2017.09/05(TUE)

岡村半四郎/中田良平 之墓 西会津町野沢字原町乙2253・常楽寺




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写真;2017.09/05
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岡村半四郎/中田良平 之墓
長岡藩(越後・七万四千石・牧野氏・譜代)
・岡村半四郎 中間杖突/明治元年行方不明
・中田良平  中間杖突/明治元年八月下旬会津領大山祗辺で戦死?
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常楽寺(2017.09/05)



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2017.09/05(TUE)

常楽寺 西会津町野沢字原町乙2253




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写真;2017.09/05
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 慶応四年(明治元年)/会津戊辰戦争戦死者之墓

  越後長岡藩士 岡村半四郎/中田良平 之墓
この両名は、八月二十八日野沢原町地内の大久保街道に於て西軍(官軍)と遭遇し、若水の地で斬られた。白鉢巻に紺がすり、白い袴の若い武士だったという。墓は同町、故斎藤兵一郎氏によって仮埋葬された後、当寺に改葬された。一基に両名の名前が刻んであるのは改葬の時二人の頭部と胴体が離れ且つ、どちらが岡村か中田なのか判明し難かったので一緒に埋葬したものと語られている
岡村半四郎/中田良平 之墓(2017.09/05)

  薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓
九月二日戦死、墓碑に「奥州大蔵入戦死」とあるが、これは「御蔵入」の誤りである。「復古記」(「西会津町史」第三巻、六七九ページ)によれば、御蔵入西方村(現・三島町)の戦いに於て「此日戦死一人、吉田與藤二」とある
薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓(2017.09/06)

  野沢 山本定平之墓
山本定平は、会津藩が臨時編成した農町兵隊員或は藩士附属の撰人として越後戦線に従軍し、七月二十九日太夫浜(新潟市)の戦いに於て戦死した
山本定平墓(2017.09/06)

 当寺にはこの墓碑の他に
  長州藩士 平田四郎源敏光   九月四日、片門(現・会津坂下町)に於て戦死
  同 藩士 山縣清之進藤原松之 九月十二日、小荒井(現・喜多方市)に於て戦死 の墓碑があったが、昭和五十六年に下関市東行庵へ改葬され、過去帳のみが残されている
  平成十年七月  曹洞宗 隆源山常楽寺/西会津町文化財調査委員会(文責 根本一)
--現地の案内板から--
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2017.08/25(FRI)

八雲神社 那須塩原市(西那須野)石林 795・乃木神社




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鎮座記録
八雲神社は従来石林部落中央路上に建立せられしものを乃木神社の好意により神社境内地に御遷宮再建す
  昭和四十六年二月吉日/石林氏子一同
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2017.08/25(FRI)

乃木清水 那須塩原市(西那須野)石林 795・乃木神社




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乃木清水
 那須野が原の湧水地は、1961年(昭和36年)の農林水産省の調査では157箇所もあったと言われてますが、現在は少なくなってしまいました。その中で乃木清水は今でも水をたたえています
 この湧水は、明治時代の軍人乃木希典を祀った乃木神社の裏手に位置し、乃木清水として親しまれています。5月頃から1月頃にかけて湧き出て、下流の農地を潤しています
 乃木将軍は一生の軍人生活の中、4回軍職を退き、この地の農場に農家建の別邸をかまえ、農耕生活を楽しみました。清水を大変愛した乃木将軍は明治天皇に拝謁したとき、「農場に何か自慢があるか」と訪ねられ、「清水のすばらしいものがございます」とお答えしたそうです。また、毎朝清水で顔を洗うとき、こんこんと湧き出る清水をもったいないといって、コップ一杯しか使わなかったと言われています
 乃木神社境内には、乃木清水のほか、乃木別邸、農具舎、静池もありますので、是非散策して下さい
--現地の案内板から--
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2017.08/22(TUE)

御薬園(三層塔) 会津若松市花春町 8-1
国指定名称会津松平氏庭園/戊辰の戦いをくぐりぬけ残った庭園・江戸時代の御殿




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三層塔
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御薬園(重陽閣)(2017.08/18)
御薬園(楽寿亭)(2017.08/18)
御薬園(2017.08/18)
御薬園(薬用植物標本園)(2017.08/20)



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2017.08/20(SUN)

御薬園(薬用植物標本園) 会津若松市花春町 8-1
国指定名称会津松平氏庭園/戊辰の戦いをくぐりぬけ残った庭園・江戸時代の御殿




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薬用植物標本園
 寛文十年(1670)二代藩主保科正経は貧しい領民を疫病から救い、病気の治療を施したいとの願いから、園内に薬草園を設け各種の薬草栽培を試みました
 貞享年間(1684~87)三代藩主松平正容が幕府から人参種子を譲り受け、園内に試植しました。幕府から下付されたので朝鮮人参のことを御種人参と呼ぶようになりました
 この御種人参を栽培し、広く民間に作付けを奨励したことから「御薬園」と呼ばれるようになりました
 現在、約400種類の薬草薬木を栽培しています
--現地の案内板から--
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会津藩籍田跡
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写真;2017.08/17
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御薬園(重陽閣)(2017.08/18)
御薬園(楽寿亭)(2017.08/18)
御薬園(2017.08/18)
御薬園(三層塔)(2017.08/22)



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2017.08/18(FRI)

御薬園 会津若松市花春町 8-1
国指定名称会津松平氏庭園/戊辰の戦いをくぐりぬけ残った庭園・江戸時代の御殿




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写真↓;庭園の一部"枯沢"・2017.08/17
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名勝 会津松平氏庭園 昭和七年十月十九日指定
 旧会津藩松平氏の別荘で、もと藩の薬園のあったことから「御薬園」の名で親しまれている。庭園の築造年月は明らかでないが、江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている
 中央に池を広くとり、中島をおき茶亭を設けて楽寿亭(らくじゅてい)と称する。池の奥、右に男滝左に女滝がある。後方に低い築山を設けて、東山連峯の風景を豊かにとり入れ、また石敷路をたどって池畔をめぐる風致も変化に富んでいる
 江戸時代の大名庭の形式による山水庭として優れた庭園であり、文化財保護法による名勝として保護されている
     文化財保護委員会/財団法人会津保松会
--現地の案内板から--
     *
・御茶屋御殿 ※工事中のため写真無し
 会津戦争(戊辰戦争)のとき、御薬園は新政府軍の治療所として使用された。そのため御茶屋御殿・楽寿亭は焼失を免れた
     
御茶屋御殿 元禄9年(1696)建
 主に藩主の休息の場として利用された。上ノ間、次ノ間、扣ノ間からなり、質素を旨とする藩主の意図から規模狭小、古木素材を用いている
 戊辰戦争の時には、新政府軍の療養所となり、後に九代藩主容保(かたもり)も、ここを住まいとした
※扣ノ間(ひかえの間か?)
--現地の案内板から--
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・御薬園 鳥瞰図
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御薬園(重陽閣)(2017.08/18)
御薬園(楽寿亭)(2017.08/18)
御薬園(薬用植物標本園)(2017.08/20)
御薬園(三層塔)(2017.08/22)



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