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鶴が渕城址

2012.06/07(THU)

鶴が渕城址 会津西街道・上三依




平成24年(2012)
・ 5月24日
 上三依から野岩線と並んで川沿いを横川方面に向かう途中、何となく左折して橋を渡ると城址である旨の案内板があった。読むと上杉景勝とか徳川家康とか、意外なとこに意外な人が
 今回、戊辰戦争との関係なし

※ 写真は案内板に記載がある「川岸の角馬出」か?
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記念物(遺跡) 鶴が渕城址
 鶴が渕城址は、戦国時代の山城跡である。城は、男鹿川左岸の海抜896mの姥捨山上にある曲輪と物見台、男鹿川右岸から田代山に続く長塁と、男鹿川淵の角馬出の三つの部分から構成されている。またこの城の成り立ちは「新編会津風土記」によって、長沼氏による永禄年間(1558~70)の姥捨山上への築城部分と、慶長5年(1600)上杉景勝が徳川家康の来襲に備えて要塞化した長塁部分との二つの部分があることがわかる。
 山上の曲輪部分は上杉氏が補強したものと考えられる擂鉢状に深く掘られた寒風よけを中心に、南北およそ600mに及ぶ範囲に、物見台・土塁が見られる。
 川右岸の長塁は、角馬出端から西へ400mを越える長大なもので、途中から空堀・土塁を二重にし、横矢掛り(矢・鉄砲を射やすくするための塁線の屈曲)形にしている。
 川岸の角馬出は、内部平場が、東西約17m、南北約19mあり、周囲に比高差平均2mの土塁がめぐる。馬出の三方は空堀で、東側は男鹿川の断崖になっている。南東部には土塁が無いことから、外側に門が有り川から橋を渡り、この門から馬出内に入り、会津領内へ入ったものと考えられる。
 馬出内は関所として、番小屋等が建てられていたと想像され、戦国時代の臨戦時の関所・関門を考える上で貴重な遺跡であるといえる。
 現存する鶴が渕城址は、築城の長沼氏当時のものとは考えにくく、上杉景勝によって慶長5年(1600)に拡張整備されたものと考えられる。擂鉢方面輪作りなど上杉流が見られ、川をせき止めて街道に水をたたえ、石弓を設け、さらに藤原・高徳辺まで先兵を出し陽動作戦を展開したことが、上杉文書などに見られるからである。
 以上のようにこの城址は、戦国時代末期の馬出、長塁を伴った山城で、規模や働きの点で特筆されるものである。

藤文指定第12号 昭和48年 2月16日
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