2017.09/07(THU)

阿弥陀一尊種子板碑、阿弥陀三尊種子板碑 会津美里町福永宿・藤巻神社




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阿弥陀一尊種子板碑 写真向って右
   会津美里町指定文化財
 安山岩質凝灰岩の板碑で、大振りな種子□(キリーク)(阿弥陀如来)が深い薬研彫で彫られている
 建立時期は南北朝(一三三一~一三九二)時代と考えられる貴重なものである
阿弥陀三尊種子板碑 写真向って左
   会津美里町指定文化財
 碑の頂部近くに二本の条線がある安山岩質凝灰岩の板碑で、条線の下に種子□(キリーク)(阿弥陀如来)その向って右下に□(サ)(観音菩薩)左下には□(サク)(勢至菩薩)が箱彫で彫られている
 室町(一三九三~一五七□)時代初期に建立されたものと考えられる大切な文化財である
   会津美里町教育委員会
--現地の案内板から--
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福永宿(2017.09/07)



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2017.09/07(THU)

藤巻神社大イチョウ 会津美里町福永宿・藤巻神社





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藤巻神社大イチョウ
   会津美里町指定文化財
 この大イチョウは高さ三二メートル・幹まわり五.六メートル・推定樹齢三〇〇年余である。藤巻神社は霊峰明神ケ岳より下って、鎮座したとの古い伝承があるが、天正末期(一五九〇頃)に社料を失い頽廃した。しかし万治元年(一六五八)に再興されたとあるので樹齢的に見てもこの時植樹されたものである
 また、このイチョウは”乳イチョウ”とも呼ばれ、幹の途中から空根が乳房状に垂れさがり、これを削りとって煎じて飲用すれば、母乳の出がよくなるという言い伝えがある
   会津美里町教育委員会
--現地の案内板から--
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藤巻神社
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福永宿(2017.09/07)



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2017.09/07(THU)

会津西街道・福永宿 大沼郡会津美里町氷玉福永




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会津西街道・福永宿
 福永宿は会津西街道(下野街道)の若松城下から最初の宿場である。川沿いには十数件の建物が立ち並んでいるが、所謂宿場町らしい町並みでは無く比較的小規模な宿場であったようだ。当初、本郷集落が宿場としての機能を果たしていたようだが、本郷では余りに城下に近かったことと水害が多かった為、当地に移ったのであろう
 宿鎮守の藤巻神社は明神ヶ岳(標高1074m)を御神体とする古社で、当初は山頂に祀られていたが万治元年(1658)に現在地に鎮座した。境内には樹齢三百年以上の大イチョウや板碑(阿弥陀一尊種子板碑、阿弥陀三尊種子板碑)がある
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阿弥陀一尊種子板碑、阿弥陀三尊種子板碑(2017.09/07)
藤巻神社大イチョウ(2017.09/07)
若木(オサナギ)神社(2017.09/08)
古四王神社(2017.09/09)



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2017.09/06(WED)

諏方神社 西会津町野沢・旧越後街道野沢宿




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写真;2017.09/05
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     *
諏方神社
 社伝によると永仁二年(一二九四)に蘆名宗盛が信濃国から諏訪大明神を勧請した際、鎮座の御輿がここ地蔵原に宿営したのにちなみ延慶三年(一三一〇)菅原刑部左衛門頼国が祠を建てて祀ったのが諏方神社の始まりといいます。又、荒井信濃守頼任がこの地にあった六地蔵を取り除き、嘉元元年(一三〇三)諏訪の祠を建てる地を設け、延慶三年に諏訪社の宮殿を建てたとの話も伝わっていますが、両者とも真偽の程は不明。諏方神社はもとは地蔵原に祀られていました
 いつの頃か伝説によると、不動川と長谷川の合流点に徳一大師の弟子徳蔵和尚が庵を結んで住んでいて旅人のため橋を架け、人はこの橋を徳蔵橋と呼んでいました。徳蔵和尚はその後、地蔵原に寺を建立。その頃、この原一帯に無数の水子地蔵が点在していたため地蔵原と呼んだのでしょう。徳蔵和尚は寺の一角に地蔵堂を建て千体を越す地蔵をお堂に祀りました。永仁二年この地に諏方神社が造営され、近くの地蔵堂との間にもめ事が起こり、蘆名公は地蔵堂を壊すことを命じ、徳蔵寺は、西羽賀(現喜多方市高郷町)に地蔵堂と共に移りました
     西会津町・にしあいづ観光交流協会
--現地の案内板から--
     *
鉄火の裁き
 元和五年(一六一九)藩主蒲生家の時代、松尾村と縄澤村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました
 すなわち、両村から代表者が出て、鉄火(真っ赤に焼けた鉄の棒)をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。この勝負に負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄澤村の代表になる決意をした次郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門
 同年八月二十一日。双方礼服を着用して手に熊野牛王(ごおう)の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。次郎右衛門は三度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました
 清左衛門はその場で御成敗、その遺骸を頭部、胴部、脚部に三分割し、両境内に村の「山界」を示す三か所に埋め、境塚を築きました
 松尾では現在、村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです
     西会津町・にしあいづ観光交流協会
--諏方神社参道入口にある案内板から--
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2017.09/06(WED)

野沢諏訪神社前一里塚 西会津町野沢・旧越後街道野沢宿




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 郭公や 道を外れたる一里塚  一歩
写真;2017.09/05
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西会津町指定重要文化財
史跡 野沢諏訪神社前一里塚
   指定年月日 昭和五十五年二月十八日
   所 有 者 伊藤幸家
 一里塚は主要な街道の両脇に一里(四キロメートル)ごとに設けられた塚のことである
 町内には五ヶ所に設けられたと言われるが、現在は、諏訪神社前の塚と白坂・宝川間の塚が形を残すのみである
 この塚も明治三方道路の開削で片側が完全に消滅したが、江戸時代の交通史を物語るものとして重要なものである
   西会津町教育委員会
--現地の案内板から--
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2017.09/06(WED)

山本定平墓 西会津町野沢字原町乙2253・常楽寺




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写真;2017.09/05(合成)
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山本定平墓
・山本定平  会津藩に所属した野沢の人である
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常楽寺(2017.09/05)



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2017.09/06(WED)

薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓 西会津町野沢字原町乙2253・常楽寺




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写真;2017.09/05
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薩摩藩士 吉田與藤二清次之墓
薩摩藩(薩摩・七十七万石・島津氏・外様)
・吉田与藤二  加世田郷士/万左衛門の子/外城第二隊/明治元年九月一日下野御蔵入村で戦死/二十五歳/新潟常磐岡に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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常楽寺(2017.09/05)



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