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松並、東軍の慰霊碑

2012.06/26(TUE)

松並、東軍の慰霊碑 白河市松並




平成24年(2012)
・ 6月26日
 天気も快晴。JR白河駅前の観光案内所で「戊辰の激戦地」稲荷山までの道順を聞き向う。ズッと以前からJR白河駅はノンビリとした雰囲気で好ましく思っていたが、その雰囲気は今も変わらずに残っていてホッとする
 駅前の通りを南に少し行って右折し突き当りを左折、旧奥州街道(294)を通り何となく着いた

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以下戊辰戦争時の状況と現地案内板表示
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慶応四年(1868)
五月一日
 白坂口へ本陣を置いた新政府軍、兵力を3つに分ける

 中央隊>忍藩(1小隊)、大垣藩(1中隊)、長州藩(1小隊)、砲兵団
     午前8時出発
 左翼隊>大垣藩(1中隊、砲1)、長州藩(1中隊、1小隊)、薩摩藩(五番隊、砲2)
     午前6時出発
 右翼隊>薩摩藩(携臼砲2、四番隊、二番隊)
     午前4時出発

 中央隊(本隊)は伊地知正治が率い、左翼右翼隊は野津と川村が率いた
 左右の迂回部隊がまず先発し後に中央隊が進軍、小丸山を占拠。なお本隊は大軍とみせかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現九番町西浦、稲荷公園)に砲撃し注意と兵力を引きつけた
 新政府軍別動の2部隊が手薄になった立石山と雷神山へ侵攻して占拠した。新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から砲撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した
 列藩同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった
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戊辰の役古戦場

 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応四年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩長大垣等の西軍が大挙して三方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、閏四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲したので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は落城、城郭は焼失した。
 戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
 この白河街道の左曲する両側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平容保の題字の銷魂碑がある。

白河市教育委員会

--参考文献;Wikipedia「白河口の戦い」・ パンフレット「戊辰白河口の戦い」--




by mo20933 | 2012-06-27 00:04 | 白河市