西軍
 宇都宮に在った薩・長・大垣藩兵、江戸に在った因州、備前、大村、柳川、佐戸原の兵が来援。西軍総兵七百、砲七(八)門をもって白河城を攻める
・午前四時、西軍三道より白河口に迫る
>原方街道
 道案内は上黒川村の問屋内山忠之右衛門(のち会津藩士に捕えられ、会津に連行され斬首されたと云う)
 薩・長・大垣藩兵、砲三門をもって白河城に向け進撃
>本道(奥羽街道)
 薩・長・大垣・忍の藩兵、砲四門をもって小丸山、稲荷山に向け進撃
>白坂村より棚倉街道に合流する間道
 道案内は白坂村庄屋大平八郎(明治二年、会津藩士田辺軍次に討たれる)。白坂村より五器洗・十文字を経て棚倉口・桜町方面に出る
 薩摩二番隊、四番隊砲一門。四番隊長は後の海軍大将川村純義(与十郎)
※ 別資料を見たが砲の数に違いがある?
・午前六時、本道隊先ず砲火を開く
 西軍の策は、中央の本道隊が先ず戦端を開き、東軍の注意が中央にとられて狼狽する隙に、左右の部隊が敵の背後にまわり烽火を合図に総攻撃をかけるという陽動作戦であった
・両翼隊、東軍を包囲し、棚倉口に進んだ隊が搦目山で烽火をあげた
・これを合図に三方より東軍を攻撃
・棚倉口(合戦場あたりか)桜町の陣先ず崩れた
 棚倉藩十六ささげ隊、奮戦するも及ばず隊長阿部内膳重傷を負って金勝寺方面に非難するが力尽きて戦死する
隊員、次のとおり
阿部内膳、有田大助、大輪準之助、北部史、志村四郎、川上直記、梅村弥五郎、須子鋭太郎、宮崎伊助、鶴見滝蔵、富田熊太郎、湯川賢九郎、阿部鏡蔵、村社勘蔵、野寺均、山岡金次郎
東白川郡史によると
「古装十六士、別手隊長有田内記等十六名。頑として洋化を斥け、特に乞ふて一家伝来の鎧甲冑を着け金光燦然として蘭兵の間を縫ふ最も衆目を惹きしと伝ふ。」
 阿部内膳の外、棚倉藩では牧田三之助、小池理八(重傷割腹自刃)戦死
・桜町口に続き稲荷山、天神山の陣潰走、本道裏長坂山も包囲され東軍は敗走した
>仙台藩参謀坂本大炊、天神山で戦死
>仙台藩士姉歯武之進(福島で世良修蔵暗殺に加わる)桜町で戦死
>会津藩副総督横山主税、稲荷山で戦死
>会津藩総督、家老西郷頼母、士卒と共に勢至堂に退却
>仙台兵、二本松に退却
・この日の戦いが終ったのは午後二時、激しい戦いが展開されたのは九番町から稲荷山、白井掛、薬師山、竜興寺裏、蛇石、藤沢など白河市街の南丘陵であった。東軍の死者六百八十三人、西軍は死傷者七十人だったと云う。五月一日白河口の戦いは東軍の一方的な敗戦に終り、東軍は白河城を失ったのである
 棚倉藩戦死者
阿部内膳、秋元左内、発知為一郎、小池理八、平井勲、印東準一郎、森野与作、木村徳太郎、松原庄蔵、牧田三之助、松沢粂太郎、小川猪之助、管沼謙三、原保之助、岡崎大吉、川崎助次郎、植村平蔵、間野保之助、郷夫・文之助、郷夫・伊三郎、郷夫・惣右衛門
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--参考文献;近藤敏明「戊辰戦争と棚倉藩」1989.02/24 59p--

三、幕末の白河・棚倉(2012.11/30)
四、官軍東征と列藩同盟(2012.12/01)
五、白河口の戦い①(2012.12/02)
五、白河口の戦い②(2012.12/03)
六、棚倉城の戦い(2012.12/06)
八、戊辰戦争の終結と阿部氏の復帰(2012.12/08)
戊辰之役「棚倉戦要図」(2014.06/28)



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