人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2020.10/08(THU)

会津西街道・横川宿付近 栃木県日光市横川




写真;2020.09/29
--------------------
会津西街道・横川宿付近
会津西街道・横川宿付近_c0185705_19355179.jpg

--------------------
会津西街道横川宿(2012.07/23)




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス



# by mo20933 | 2020-10-08 19:50 | >横川
2020.10/01(THU)

水戸藩・長谷川勝蔵/長谷川常隆の墓 会津若松市大戸町上三寄大豆田 83「洞雲寺」




写真;2020.09/29
--------------------
水戸藩・長谷川勝蔵
    長谷川常隆の墓

水戸藩・長谷川勝蔵/長谷川常隆の墓_c0185705_10352442.jpg


水戸藩・綿引喜伝治の墓
水戸藩・長谷川勝蔵/長谷川常隆の墓_c0185705_10360251.jpg


洞雲寺
水戸藩・長谷川勝蔵/長谷川常隆の墓_c0185705_11382768.jpg

--------------------
※ 被葬者名は"管理人竹さんのhp「戊辰掃苔録」"から引用させて貰った

一ノ堰の戦い(2013.09/11)
戊辰年戦死十三人之墓(2020.09/29)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス



2020.09/29(TUE)

戊辰年戦死十三人之墓 会津若松市大戸町上三寄大豆田 83(洞雲寺)




--------------------
戊辰年戦死十三人之墓
戊辰年戦死十三人之墓_c0185705_19331595.jpg

写真;2020.09/29

 当地近辺で戦死した会津藩十三名の合葬墓(氏名不詳)
--------------------
戊辰戦争一ノ堰の戦いとは (一ノ堰/光明寺の案内板から)
 戊辰戦争終結直前である慶応4年9月中旬、ここ一ノ堰を中心として、小山田・青木・御山・堤沢・面川・雨屋・新村・中野・井出・徳久・羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していた
 旧暦9月15日と9月17日の2回にわたる激戦がこの一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出すことになる
 参加隊
 ・西軍 前戦い(9/15);薩摩外城二番隊、七番隊、佐土原□隊、長州兵、報国隊、小倉隊、宇都宮兵等
     後戦い(9/17);薩摩兵、佐土原兵、米沢兵、安芸兵、新発田兵

 ・東軍(会津軍)前戦い(9/15);後戦い(9/17);
     朱雀士中四番隊(町野隊)、朱雀寄合二番隊(西郷隊)、清龍士中三番隊(木本隊)、玄武士中隊(伊与田隊)、同寄合望月隊
     白虎寄合一番隊(原隊)、外結義隊の諸隊が主力部隊

 二回にわたる激戦で、東西両軍に多くの犠牲者を出したが、東軍(会津軍)の兵士の遺体は、そのまま放置されていた。これは、賊軍会津の兵士の遺体を埋葬することを禁じたためである。その後、現在の供養碑は、明治2年になってから、戦死した会津兵の遺体を収集し、光明寺境内に供養されたものである
 一ノ堰の戦いで戦死した会津兵は、67人とされているが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人である。残りの19人の埋葬先は未だに不明である

一ノ堰の戦い(2013.09/11)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス



2020.08/26(WED)

烏森神社参道 那須塩原市西那須三区町 635




--------------------
烏森神社参道
烏森神社参道_c0185705_21320960.jpg

写真;2020.08/26
--------------------
烏森神社(2016.01/12)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス



2020.06/30(TUE)

国指定史跡/小峰城跡 福島県白河市





--------------------
写真;2020.04/29・本丸の石垣
小峰城跡_c0185705_22501799.jpg


以下、現地の案内板から
 国指定史跡  小峰城跡
                   指定年月日   平成22年 8月 5日
                   追加指定年月日 平成24年 9月19日 平成26年 3月 8日
                   指定面積     162,859.4㎡
                   所 有 者    白河市他
                   管理団体    白河市

 阿武隈川の南側、小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高 370メートル)を利用して築かれた城郭が小峰城です。江戸時代に編さんされた『白河風土記』(1805年成立)によれば、興国・正平年間(1340~69)頃、白河庄の領主結城宗広の嫡男親朝(別家小峰家を創設)の築城がはじまりとされます。
 永正年間(1504~20)以降、一族に起こった内紛で小峰家が権力を掌握し、白河結城家を代表するようになると、本拠が小峰城に移ったと考えられています。
 天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって白河結城家が改易され、以降約40年にわたって白河は会津藩領となり、小峰城には城代が置かれました。
 寛永 4年(1627)、白河は会津藩領から離れて白河藩が成立します。現在目にすることができる石垣をめぐらせた城跡は、初代藩主丹羽長重が幕府の命をうけて改修したとされ、梯郭式平山城の近世城郭として寛永 9年(1632)まで約 4年の歳月をかけて大きく改修したものです。
 この大改修は、本丸・二之丸を総石垣で固め、三之丸も門の周辺部を石垣積みとしたもので、東北地方には数少ない、随所に石垣を多用した特徴があります。
 現在、本丸・二之丸を中心とした約16万3000平方メートルが史跡となっていますが、当時の城郭の範囲は現在のJR白河駅の南側までを含むもので、約54万平方メートルの規模と推定されています。
 小峰城は、丹羽長重とその子光重が在城したあと、榊原家( 1代)・本多家( 2代)・奥平松平家( 1代)・結城松平家( 3代)・久松松平家( 4代)・阿部家( 8代)と、親藩・譜代大名 6家19代の居城となり、北東北の外様大名に対する江戸の防衛ラインの一端として「奥州の押さえ」の役割を担いました。
 慶応 3年(1867)、阿部家が棚倉に転封されると白河藩は消滅して小峰城は幕府管理となり、翌年に戊辰戦争が勃発すると新政府の管理地となります。
 東北地方まで戦火が及ぶと、要衝の地である白河をめぐって奥羽越列藩同盟軍と新政府軍が戦い、小峰城内の建物の多くは焼失しました。
 しかし、平成 3年(1991)に三重櫓、同 6年に前御門が発掘調査や江戸時代の精巧な絵図(「白河城御櫓絵図」)をもとに木造で忠実に復元され、往事を偲ばせています。また、この復元は、近年全国各地で行われるようになった城郭建築物の木造復元のさきがけとなりました。


小峰城跡_c0185705_10142158.jpg

--------------------
白河の歴代領主・藩主(2019.04/10)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス