2012.08/24(FRI)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月24日
 凌霜隊が塩原に入って2ケ月が過ぎた。此処では戦闘も無く、温泉には日に4、5度も入り、盆踊りを見たり各所を巡ったりとかの毎日であったようだ
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す

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慶応 4年(1868)
・ 7月16日
 盆踊り

七月十六日此地の盆踊を見た。太鼓、笛にて囃も面白く古町福渡戸の女人やおとななど集まって踊り乱れるのである。古町より一里半程の中塩原といふ所に八幡社がある。此処の神木に杉の大木があった。大人八抱へもあって差渡し八尺餘、此杉は逆さ杉と云はれて昔八幡太郎義家が奥州征伐の時、此処にて兵糧をつかい其の箸を逆さに差したのが根付きして今になった・・と神職が物語った。大小二本あり。又此八幡神社の脇に一夜竹とて奇竹があった。土人は此の竹の子を見た者が一人もないと云ふ。一夜の内にて竹になるよし。其形真左に生えて其の内外には生える事はない。竹は、やしば竹で実に妙であった。此八幡社の右の方半里程先の川端に木の葉の形の付いた石が出る。
此石は柔かで土でも石でもない。此の社より十町手前に源三位穴と云う所がある。此の穴は岩屋で入口は八、九尺餘あり下りて見ると左方に又々這入る位の横穴がある。此穴は昔、頼政の弟敗軍の其時此穴へ入って隠れたとの事、此の穴へ入るには往復ローソク二本位入用と土地の人にきいた。此時連中八、九人燈火の用意がないので遂に入る事を止めた。福渡戸より二丁程の不動澤に小川がある。その端に奇石あって頗る堅く金槌を以て打こはして見ると貝の形があった。此辺は海が全然なく大変不審に思った。

--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/21(TUE)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月21日
 藤原から塩原に入った凌霜隊だが、ここでは戦闘も無くて専ら待機する毎日だったようだ。が、それでも入浴が日に4、5度。多い日は7、8度
 って..
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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慶応 4年(1868)
・ 5月19日~ 8月22日
 福渡戸逗留

五月十九日同郷の福渡戸と云う処へ行くよう、小山田氏より達しがあった。一同早暁出立、午前中に福渡戸へ。前列は和泉屋太兵衛方へ。後列は丸屋吉郎兵衛方。八月二十二日迄逗留。此辺一帯は山近く突出て左右共二丁とひらけた所はない、此地は戦争を外に只番兵のみ堅め人数は小山田隊八拾人。友野隊五拾人それきり友野隊は御旗本で歩兵隊差図役頭であった。やなた(梁田)戦争後此地に来て塩の内(湯)という処の番兵をしたのであった。古町よりは一里程で塩の内(湯)も温泉場で宿屋は二軒あった。凌霜隊三拾人小山田隊、凌霜隊は番兵□すかさは(須賀澤)、大あみ(網)、ふとうさは(不動澤)三ケ所へ七人づつ詰めた、須賀澤は古町より二里半、福渡戸より二里、途中は山坂計りで難所が多かった。大網は古町より五十三町福渡より廿六町途中は山坂多く狭路である。
福渡戸は古町より廿八町途中はやはり狭路。此口は宇都宮より大田原迄の番兵であった。大網は閏四月中、大田原へ第三歩兵草風隊押寄せし時焼討して勝った(閏四月十六日忍藩二十四人偵察、関谷へ来る)。此地まで引揚げた時関谷と云ふ所、大田原より五里で休んだ(閏四月十六日初戦の後、長州隊原田良人に率いられた一小隊関谷に追撃)。此時敵は真近に攻よせ味方敗北、此処を焼拂ひて大網まで引揚げた。敵は未だ追かけ追かけ大網に於ても激戦があった(閏四月二十三日会津草風隊沖長三郎関谷にて戦傷後、死亡。妙雲寺に葬る)。
其後塩原では戦なく、只白川越後の戦争の風説浮言多かったが果して如何であったかは詳しく判明しなかった。福渡戸の川端に温泉が五ケ所あった。此の湯の中、裸湯にはハラミ石とて湯の中に大きな石があった。子のない女が入湯の時、此石に抱きつけば必ず子が出来ると云ふ奇石である。其外此石は病にも霊験あらたかとの張札があった。逗留中一日に四、五度又は七、八度と入浴した。平時は湯治人澤山で殊に四月頃から九月頃迄は賑はしくとの事。当年はとかく雨年勝にて河水の満つる事五、六度。此川は箒川とて水源は尾頭より来て大田原へ流れる。別段大河でもないが夏はホタル澤山出てうなぎ、あゆ、やまべ、かじか等の魚がいて仲々よい河である。此処では劔術の稽古や又は手前稽古等毎日色々のことをして暮した。此地は平穏の所故又面白き事、不思議なことも澤山あった。

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--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
福渡戸逗留
盆踊り
塩原附近焼拂



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2012.08/20(MON)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月20日
 昨日の続き
 古町、門前辺りの写真を撮ってからUPしようと思っていたのだが、暑いし何かとあって撮れず。以前に撮った写真を使用した
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す
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慶応 4年(1868)
・ 5月11日~ 5月19日
 古町・門前逗留

薪の價の高いのも山中での珍らしいことと一驚を喫した。追々降って「あらゆ(新湯)」へ着いたのは四時頃此処にて人馬継立して日暮に漸く塩原古町へ到着小山田氏の指揮で直ちに門前に着。(此間古町から二丁である)前列は山口屋、後列は福田屋に分宿。古町及び此辺には温泉が澤山ある、温い湯に浸って九日間は夢の間に経過。

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--参考文献;塩原町誌--

今市より塩原へ
古町・門前逗留
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2012.08/19(SUN)

凌霜隊戦記




平成24年(2012)
・ 8月19日
 快晴。今日も暑くなる
 午後、「ハンターMt.ゆりパーク」(那須塩原市)に行く。高原山塊のほゞ中央に鶏頂山・釈迦ガ岳があり、その東にある明神ガ岳の北斜面がスキー場であって、夏季はゆりパークとなる。約1キロ、10分間、フラワーリフトに乗って眼下の500万輪と云うユリを楽しんできた
 さて、藤原から塩原に至る道だが藤原にいた凌霜隊がたどった道である、とは云っても現在の車道とは異なるものであっただろうが..
 凌霜隊戦記の一部を次に引用するが、これは写しをとった泉漾太郎氏が単に原本のままを写したという事では無く、読み易く・解り易くする為に現代の言い回しに沿って訳したものである(と思う)

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※ 郡上藩( 48000石)と「凌霜隊」
 最後の藩主・青山幸宜は戊辰戦争のとき、新政府に与したが、家老の朝比奈藤兵衛の子・朝比奈茂吉は幕府側に味方するなど、藩は二つに分かれて混乱した。凌霜隊は朝比奈茂吉を隊長とする脱藩藩士四十数名を以て組織されたとされる
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心苦雑記(凌霜隊戦記)
 著 者;矢野原与七(当年三十九歳)
 所有者;岐阜県郡上郡弥富村剣 山田徳二郎
 原 本;美濃版百五十一頁一冊(泉漾太郎写、目次十九項の内)
 四、「今市より塩原へ」の一部
 五、「塩原附近焼拂ひ」を抄記す

慶応 4年(1868)
・ 5月11日
 四、今市より塩原へ

野州塩原口、此所は戸田大和守の領分で千石の地である。凌霜隊は会津、小山田伝四郎へ当分附属して草風隊と交代して彼地へ出向く様、今市口の会津軍事総督の山川大蔵殿よりお達しがあった五月十一日早天であった。凌霜隊は藤原口を出立したのである。
高徳、藤原、大原、高原、此辺は総て戸田大和守領分である。高原宿にて晝支度し此所で人馬を継立てて古高原の峠にかかった。六年以前迄は此峠を越して会津へ通行したものだ。此峠は高山で諸人が頗る難渋する故、藤原と高原との間の山に新道を作り高原峠と云っていたのである。此峠は古高原峠の半分よりも少し低い位の峠で、之を通る人は大変便利であった。古高原峠は塩原入口の「あらゆ(新湯)」と云う所より三里というけれども、五里も有るらしく此間に家一つない淋しい通りである。道は相当嶮岨で其上狭路馬駕籠の通行が漸くで実に大不便な難儀な場所であった。六年以前、新高原へ引移りし古家十軒ばかり立ち腐りの形あるばかり外に人家とては更になかった。従って此の厄介な峠にかかっては食物は申すまでもなく水も凡て用意をしなければならぬ、此宿外れに鶏頂山とて此処より又一里半登る高山がある、此の山には不思議な禁制があるのだ、当山へは鳥の形鶏の附きし物を以って断じて登れないと、此の宿は雨天には雲が家の中を縦横に通過すると云ふ物凄い許りの処、斬様な宿によくも住みよしと思う許り宿の前後は大いなる原が沢山に横たはっていて田畑の跡も見えた。此の辺よく富士山を見る事が出来るが、我等の通行の時は曇って見へなかった。今市も見えた。生憎此の日は朝から雲多くて一間先の見へぬことは度々あった。実に難儀の上の難儀であった。斯様な処は日本にも少いであろうと思った。晴天ならば此鶏頂山から品川沖を遥かに眺めることが出来るとの事だ。


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参考文献;塩原町誌/Wikipedia「郡上藩」
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今市より塩原へ
古町・門前逗留
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2012.08/14(TUE)

六道辻「戊辰役戦士墓」 宇都宮市西原六道町




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平成24年(2012)
・ 8月14日
 宇都宮市西原六道町の六道辻に「戊辰役戦士墓」がある。宇都宮城の攻防をめぐる激戦の地であった此処、地元の方々により守られてきた戦士墓にお参りをして来た
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戦闘の概要

慶応 4年(1868)
・ 4月19日 旧幕府軍、宇都宮城を攻略
   20日 新政府軍第一次救援隊、壬生に到着
   22日 安塚の戦いで新政府軍、旧幕府軍を撃破
   23日 新政府軍、宇都宮城を奪還
   24日 旧幕府軍、今市に到着

宇都宮城の攻防Ⅱ(2012.05/30)
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※ ↑写真(向かって左にある碑)
明治元年(戊辰ノ年)旧四月二十三日六道口デ官軍ト幕府軍トノ大激戦ガアリ附近ニハ多数ノ死体ガ散乱シテイタ官軍ノ戦死者ハ報恩寺ニ葬ラレテ立派ナ墓碑ガ建立サレタガ賊ノ名ヲモッテ呼バレタ幕府軍ノ戦死者ハ土地ノ人々ニヨツテ假埋葬サレタママ供養モサレズニイタガ明治七年宇都宮藩士戸田三男等各士族ト附近住民ニヨツテヨウヤク墓碑ガ建立サレタ然シヒソカニ香華ヲタムケル人ガアル程度デ墓地ハヒドク荒レハテテイタ大正ノ初期ニ至リ附近ノ篤志家相寄リ五十年記念祭ヲ行イ爾后毎年旧四月二十三日ニハ供養ノ法養ガ行ハレ今日マデ引ツガレテキタ戊辰百年ヲ迎エタ今年最モユカリ深イ会津若松並ニ長岡ノ両市カラ多数ノ参列ヲ得テ盛大ニ戊辰百年記念法養ガ執行サレタ尚コノ墓ニハ会津藩ノ戦死者伊与田留蔵(三十六才)以下十人ノ外多数ノ無名戦死者ガ葬ラレテイル
茲ニ其ノ概略ヲ記シ後世ニ伝エルモノデアル
昭和四十二年五月三十一日
 協賛 会津弔霊義会/長岡市
     *
※ ↑写真(向かって右にある碑)
 戊辰役戦士墓/明治百年祭 記念碑
明治戊辰の役官軍に属して勇躍出陣した宇都宮藩兵は九月四日会津城下飯寺(にいでら)村において越後長岡藩兵と戦い本藩戸田三男隊が敵将山本帯刀及び部下七、八名を捕え軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命により帯刀を薩州隊に移し兵たちを斬った彼らは首の座に臨み計二百両を集めて処置を三男に委せ従容として斬られたが実にこの墓こそはこれを基金としさらに三男ら士民の義心により長岡藩将兵の亡き霊を弔らい併せてこの地六道口の激戦における会津藩等戦没幕兵を合葬した仁侠悲涙の結実である(官軍戦死者はすべて官修墳墓として各所に管理されている)因に帯刀は斬られる時愛刀一振を三男に託し三男は帰国後これを戸田藩主に贈ったが現在この由緒の剱は当地の護国神社に秘蔵されている
昭和四十二年五月三十一日
 宇都宮市文化財保護審議委員会委員長/栃木県文化功労者 小林友雄 撰文

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官軍七首級之墓・報恩寺(2014.10/01)



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2012.08/10(FRI)

ジュール・ブリュネ Jules Brunet




 フランス陸軍の士官(陸軍砲兵大尉)
 フランスは江戸幕府の要請を受けて軍事顧問団を派遣したがその一員として来日した。当時幕府陸軍歩兵奉行であった大鳥圭介らと共に「伝習隊」の調練にあたり、後に榎本武揚率いる旧幕府軍に参加し戦った愛すべきフランスの侍である
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 ジュール・ブリュネ
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1838年
・ 1月 2日
 フランスで生まれる

軍事顧問団
1866年
・ナポレオン三世は日本との関係を深めるため、第十五代将軍・徳川慶喜との関係を強め、軍事顧問団を派遣することを決めた。ブリュネはシャルル・シャノワーヌ参謀大尉を隊長とする軍事顧問団の副隊長に、そしてフランス陸軍砲兵大尉として来日することとなった
1867年初め
・日本に到着した。軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練した
1868年
・戊辰戦争で江戸幕府は新政府軍に敗北することになる。フランス軍事顧問団は新政府から日本退去を命令されたが、ブリュネらは残留を選択し、フランス軍籍を離脱した。彼らは脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、箱館戦争に従軍した。シャノワーヌ隊長は参加しなかった

箱館戦争
 ブリュネは、榎本武揚を総裁とする、いわゆる「蝦夷共和国」(箱館政権)の創設を支援した。ブリュネは陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を支援し、四個連隊はフランス人下士官・フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエを指揮官とした
1869年
・ 6月
 五稜郭に立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。フランス人らは陥落前に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた

名誉回復
 ブリュネは裁判のためフランスに送還されたが、1870年に普仏戦争が勃発したこともあって軍に復帰することを許された。セダンの戦いでプロイセン軍に包囲されたフランス軍はナポレオン三世以下全軍降伏し、ブリュネも捕虜となったが、間もなくフランス政府が講和を結んだため、釈放されてパリ・コミューン鎮圧に参加した
1898年
・戦争相となっていたシャノワーヌの下でフランス陸軍参謀総長にまで登りつめている
 また、日清戦争では日本軍の上陸を支援し、シャノワーヌとともに明治政府から勲二等旭日重光章を授与されている。これは外国人に授与される勲章としては最高位のものであり、明治政府の閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったと言われる
1911年
・ 8月12日
 パリ近郊の自宅で死去

スケッチ
 常にスケッチブックを持ち歩いていたと言われ、メキシコや日本などの遠征先で数多くのスケッチを残している
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・「南柯紀行」大鳥圭介
 部分を引用する
(前略)
 仏人にて同盟し仙台より伴い行きたるもの、凡五人「ブリュネ」(砲兵甲必丹)「フォルタン」(元砲兵指図下役)「マラン」(元歩兵指図役下役)「ブーヒヘ」(上同断)「ガスノーフ」(仏帝乗馬方)
 右の内にてマランは余と同行して五稜郭に至り、此に止まれり、ブーヒヘは土方と同行して五稜郭に至り、江差松前へカズノーフと共に兵隊に属して行きたり、ブリュネ、マラン、フォルタン三人は箱館に止れり。
 ブリュネは上にも載せしが如く、予横浜三岳伝習以来の教師にして、未だ年齢壮かけれども性質怜悧にして、度量学築城学に長ぜり、カズノーフは学術は浅き人なれども篤実撲(樸)直の性にて西洋にても両三度戦場に出て、巳(已)に「クリミヤ」役のときセハステポル(セパストーポル)に赴き戦いし由なり、戦地にては鋭敏にて臨機の策に長じ、頗る勇猛にして兵隊に先(立)ち、松前進軍の時も屢功ありたると云。
 マラン、ブーヒヘ、フォルタンの三人は多く練兵の事に勉励せり。
(後略)


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参考文献;Wikipedia「ジュール・ブリュネ」
     「南柯紀行」大鳥圭介
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2012.08/04(SAT)

幕末期の大垣藩




平成24年(2012)
・ 8月 4日
 那須塩原市黒磯に「青木地区」と隣接して「戸田地区」がある。大垣藩戸田氏のことで、かっての戸田開墾地だった所である
 この大垣藩だが戊辰戦争では栃木から福島の戦場に頻繁に登場する。石高10万余りの中小藩にして遠方の美濃から長期出張し、転戦につぐ転戦を重ね奮闘したのである
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※ 写真はこれも「戸田」調整池
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 有効貯水量 ; 104万㎥
 満水時面積 ; 13.3ha

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幕末「大垣藩」の概要

天保12年(1841)
・氏正、九代藩主となる
 藩政改革を行うが家臣の俸禄削減、倹約令の発布など消極的な策に頼ったため、財政はますます悪化した
嘉永 3年(1850)
・改革派の小原鉄心を登用し、藩政刷新や軍制改革を進めた
 行政の簡素化や支出抑制、徹底した倹約、藩士の知行削減等々であったが、幕末期での海防御用や地震などで出費も増えたことから財政は好転せず、文久年間以降は藩札が乱発されていくことになる
 軍制改革では西洋流砲術を採用し、大砲の鋳造も行った
安政 4年(1857)
・揖斐川下流羽根谷の改修工事完了
安政 5年(1858)
・氏彬、十代藩主となる。先代の氏正は徳川斉昭と親しく、次第に尊皇攘夷論に傾倒していったが、大老井伊直弼による安政の大獄で斉昭が失脚すると、連座して罪が及ぶのを恐れ、長男の氏彬に家督を譲って隠居したのである
文久 3年(1861)
・和宮降下に伴って道中の警備にあたった
元治元年(1864)
・ 7月
 禁門の変では長州藩家老・福原越後が率いる軍勢を伏見街道で破り、さらに山崎方面の警備についた
 同年には水戸天狗党武田耕雲斎が上洛するのを中山道で妨害した
元治 2年(1865)
・再び上洛し御所の警備にあたった
慶応元年(1865)
・氏彬、第十四代将軍徳川家茂の警護役を務めたが、途中大阪で病に倒れ死去した。35歳
 氏共、十一代藩主となる(大垣藩最後の藩主)
 第二次長州征伐に参戦した。帰国後、軍制改革、藩政改革を行う。軍制では銃砲を主体とする装備の近代化を、藩政改革では評定局を新設した
慶応 4年(1868)
・鳥羽伏見の戦いでは幕軍として参戦したが、小原鉄心の説得によって藩論を勤皇に統一した
 氏共は上洛して謝罪し、東山道鎮撫の先鋒を命じられた。家老戸田三弥が率いる大垣藩兵1200余名は新政府軍として薩摩藩兵と共に進軍、下野国梁田で旧幕軍らと衝突して撃破した
 この後宇都宮城、白河城、棚倉城、会津若松城などを転戦し功をあげた

※ 九代藩主氏正の正室は薩摩藩主の娘であり、氏正の二女(氏共の姉)は二本松藩主・丹羽長国の正室であった。氏共は密使を二本松藩に送るなどして恭順、降伏を勧めていたであろうが、結果は姉と義兄に敵対して戦うこととなる

明治 2年(1869)
・ 6月
 新政府から賞典禄 3万石が下賜され、直後の版籍奉還で氏共は大垣藩知事に任じられる
明治 4年(1871)
・ 7月
 廃藩置県により大垣藩は廃藩となり、大垣県を経て岐阜県に編入された
明治16年(1883)
・ 7月
 「鹿鳴館」落成
 最後の藩主戸田氏共の正室・極子(岩倉具視の娘)は鹿鳴館の名花と称えられた
昭和11年(1936)
・氏共死去


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参考文献;Wikipedia「大垣藩」
     HP「歴史の勉強」
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