<   2017年 06月 ( 13 )   > この月の画像一覧

2017.06/16(FRI)

筑波山ケーブルカー 茨城県筑波山




--------------------
筑波山ケーブルカー
c0185705_13413659.jpg

写真;2017.05/16

・営業開始の経緯
筑波山ケーブルカーは、大正14年10月に、全国でも5番目に開業したという歴史を持つ
当時の筑波山は、筑波山神社の御神体として、多くの参拝者や修行者が訪れる霊山でした。その筑波山に多くの人に来てもらいたいと、茨城の実業家高柳淳之助氏らが関係機関に働きかけ、筑波山鋼索鉄道株式会社を設立するに至る
その後、昭和19年まで営業を続けるが、昭和19年2月、戦時による不要不急線として営業廃止となるが、昭和29年に営業を再開。平成11年10月に筑波山ロープウェー株式会社(筑波山ロープウェー)と合併して、社名を筑波観光鉄道株式会社と変更し、現在に至る
--引用、要約;筑波観光鉄道株式会社・営業開始の経緯--

 ・宮脇駅;山麓の発着駅で標高305mの地点にある
 ・山頂駅;山頂の発着駅で標高800mの地点にあり、運転室もここにある。駅舎を出ると御幸ヶ原で、ここから左に男体山、右に女体山があって、夫々には15分程歩くと達する
 ・運賃 往復・大人 1050円(小児 530円)
--------------------
昭和天皇御製(2017.05/18)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/09(FRI)

内藤得道墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




--------------------
内藤得道墓
c0185705_12364259.jpg

・内藤得道
明治元年(1868)九月十七日
 内藤一族が泰雲寺で自刃した際に、その様子を見届け、遺品・遺言を介右衛門のもとへと届けた泰雲寺の僧だと云う
--------------------
内藤氏家属墓(2017.06/07)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/07(WED)

大竹主計墓/原 早太墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




--------------------
大竹主計墓
c0185705_20211268.jpg

・大竹主計  会津藩/四百五十石、軍事奉行番頭対席/遊撃隊頭/明治元年九月五日会津面川(御山とも)で戦死/四十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
原 早太墓
c0185705_08532431.jpg

・原 早太  会津藩/三百六十石/朱雀寄合一番隊中隊頭/明治元年九月十五日会津一ノ堰で傷、二十六日面川で死/三十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
一ノ堰の戦い(2013.09/11)
     *
供養塔 大竹主計墓・供養塔・原 早太墓
c0185705_17134814.jpg

供養塔表に
 白虎寄合二番隊長 原 早太之霊
 純義隊主将    大竹主計之霊
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/07(WED)

梶原平馬供養塔 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺





--------------------
c0185705_15384707.jpg

梶原平馬供養塔
平成二十五年(2013)六月吉日建立


梶原平馬 かじわらへいま
 天保13年(1842)? - 明治22年(1889)は、幕末の会津藩家老
・生涯
内藤家に生まれ(内藤介右衛門信節は兄)、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1000石であった。最初の妻・二葉は山川浩、山川健次郎、大山捨松の姉。一子・景清は二葉が養育し、のち海軍軍医大佐となる
・幕末
藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866)、家老に就任。鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬、越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。スネル兄弟の協力を得ている。その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、頼母暗殺指令を下したが、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に幽閉された際は、平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた
・明治
その後、斗南に移住し青森県庶務課長となったが、短期間で辞職し根室へ移住した。会津藩関係者のなかでも長く消息が不明であったが、昭和63年(1988)に墓が根室市で発見された。梶原景雄と名乗っていたという。2人目の妻である貞は私立小学校の校長を務めた教育者であった
--引用・要約;「梶原平馬」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.10/07(金)10;27--
--------------------
会津戦争記聞(2013.08/13)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/07(WED)

武川信臣墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




--------------------
武川信臣墓
c0185705_14593180.jpg

墓誌に
・・・
信臣ハ通称ヲ三彦ト称シ 内藤可隠ノ第三子 戊辰戦争時主家ノ□姓ヲ名乗リ彰義隊ニ属シテ上野ノ山ノ戦ニ奮戦 敗北後 江戸ニ潜伏中西軍ニ捕エラレ凄マシイ拷問ニ屈セズ明治元年十月□日江戸ノ獄舎□刑セラル
    武川信臣
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/07(WED)

内藤氏家臣墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




--------------------
内藤氏家臣墓
c0185705_14400171.jpg

・阿部重四郎  安部とも/家老内藤介右衛門譜代家来/明治元年九月十七日介右衛門の父内藤可隠と子女が若松・泰雲寺で自決したときこれに殉じた/三十歳
・石野八四郎  家老内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で主家に殉じ自刃/三十一歳
・富田喜千六  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自刃
・名野八四郎  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日会津面川の泰雲寺で自刃
・古川重兵衛  内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で主家主家一族と自刃/四十七歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
元木吉之助墓
c0185705_14412835.jpg

・元木喜代之助 吉之助とも/六石二人扶持/家老内藤介右衛門家来/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で自刃/三十五歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/07(WED)

上田氏家属墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




--------------------
c0185705_13005648.jpg

上田氏家属墓
・上田伊閑  八百石、八郎右衛門の父/明治元年九月十七日若松・泰雲寺で子女と自刃/六十一歳
・上田ナオ  シゲとも/八郎右衛門の母、伊閑の妻/明治元年九月十七日夫らとともに自害/五十八歳
・上田チエ  八郎右衛門の娘/明治元年九月十七日一家で死/九歳
・上田ジュン 八郎右衛門の妹/明治元年九月十七日一家で自刃/三十歳
・上田ミネ  八郎右衛門の叔母/伊閑の妹/明治元年九月十七日伊閑らとともに自刃/五十六歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
c0185705_13014319.jpg

--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/07(WED)

内藤氏家属墓 会津若松市門田町面川字舘堀64・泰雲寺




--------------------
--以下、現地の墓誌(部分)から--
墓誌
戊辰戦争ノ風雲急ヲ告ゲ西軍ノ進撃会津城下ニ迫ル 家老内藤信節ノ父 可隠ハ内藤一族 並ビニ家臣及ビ上田伊閑ノ一族ト共ニ城ニ赴クモ城門閉ジラレテ入ルコト出来ズ 止ムナク菩提所泰雲寺ニ待機ス 明治元年九月十七日西軍 一ノ堰ヲ突破シ面川村ニ迫リ来タルトノ報ニ泰雲寺ニテ全員壮烈ナル自刃ヲ遂ゲラル
 内藤家一族
    内藤可隠
    内藤可隠妻 ※モト(つやとも)
    内藤信節妻 ※介右衛門の妻・フサ(ひさとも)
    内藤英馬
      秀
      しだ
      □
      清
      つく
    武川新六姉重
 上田家一族
    上田伊閑
      しけ子
      みね子
      じゅん子
      ちえ子
 内藤氏家臣
    古川十兵衛
    石野八四郎
    安部重次郎
    元木吉之助

信臣ハ通称ヲ三彦ト称シ 内藤可隠ノ第三子 戊辰戦争時主家ノ□姓ヲ名乗リ彰義隊ニ属シテ上野ノ山ノ戦ニ奮戦 敗北後 江戸ニ潜伏中西軍ニ捕エラレ凄マシイ拷問ニ屈セズ明治元年十月□日江戸ノ獄舎□刑セラル
    武川信臣
     *
内藤氏家属墓
c0185705_11531461.jpg

・内藤可隠   二千二百石、重臣介右衛門の父/隠居/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で子女八人とともに自刃/六十七歳
・内藤モト   つやとも/可隠の妻/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/五十八歳
・内藤フサ   ひさとも/介右衛門の妻/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/二十三歳
・内藤ヒデ   介右衛門の娘/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で死/六歳
・内藤英馬   介右衛門の伜/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で死/三歳
・内藤ジュウ  介右衛門の姪/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/二十三歳
・内藤トク   介右衛門の妹/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/十九歳
・内藤ツグ   介右衛門の妹/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害/十七歳
・内藤セイ   介右衛門の叔母/明治元年九月十七日会津面川泰雲寺で自害
・武川俊六の姉 明治元年九月十七日若松・泰雲寺で自害
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
・泰雲寺
c0185705_11533704.jpg

--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/06(TUE)

天然記念物中山風穴地特殊植物群落 南会津郡下郷町湯野上字中山




--------------------
c0185705_20362974.jpg

天然記念物中山風穴地特殊植物群落
     昭和三十九年六月二十七日 国指定
 ここから1km先にある中山風穴地特殊植物群落は、第1指定地から第6指定地まで、6ケ所の区域が国の天然記念物に指定されています。指定地を含むこの中山地区一帯は、所どころで春先から秋にかけて岩石の隙間から冷風が噴出しているため、地中温・地表温が外気と比べて著しく低くなっています。このため、風穴地帯では周囲の植生とくらべ特異な植物群落が発達し、オオタカネバラ、ヤナギラン、ベニバナイチヤクソウなど亜高山帯以高に生育する高山植物が群落をなしています。この中山風穴地は、他の風穴地より規模、面積等も大きく、特にオオタカネバラの群生は、全国でも例をみない規模の大きさにあります
     下郷町教育委員会
 主な植物と開花期
・イカリソウ     (5月初~6月下) ・ベニバナイチヤクソウ(5月中~7月中)
・ムラサキ      (6月中~8月中) ・オオタカネバラ   (5月初~6月下)
・ヤナギラン     (6月初~8月下) ・アツモリソウ    (5月中~6月中)
--現地登り口の案内板から--
     *
・第4指定地
c0185705_21355164.jpg

     *
・冷風体感
c0185705_21370500.jpg

 歩道脇にあって冷風を体感出来た
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2017.06/06(TUE)

岩本の一里塚跡 下郷町(下野街道/南山通り)




--------------------
c0185705_17003673.jpg

岩本の一里塚跡
 会津初代藩主保科正之は、西国では既に実施していた一里六町を一里三六町とする制度を、寛文七年(一六六七)から実施し、この年から領内の街道に一里塚を築かせました
 岩本の一里塚は、起点である会津城下「大町札の辻」からは、九里(約三七km)の位置にあたり、現在の八幡橋付近、国・県道が交差する段丘下であったと云われています。よって、当該箇所は国道崖下となるため、この地に説明板を設置することとしました
 ご覧のようにこの地には、以前は旧街道沿いに立っていたと思われる数多くの馬頭観世音碑が移設されています。中でも、丸彫りの馬の上に蓮弁をのせ、その上に三面六臂の馬頭観世音像は、年代はきざまれていませんが往時を偲ばせるものがあります
 馬の背で荷物を運んだ時代、馬は駄賃稼ぎの貴重な家畜として家族同様の存在でした。このため、愛馬の供養にと馬頭観世音は広く信仰され、本町の各所でも同石碑は見ることができます
 旧街道の一里塚と同様、各所の馬頭観世音碑も旅人の大きな目安となっていたものと思われます
     下郷町教育委員会
--現地の案内板から--
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]