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棚倉城追手門跡

2012.11/12(MON)

棚倉城追手門跡
おうてもん




平成24年(2012)
・11月 4日
 追手門跡だが今は盛土がしてあり遺跡等は何も見る事は出来ない。門跡(辺り)に立つと東側内堀の先に本丸を囲む立派な土塁が見える

棚倉城跡(2012.11/04)

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以下、現地の案内板から

棚倉城追手門跡

 元和八年(一六二二)常陸国古渡から棚倉に入封した丹羽長重は、寛永二年(一六二五)この地に鎮座していた近津明神(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮して、その境内に地に輪郭式(本丸・二ノ丸・三ノ丸)の平城である棚倉城を築城しました。本丸には大きな土塁を築いて、二ノ丸西側にのみ石垣を用いる等の特徴があります。長重は寛永四年に白河へ転封となり、白河城の改築も行っています。長重の父は織田信長の家臣で安土城築城の責任者を務めた丹羽長秀です。
 棚倉城は関東と東北の境目にあることから、親藩・譜代の大名が治める城でしたが、
慶応四年(一八六八)の戊辰戦争によって城下の一部と共に焼失しました。
 城の正面である追手門は明治二十年(一八八七)東白川郡役所の建設に伴う盛土で長く所在が不明になっていましたが、平成十七年の試掘調査で門の礎石六基が発見され、位置が判明しました。追手門の構造は礎石の配置から、脇戸と脇塀を持つ高麗門と呼ばれる門であったと想定されます。礎石の材料には白河石が利用されていました。
 発見された遺構は盛土して保護を図っています。
     棚倉町教育委員会
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※ 一般的な高麗門の例(Wikipedia「高麗門」2012.11/10)
棚倉城追手門跡_c0185705_1340312.jpg




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・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

by mo20933 | 2012-11-12 09:20 | 棚倉町