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2017.01/30(MON)

二本松城跡のイロハカエデ 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
二本松城祉




※ 現在、事情があって史跡などを見に行けないでいる。なので当分の間、過去に撮った写真をもとにしてupすることにした
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写真;2013.08/27

二本松市指定天然記念物
一、名称 二本松城跡のイロハカエデ
「笠マツ」の西、園路の左斜面下部に植えられているイロハカエデである
 根元は斜面にそって西側が東側より一・六メートルほど高く、高所面における根回りが三・五メートルあり、高所の根元から約〇・五メートルのところで三本の幹に分かれ、さらに上部で枝分かれし、東西十七メートル、南北十五メートルに枝を張り、樹高が約十二メートルでやや南東に傾いている
 小枝が複雑に張り楓特有の樹形を示すとともに、幹は所々こぶ状をなし古木の観を呈し、秋季には見事な紅葉を見ることができる。樹齢三五〇年から四〇〇年であるが樹勢は旺盛である
 二本松城においては、寛永年間から明和年間にかけて「るり池」周辺の回遊式庭園をはじめとする庭園の整備が行われており、そのとき植えられたと思われる楓の古木が多く見られ、このイロハカエデはその代表的なものである
     平成十二年四月一日指定
     二本松市教育委員会
--現地の案内板から--

※ 二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある日本の城(平山城)。日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。平成19年(2007)7月26日、二本松城跡として国の史跡に指定された。「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されている
--引用・要約;「二本松城」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2017.01/28(土)12;28--

霞ケ城公園[二本松城址](2013.08/30)



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2017.01/29(SUN)

和田峠の戦闘 天狗党西上
和田峠の戦闘




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和田峠の戦闘 (天狗党西上)
元治元年(1864)
・・・
・11月15日
 七日市藩通過。下仁田宿に宿泊
・  16日
 早朝、西に進んで来た高崎藩兵二隊と呼応して出陣した小幡藩、七日市藩兵を後詰めとし、下仁田北方の下小坂村に展開した
 天狗党は虎勇、龍勇両隊を正面攻撃隊とし高崎藩本陣北の伊勢山に義勇隊(朝倉源太郎)を先行させ、斜面から猛烈な銃撃を浴びせた。高崎藩兵は総崩れとなって安中藩領方面に敗走した。天狗党の理想的且つ圧倒的な大勝であった
・  17日
 上信国境の内山峠を越え信州路に入る
・  18日
 望月宿(佐久市)に分宿(軍用金九百両調達)
・  19日
 中山道の和田峠に差しかかると、野戦陣地を構築した高島藩兵約二百名、松本藩兵約四百名が待ち構えていた。午後三時、高島、松本両藩兵が一斉射撃を開始した。天狗党も応戦し肉薄した白兵戦が展開されたが、後方に迂回した天狗党別動隊の挟撃により高島、松本両藩兵は錯乱して逃走した。伊那路に陣を敷いていた高藤藩兵百五十名も撤退した
 だが、天狗党将兵は行軍と戦いに疲れ果て、沿道領民の怯えた眼差しと粗食に精神力も極度に衰え、戦力は戦闘による損耗で九百十五名まで落ちた。藩政派の鮎沢伊太夫ら将校の脱走も相次いだのである

鮎沢伊太夫墓(2017.05/20)
・  25日
 飯田藩の関所を威嚇して木曽路から美濃へ進入(加納藩から軍用金三千両を調達)。吹雪と難路に将兵が脱落する
・12月 5日
 越前(福井)に入る。凍傷、疲労、粗食による衰弱者が激増
・  17日
 天狗党八百二十三名は力尽き、越前敦賀の新保村で追討軍の加賀藩兵に全面降伏した
・・・
--参考文献;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--

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4 天狗党西上(2012.11/10)
1 天狗党挙兵(2012.11/06)



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2017.01/27(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 7
【コマ 323】
・・・
 折しも新発田藩主溝口伯耆守は、俄然として動静を一変せる形迹あり。茲に於て、津川に在りし桑名藩主松平定敬は、報を得て憂苦措く能はず、軍事奉行を送りて、往いて新発田を勸説し、同盟の實を挙ぐるに、藩主を津川に預らんとす。然れども新藩是を聴かず。されば六月十八日を以て、村松藩を先鋒として、會津、桑名、米澤の諸軍を以て、いよ/\新発田城に迫り、大に厳談に及べば、新藩畏怖して異心なきを誓ひ、兵を出して、奥羽軍と共に長岡口に向ふ。以来新発田藩の奮闘、接戦最も努むる所、諸軍、毫も其の異心を疑はず。然れども、新発田藩は、上野征伐につき、既に西軍に欵を通じたるもの、今奥羽軍に伍するも、一度西軍の圧迫を受くれば、旗幟暗々、奈何なる変轉も計る可らず。内実恰も薄氷を踏むにも似たりと云ふべし。若しそれ新発田が、終始一貫、その態度を奥羽軍と共にするあらば、越後口の戦争は、西軍百万を以て當るも、容易に抜く能はざるものゝ由、然るを事茲に出でざるは、會津を追落する唯一の動機となると云ふ。當時越後口西軍に歌はれたる軍歌を見るに「會津殿様トンボの性よ、新発田掃木(伯耆)に落され
【コマ 324】
た」とは、又以て知るべし。余談はさて措き、新発田先鋒とする奥羽軍は、直ちに見附の苦戦を挽回せんとして、南進するに至る。さる程に、曩き(さき)に見附に迫れる西軍は、新発田口奥羽軍の襲来を耳にして、各要衝の地に兵を配り、而して其進撃を阻隔せんとす。然れども奥羽軍は、見附を挽回せんとするもの、疾風迅雷、早くも前衛を破りて、二十二日には、見附に迫れり。時に西軍は福島及び大黒村に在りて、奥羽軍の後背を保つに至りしかば、長岡、會津、庄内の諸軍は、此所に迫りて勝敗を決せんとして進む。されば奥羽軍は初めより攻勢を取るものなるを以て、突戦頗る頑強を極め、砲銃の発射天地を破りて、硝煙朦々忽ち駅中を焼き、肉迫また疾風迅雷も啻ならず。會将佐川、早くも松代の陣を衝き、是を破つて長岡、庄内の諸軍を進ましむ。此間西軍の防戦は、必死をつくして大小の砲を発し、萬山みな呼応して轟声百雷に似たり。庄将石原多門、奇略を以て富山の陣を動かし、鼓声堂々大呼して猛撃す。須臾にして、松代の敗士は加軍と共に反撃し、岡軍の部署に當りて、弾丸雨注す。龍争虎闘、岡軍遂に苦戦となりて、米将中條豊後、同色部兵部、芋川大膳の率ゆる一隊、猛然起つて岡軍を保つに至る。烈戦奮闘、惨また惨を極めて、西軍遂に利非す、土崩瓦解となりて、弾薬砲車を掠奪せられたり。此時に當りて、西軍の一隊は捲土重来して、長岡城下を出発し、往いて大黒村方面の敵を防がんとす。奥羽軍一勝に乗じ、凱歌を挙げて長岡に向へは、両軍の先鋒は突如として相會し、而かも奥羽軍の狼狽殆んど戦守の策を失し、漸く水田に撒兵して防戦しけるが、折しも此所は粘土泥濘にして隊士半身濁水に在り。されば隊士の疲労は、苦戦の陣となりて、最早堪ゆる所に非ず、退きて福井村を保てば、此時新発田口の奥羽軍は、見附に戦つて遂に抜く能はず、今や塁を築きて対峙の姿にあり。此間に於て、西軍は大黒村の防備を益々固む。されば、奥羽軍は、西軍の戦陣その固きを望み見ては前日来の大敗戦に憤激措く能はず、猛然再興の勇を揮つて豨突せんとす。茲に於て、岡将河合継之助、自ら自藩の精鋭を督して急先鋒となり、而して福井村を発す。六月二十四日、岡軍は先陣の勇を揮つて、大黒村の駅外に至れば、遙かに見ゆる西軍の陣、忽然巨砲を発して、力拒甚だ熾ん也。依て後詰
【コマ 325】
の奥羽軍は、
・・・
( 8へ続く)
( 6へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2017.01/21(SAT)

古屋作左衛門の追討
復古記/国立国会図書館デジタルコレクション




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[国立国会図書館デジタルコレクション]復古記 第11冊 コマ番号 457
p.868- 869
復古外記 北陸道戰記 第五 明治元年閏四月五日
【コマ 457】
○是ヨリ先、古屋某(作左衛門)等、越後ヨリ信濃ニ入リ、飯山(本多助成ノ治所)城下ニ逗ル、尾張、松代等、諸藩兵ヲ発シテ之ヲ討シ、北クルヲ追テ越後ニ入ル、東山道総督、乃チ監軍岩村高俊(精一郎、土佐藩士)ヲ遣シテ、諸藩兵ヲ督セシム、是日、書ヲ二督ニ致シテ、其状ヲ報シ、且高田藩ノ形跡疑フヘキヲ以テ、速ニ軍監ヲ派遣シ、本道軍監ト協議シテ、之カ區慮ヲ為サシメンコトヲ請フ。
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 鳥羽伏見の戦いの後、幕府歩兵代11連隊、第12連隊兵士が江戸開城を不服として脱走した。古屋佐久左衛門は彼等を帰順させ、更に第6連隊の兵を加えて約900名の部隊を結成した
・3月 9日
 梁田の戦いでは新政府軍の奇襲攻撃を受けて敗北。翌日、鹿沼にて部隊を再編成し、藤原を経て22日には、会津に入り松平容保に謁見、24日には部隊名を衝鋒隊に改める。翌25日には、若松城下を発ち、水原をへて
・4月 1日、新潟に着いた。その後、11日には与板へ移動、高田を経て23日には飯山城下へと迫った
・4月25日
 衝鋒隊と、新政府軍の松代・尾張藩兵との間に戦闘が始まる。戦いの前半は衝鋒隊が優勢であったが、玉虫色の態度を示していた飯山藩が、衝鋒隊に対して突然発砲、衝鋒隊は総崩れになり敗北した(飯山戦争)
 越後へ退却すると、高田藩の裏切りにあって襲撃され、衝鋒隊は四分五裂となり敗走した。しかし小千谷にて再結集し、閏4月27日からの鯨波戦争では小千谷市南方に位置する雪峠にて会津軍と共によくこれを守ったが、新政府軍の三度に渡る波状攻撃を受け、小千谷を放棄、片貝村へと退いた
--引用・要約;「衝鋒隊/古屋作左衛門」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』--

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↑写真;東軍総督・古屋佐久左衛門(1833~1869)/足利市梁田公民館史料

梁田戦争戦死塚(2014.04/13)
梁田戦争1(2014.04/11)



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2017.01/17(TUE)

壬生義士伝 吉村貫一郎
南部盛岡藩二駄二人扶持足軽、脱藩後新選組入隊




 み ぶ ぎ し で ん
「壬生義士伝」
 浅田次郎による日本の歴史小説。南部地方盛岡藩の脱藩浪士で新選組隊士の吉村貫一郎を題材とした時代小説である。新選組で守銭奴や出稼ぎ浪人などと呼ばれた吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品で、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞した
--引用・要約;「壬生義士伝」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.07/24(日)13;55--
     *
五稜郭に霧がたちこめる晩、若侍は参陣した。あってはならない“まさか”が起こった―義士・吉村の一生と、命に替えても守りたかった子供たちの物語が、関係者の“語り”で紡ぎだされる。吉村の真摯な一生に関わった人々の人生が見事に結実する壮大なクライマックス。第13回柴田錬三郎賞受賞の傑作長篇小説
--内容(「BOOK」データベースより)--

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盛岡藩

盛岡藩は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた

慶応4年(1868)
当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない

明治元年(1868)
  9月24日 盛岡藩、新政府軍に全面降伏
 10月10日 盛岡藩の帰順嘆願が受理される。同日、新政府軍が盛岡城に入城する
 10月14日 奥羽鎮撫総督府から沢宣種が入城、戦後処置を行う
 11月11日 東征大総督府の命を受けた監察使、藤川能登(藤川三渓)が入城。南部利剛、利恭の東京への護送、楢山佐渡・江幡五郎・佐々木直作ら首謀者の捕縛といった処分を執り行う
 11月14日 奥羽鎮撫総督府の行政機関となる、久保田藩兵を中心とした鎮撫行政司庁の管理下となる
 12月 7日 南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を明治政府直轄地として没収
 12月17日 南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を課せられる(白石藩)
 12月23日 「諸藩取締奥羽各県当分御規則」により盛岡藩領は松代藩、松本藩、弘前藩の管理下となる
--引用・要約;「盛岡藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.12/03(土)00;09--

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 本を読んでいて、以前にtv放映(映画、2003年「壬生義士伝」)された中井貴一が演じた吉村貫一郎とどうしても重なって仕方がない
 吉村貫一郎は本名嘉村権太郎、幕末の盛岡藩士(二百石六人扶持)であり慶応元年一月に盛岡へ下向を命じられると出奔した。その後新選組の隊士となる(ウィキ)
現在伝わる吉村貫一郎像は、嘉村権太郎をモデルとした浅田次郎氏の創作であるらしい
--2017.03/24 更新--
     *
【二駄二人扶持】 一駄は馬が背の両側に背負う分の米で、つまり二俵、二駄で四俵。普通これを年に二度か三度に分けていただくから御切米と呼んだ。一人扶持は一日約五合、二人扶持で一日一升。一年で三六〇升(三六斗)、おおよそ十俵
--引用;「壬生義士伝」浅田次郎--



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