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2017.07/29(SAT)

喜連川藩 栃木県さくら市喜連川4420-1




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  写真↑;喜連川陣屋の在ったところには、現さくら市喜連川庁舎等が、その裏手には塩谷氏の築いた山城、倉ヶ崎城跡(現お丸山公園)が在る。そこに赤く塗られた"一の堀橋"が写真↑なのだが、これは元々のものを模し(復元)たものなのか、或いは公園の施設として新たに整備したのもなのか不明。そもそも陣屋と倉ヶ崎城とは一帯として陣屋であったのかどうかも?、おそらく有事の際の備えとして維持してたのではないかと思うのだが?・2017.07/29

喜連川藩
・・・は、関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)に立藩された藩。藩庁は喜連川陣屋。藩主は足利国朝(正室は古河公方・足利氏姫)を藩祖とする喜連川氏。喜連川氏は足利尊氏の次男・足利基氏の後裔であり、名族足利氏のなかで唯一明治維新まで大名格で存続した家である(分家を入れると細川氏も含まれる)
・藩史
文禄2年(1593)に国朝が没すると、国朝の弟頼氏と足利氏姫が縁組みした。頼氏は関ヶ原の戦い(1600)に出陣しなかったが、戦後に徳川家康に戦勝を祝う使者を派遣したことから慶長7年(1602)に1000石の加増を受けた。それでも総石高4500石程度に過ぎず、本来ならば大名ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし江戸幕府を開き源氏長者となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、高い尊称である御所号を許して厚遇した。また四品格となり、代々の鎌倉公方が叙任された左兵衛督や左馬頭を称したが、これは幕府からの受けた武家官位ではなく自称であった。にも関わらず、幕府などもこの自称を認めていた。また足利の名字を名乗らず喜連川を称した
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以後の将軍も代々喜連川家を重んじ、享保年間には藩庁が喜連川陣屋にもかかわらず諸侯扱いとなり、10万石の国主並家格となった。しかし石高が大幅に加増されることはなく、喜連川家は江戸期を通じて表高・実高が1万石に満たなかった唯一の諸侯とされている
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このように、喜連川家が江戸幕府から受けてきた待遇は「大名(諸侯)」・「旗本」・「交代寄合」のいずれにも当てはまらず、その実態は幕藩体制における武家の身分統制から外れており徳川将軍家との明確な主従関係すら存在しなかった(喜連川家は自身を「天下ノ客位」「無位ノ天臣」と称していた)。こうした特殊な存在が許されたのは、喜連川家の祖である古河公方が徳川家の関東移封の少し前まで実際に関東地方の支配者としての一定の権威を有していた存在であり、徳川家による関東地方支配および幕藩体制における日本全国支配が確立していない時期には喜連川家に対する一定の配慮がなされたとみられる
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寛政元年(1789)には500石の加増を受けたものの、10万石の格式を保つ出費は莫大であり、藩財政は厳しかった。荒川・内川の氾濫と天保の大飢饉は藩財政をますます窮乏させた。9代目藩主喜連川煕氏は天保10年(1839)から藩政改革に乗り出し、義援米のための倉の設置、厳格な検地の実行、新田開発、藩内の士風刷新などの政策を実行しようとした。しかし家中での上士と下士の対立と、財政基盤の弱さが政策の実行を阻害し、ほとんど成果が上がらなかった
唯一の救いは、喜連川が奥州街道沿いの宿場町であったことで、奥州の大名、わけても仙台藩の参勤交代時には喜連川の宿場は潤った。仙台藩が費用節約のために喜連川を通り過ぎたくても、宿場前にはいつも喜連川藩主(御所様)が待っていたという。一度、仙台藩が喜連川を迂回して参勤交代した時には、御所様は義務もないのに江戸城参勤に赴き、伊達侯に嫌味を言ったと伝えられる。
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江戸時代を通じて喜連川氏の支配は続いた。維新後の明治3年(1870)、廃藩置県に先立って喜連川藩は封土を新政府に奉還して日光県に組み込まれ、喜連川藩は消滅した。翌4年には日光県の合併に伴い、宇都宮県の一部となった。喜連川氏は足利姓に復し、華族に列し子爵に叙せられた
・喜連川陣屋
喜連川陣屋(きつれがわじんや)はさくら市にあった陣屋である。現在、跡地はさくら市喜連川庁舎(旧喜連川町役場)となっている。なお市内の個人宅に城門が移築現存してあり、門には足利氏の家紋化粧が残されている
--引用・要約;「喜連川藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.02/25(土)15;28--

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  写真↑;倉ヶ崎城跡(現お丸山公園)への歩道・2017.07/29
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--以下、現地の案内(碑)から--
橋名の由来 ※橋は大蔵ヶ崎橋のようだ
 源平の合戦に源氏の大将源義経に従って武勲をたてた塩谷惟広が文治二年(一一八六)初めて城を築き大蔵ヶ崎城と言った
 城は三方が崖で幾重もの空堀をめぐらした堅固な山城であった
 天正十八年(一五九二)第十七代城主惟久は豊臣秀吉の東征に際し、人員その他物資の調達を命じられたが、惟久は機を失してこれに応じなかったため、秀吉の怒りに触れることを恐れて出奔したので廃城となった
 しかし、惟久の妻嶋子は秀吉が□□に出陣した折、出向いて惟久に二心のないことを釈明したため、秀吉は嶋子の懇願を聞き入れ名門足利氏の断絶を惜んで古河公方家(のち喜連川に移って喜連川公方)を再興させた
 ここに、初代惟広築城以来八百余年の大蔵ヶ崎城(のち倉ヶ崎城)の歴史を偲び、この名を後世に残すために橋の名としたものである
     平成元年三月  喜連川町



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2017.07/14(FRI)

大内宿(2017年 7月 6日) 下郷町大字大内(会津西街道)




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写真;2017年 7月 6日
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 この日、目的の笹沼金吾墓(正法寺)にお参りをし、その帰りの宿風景である
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笹沼金吾墓(2017.07/07)



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2017.07/08(SAT)

【雷神社】 下郷町栄富入王ノ木戌519




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雷神社
神社参道は会津西街道(下野街道)を挟んで八幡神社参道階段の向いにある
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楢原宿にある案内板に
・産土「雷神社とお千度参り」
と説明を附した写真があった(季節は冬、深い雪の中を地域の人たちが列になってお参りをしている様子が写されている)
※ 産土神(うぶすながみ)
生まれた土地の神。中世以後、生児は初宮参りさせ、氏子入りの承認を受けた。また誕生日、七五三などに産土詣をし、旅立ちには暇乞いをする。もとは氏神とは異なる地縁の神であるが、同族結合のうすれるに及んで両者は混用され、ともに村の守護神とされた
--引用;百科事典マイペディア--
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・ホタルブクロ
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・楢原宿展望
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林房之助墓・楢原宿(2017.07/07)
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下野街道と八幡神社(2016.10/22)



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2017.07/08(SAT)

Y字路の道案内地蔵 下郷町大字大内(会津西街道)




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Y字路の道案内地蔵
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 大内宿をほヾ北東に向った宿外れに道案内地蔵がある。この地蔵の前を右に辿ると大内峠を経て若松に至り、左は柳津へと通じていたようだ
地蔵台座に 左柳津/右若松
※ 左柳津は未確認
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大内峠・古戦場と峠の茶屋(2013.07/26)



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2017.07/07(FRI)

笹沼金吾墓 下郷町大字大内字山本51(正法寺)




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笹沼金吾墓
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・笹沼金吾  会津藩/金兵衛弟/十石三人扶持/砲兵隊頭取?/明治元年八月二十九日会津大内峠で戦死/三十五歳/大内・正法寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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・正法寺
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2017.07/07(FRI)

林房之助墓 下郷町大字豊成字楢原2310(圓福寺)




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林房之助墓
墓碑に
 江戸直参旗本/林房之助/忠臣大居士/慶応四年八月二十六日歿/行年二十三歳
とある
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・圓福寺
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・楢原宿
 幕藩体制下での輸送方法は、宿駅から宿駅へ荷物を継ぎ送る「馬継ぎ方式」が原則でした
 輸送された物資の中で、その量からみても筆頭にあげられるのが会津藩米の江戸輸送です。年間十万俵にも及ぶ廻米が、江戸在住の藩士の扶養米、あるいは藩財政操作の資材として送られています
 各宿駅は、当時の物資輸送にとって大変重要な役割を果たしていたのです
 楢原宿の宿駅整備を知る資料としては、本寺圓福寺所蔵の「楢原宿古絵図」があります
 絵図は、旧街道を挟んで東町二十二戸、西町二十二戸の町割りがなされ、寛永一七年(一六四〇)二月二四日の墨銘があることから、寛永年間には楢原宿も宿駅として機能していたことが伺え知れます
 生保四年(一六四七)には、会津藩から宿駅の管理体制についての掟が公布され、寛文七年(一六六七)には街道に一里塚等が築かれました
 このようなことから、下野街道の宿駅や道路が完全に整備されたのは十七世紀中頃と考えられます
     下郷町教育委員会
--現地の案内板から--
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2017.07/07(FRI)

POST 書状集箱 下郷町大字大内(下野街道)




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ご案内
 この郵便ポストは、当「大内宿」が江戸時代の宿場として史跡保存となっておることから、明治五年時に、ここ大内に「大内郵便取扱所(のち大内郵便局・明治十七年廃局)」が、開局されて在ったことを示す記念として、明治四年郵便創業時に東京都内に設置されてあったポスト(当時は、書状集箱という)をここに設置したものです
  赤いポストと同様にご利用下さい
     平成七年七月二日/江川郵便局長
--現地の案内板から--
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