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戦死二十四人墓

2012.08/30(THU)

戦死二十四人墓




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写真;↑大内ダム建設の際に移転された「戦死二十四人墓」 2015.07/28

平成24年(2012)
・ 8月30日
 会津盆地の南端、関山宿(会津美里町)から栃沢宿、大内ダムを経て大内宿に至る旧下野街道(会津西街道)をグルッと一回りして来た
 慶応4年(1868)8月下旬から9月、若松表は緊急の危機に瀕し各地に転戦していた部隊を呼び戻し新政府軍の会津進攻を阻止せんとした。それによりここ大内峠から栃沢、関山の地では激戦が繰り広げられたのである
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以下、現地の案内碑から

慶応戊辰年(1868)九月一日より翌未明に亙り日光口守備隊長山川大蔵は、大内峠に據り官軍佐賀・宇都宮・大田原の各藩の兵を迎撃す
この戦斗で宇都宮藩大沢富三郎以下二十四名の戦死者の霊を供養せんと地元有志にて茲に墓碑を建立せり
     *
※ 大沢富三郎 正精
宇都宮藩/明治元年九月一日会津大内峠で戦死/四十二歳/宇都宮・慈光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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慶応 4年(1868)
・ 8月23日
 白河口の新政府軍は母成峠の会幕軍(大鳥圭介ら)を撃破して若松城下に突入したが兵力不足であった
・ 9月 1日未明
 日光口、大内村に宿営していた新政府軍は若松城下への突入を急いでいたが、会幕軍(日光口守備隊長山川大蔵)の銃撃を受ける。反撃してなお大内峠に向い激戦となり、宇都宮藩大沢富三郎以下四人が戦死。一旦大内村に退く
・ 9月 2日早朝
 新政府軍、再び進撃を開始したが会幕軍は徹底抗戦し氷玉峠で膠着。大総督府直属の軍監中村半次郎が直接指揮をとる
・ 9月 3日
 新政府軍、栃沢を攻略し関山に進出
・ 9月 4日
 新政府軍は会幕軍陣地に突入し、会幕軍は堪らず関山に火を放ち撤退。新政府軍はようやく関山から本郷へと進攻する

※ 大内から関山までの戦闘における会幕軍の戦死者は、青龍足軽三番隊中隊頭の野村悌之助以下将兵約四十名に及んだ
※ 会幕軍日光口守備隊長山川大蔵は城下の形勢悪化により帰城、替って一連の戦闘を指揮したのは小山田伝四郎か

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 墓碑、向って左側面に「明治四十一年九月建立」とある
 右の小さな墓は会津藩士小出勝之助単独のものだという

・小出勝之助  戊辰役戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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六、大内戦争(凌霜隊戦記)(2014.12/01)



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