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2016.12/18(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
国立国会図書館デジタルコレクション




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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 6
【コマ 321】
・・・
 時に與坂方面に於ては、西軍五百余人の一隊、島崎より進み来つて、突如北野の奥羽軍を襲ふに至りしかば、桑将町田老之丞は、本軍となりて是を防ぎ戦ひ、更に立見尚文は、左翼軍となりて、荒巻山に陣し、両道呼応して俯瞰して撃つ。然れども西軍は大兵のもの、即ち桑軍の寡を侮りて、接戦毫も倔する色なく、更に大砲隊を富岡山に送りて、烈戦奮闘、益々馬首肉迫して猛撃す。桑軍、寡兵と雖も、常に千兵の働きを為すもの、眼前この急迫を望むも、敢て動かず、志気を鼓舞して奮撃突戦、威風甚だ熾ん也。依て西軍は更に一隊を迂回せしめ、以て荒巻の後背を衝かしむるや。桑将立見尚文、猛然起つて、一挙して是を崩すに至る。砲戦天地を震裂し、激闘いよ/\酣となるに至りて、會軍来り是を援護すれば、庄軍又寺泊より駆け来つて、北野を保たむとす。桑軍驀進遂に北山に陣し、而して島崎攻撃の西軍を俯撃す。西軍、北山の変を望み見て大に驚き、兵を送りて是を防がしめんとすれば、早くも桑軍の為めに、島崎の駅中を焼討せらるゝに至りて、陣営惶擾殆んど為す能はず、兵器を捨てゝ、出雲崎にと逃げ走る。
 北越の戦陣、戦闘四方に起りて、攻防いよ/\多端を告ぐるも、新発田藩は尚閉息して、敢て傍観するには、奥羽軍の憤激一方ならず、依て今に於て一挙是を屠らんとす。然るに上杉弾正大弼は、遅々たる新発田の内情を察知
【コマ 322】
し、先づ温和手段を以て彼を収めんと、即ち六月五日を期して、藩主溝口伯耆守をば、親しく米藩に延見し、而して軍謀を建てんと申出でたり。然れども新発田藩は是を解するに、米藩、軍謀を名とするも、實は藩主の出陣を促がし、機に乗じて人質と為し、而して厳談を浴せ掛けるものと為し、一に是が防遏策を講じて、領民を扇動し、土寇を起して、藩主の出陣に反対せしむ。されば土民の狂乱いよ/\實物となりて、領内の騒動言語に絶し、切角来りし米藩の重臣も、是を望み見て同情満身に溢れ、旨を報じて、その会見を中止せざるを得ざりき。
 六月八日、奥羽軍は見附宿の総攻撃を決す。時に西軍はその大口及び十二潟の要衝に厳備をつくし、以て見附の前衛陣を張るにあり。茲に於て、奥羽軍は長岡、米澤、會津、庄内、仙台の大勢を本道に進め、巨砲十数門是を川岸に配置して攻撃の陣を固むるや、更に千坂の大兵を前進せしめて、一呼して此所を猛撃すれば、大口及び十二潟の西軍陣は、一度に瓦解して、敗士は皆見附に走る。されば連勝に乗ずる奥羽軍、喊声今や百雷の如く、馬首は勇んで愈見附に迫る。長岡、會津、庄内の諸軍は、七軒村より進撃し。木本、砲兵の部隊は、福井村より進み。衝鋒、遊撃、新遊撃、浩義、金田及び仙軍を以て、二手に分れて、大口及び十二潟より進み 更に七軒村右側は砲兵、浩義及び庄軍を以て是に當る。斯くて七軒村の會軍は、一躍して本道関門を抜き、福井村の木本隊は、突進するに至りて、大口村方面は奥羽軍の向ふ所敵なし。依て西軍は主力を駅中に収めて、守死防戦、百砲を発して猛勢侮る可らず、攻守の激闘天地唯だ轟々として砲声四面を破り、萬山鳴動して互に勝敗あり。然れども数道より攻め上る奥羽軍の鋭鋒は、忽ちにして胸壁を抜き、陣営に乱入して、鬨を挙げて全軍を躍進せしむ。血戦激闘十数合、龍争虎撃の間に、西軍の苦戦も遂に其堪ゆる所に非ず、隊士の死傷山積して、見附の西軍こゝに壌乱せり。
 見附の敗戦に西軍はその回復を計る為め、敗兵尚ほ援を収めて、主力を五泉及び福井村に駐屯するに至れり。茲に於て、木本隊は福井口に胸壁を築き 岡軍は、五泉口に虎視を張りて、西軍の動静を警戒せしむ。六月十三日に至
【コマ 323】
りて、西軍は砲銃を乱発して突進す。捲土重来。奥羽軍の殊守殆んど計を失して、苦戦堪ゆ可らず、急騎を飛ばして、援を見附に乞へば、會津、庄内、米澤の諸軍は、佐川會将と共に、長駆して是を保つて烈戦奮闘、尚ほ敵する能はざるに至りて、後詰の諸軍は岡将河合継之助に率ゐられて、漸く敗陣を守るに至る。然れども西軍の鋭鋒は、大勢の陣を以て押し寄せ、急転直下、弾丸雨注して益々肉迫するには、奥羽軍みな辟易して防ぐ能はず、先を競ふて見附に敗走し来る。両軍堅闘烈戦相當り、砲声日夜に亘りて、益々弾を込めて戦ふ。龍争虎撃、屍山血河となりて、勝敗尚決せず、惨風吹き巻き起りて、奥羽軍の兵気は次第に沈下するのみ。やがて六月十七日に至れば、奥羽軍の戦闘力は、最早持久の策も尽きて、漸く残塁を固守するに過ぎず。是に反して西軍は益々兵を動かし、包囲の圧迫は日を逐ふて厳を極め、更に精鋭なる別軍は、福井村より迂回して、見附の後背を圧迫するに至る。奥羽軍の鏖戦、みな苦闘の間に隊士は四散し、弾つき、力つきて、最早手の出づるの策無し。
 ・・・
( 7へ続く)
( 5へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.12/10(SAT)

白河城三重櫓 白河城
格子窓から東方を望む




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写真;2016.12/09

 2011年東日本大震災の復旧工事主域は北(裏)及び西側に移ったものの、あちこちでなお継続中であった

三重櫓

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2016.12/06(TUE)

殉節白虎隊士之霊 会津若松市一箕町大字八幡字墓料78(妙国寺)




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写真;2016.12/04
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白虎隊士埋葬由来
 慶応四年(1868)八月二十三日、大野ヶ原に出陣した白虎隊士中二番隊は明け方からの激しい戦闘で負傷者が続出した。味方の必死の攻撃にもかかわらず敵の侵攻は止まない。やむを得ずお城を目ざして退却することとなり、山中をさまよいながら、ようやく飯盛山上にたどりついた。しかし、白虎隊士二十名の見たものは燃えさかる天守閣であった
「もはや、これまで、君公も自刃し果てなられたであろう。敵の恥ずかしめを受けるよりは、いさぎよく自刃しよう」。と衆議一決、山上の露と消えた
 白虎隊士の遺体は誰も手をふれることが出来ず、野ざらしの状態であった。牛ヶ墓の吉田伊惣治は余りにも可哀そうに思い、夜な夜な遺体を菩提寺の墓地に運び埋葬したのである
 よって当山は白虎隊士最初の埋葬地である
     妙國寺
--現地の案内板--
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白虎隊士自刃仮埋葬地
 宝光山妙国寺(ほうこうさんみょうこくじ)は、顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)開祖の日什上人(にちじゅうしょうにん・1314~1392)が誕生・入滅した霊場である
 戊辰戦争直後、会津藩主松平容保(かたもり)・善徳(よしのり)父子がしばらくこの寺に謹慎した。また、飯盛山(いいもりやま)で自刃した白虎隊士の一部の遺体が仮埋葬された所でもある
--現地の案内板--
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妙国寺
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飯盛山/白虎隊十九士(墓)(2016.07/23)



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2016.12/05(MON)

古田伝之助墓 会津若松市北会津町下荒井16(宝寿院)





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写真;2016.12/04

古田伝之助  会津藩/敢死隊/明治元年八月二十三日会津笹山で戦死/四十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※ 藩の募兵に応じ敢死隊に編入。西軍が城下に迫るや、白虎隊などと共に戸ノ口原に出陣、笹山で戦死した

宝寿院
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2016.12/05(MON)

立木観音堂 福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原2944




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写真;2016.12/04

日本遺産 会津の三十三観音めぐり
     --巡礼を通して観た往時の会津の文化--
会津三十三観音第31番札所
立木観音堂
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 観音堂及び千手観音菩薩の其々が国重要文化財の指定を受けている。観音堂は寺伝によると建久年間
(1190年~1199)に建立されたといわれ、架構や細部手法などすべて和様で構成されている
 千手観音菩薩は塔寺の立木観音といわれるケヤキ材の一木造の千手観音像で、像高7.42メートル、総高は8.5 メートル余りの大像である
 なお、この千手観音には眷属として二十八部衆と風神・雷神合わせて30躯が完全な形でそろっている
・御詠歌
遥るばると 参りて拝む恵隆寺 いつも絶えせぬ松風の音
--極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー--
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隣接して、国重要文化財 「旧五十嵐家住宅」 がある
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2016.11/04(SUN)

塚越冨五郎墓 喜多方市高郷町上郷下り
小栗上野介家臣




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戦死之墓
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写真;墓碑側面、2016.12/04

塚越冨五郎墓
「戊辰掃苔録」竹さんのサイトを見てお参りに行く。墓碑は経年劣化が進み、判読出来たのは表面の「戦死之墓」と側面の「上州館林藩士」と刻まれた文字のみで、他は読めず。慰霊碑(↓リンク)が喜多方市高郷町上郷字一竿にあって、2年を経て墓碑にめぐり逢えた。親しかった知人とのそれと同じ懐かしさがある

塚越冨五郎慰霊碑(一竿墓地)(2014.11/06)

※ 墓地附近の風景
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佐藤銀十郎墓(2014.04/19)



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2016.12/02(FRI)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 奥羽の巻(第二巻)
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↑写真;著者佐藤浩敏
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奥羽の巻(第二巻)/北越戦史
(二)北越の接戦 5
【コマ 320】
 金崎に於ける西軍の一敗、雷塚の陣、また守備弛む。茲に於て、桑軍は突如横背に現はれ、疾駆して弾丸雨注するや。西軍惶擾殆んど戦守に苦しみ、土崩瓦解となりて、鹽の入嶺に敗走す。依て二十八日、奥羽軍一勝の勢に乗じ、桑軍を先鋒として来り是を攻めけるが、敗士今や四方より群集して今や大勢の陣、桑軍破竹の勢ひを以てするも、何ぞ一手を以て抜くべくも非ず。茲に於て、兵を引き揚げ、而して本道の味方と合撃せんとす。時に西軍の一隊は、島崎に侵入の報あり。依て桑将町田老之亟は、北野の要衝に到りて、その到るを扼守す。さる程に、本道進撃の會津、村上、上ノ山の諸軍は、進み来つて遠浦に陣し、以て長軍奇兵隊と接戦猛烈也。元来長の奇兵隊は、兵制を改良して、教練また本邦第一と称するもの、その作戦の巧妙勇敢の術技奥羽軍を壓すること數等。されば是を對敵とする奥羽軍、また如何に困難なりしぞ。龍争虎撃、銃戦遂に破れしかば、見る/\蛍勇を揮つて、抜刀して突進す。血戦激闘、死傷相當り、有繫(さすが)の奇兵隊も遂に守りを失して潰走す。時既に桑軍の一隊は大山に迫り、砲声三方に湧きて天地轟々、萬山震裂して奥軍利あらず。
 五月二十九日、會津、桑名、上山の諸軍は大山を発し、根小屋に到つて、夜の明くるを待ち、六月一日の暁氣を侵して、小島谷より阿弥陀山に豨突すれば、此所は西軍の守備百砲を発し、弾丸を注ぐこと雨霰の如し。依て桑将大平九右衛門は、一隊を率ゐて備後山より背撃せんと、麓を迂回して兵を進むれば、又もや起る西軍の射撃陣、発銃一斉に弾丸を送って、遂に桑軍を破り、督将大平九右衛門を殪すに至る。茲に於て、桑軍みな小島谷に退かさるを得ざりき。されば桑軍督将立見尚文は、味方の敗戦に憤激措く能はず、是より寺泊に進みて、庄内、會津の諸軍と合し、以て出雲崎を攻撃せんとす。されど會藩是に賛せず、議、遂に決せずして此所に宿陣せざるを得ず。
 六月二日に至れば、本道進撃の奥羽軍先鋒は、道中雨露の困苦を凌んで、漸く今町に達す。然るに此所には、既に西軍の陣するありて、薩州、長州、高田、松代、富山の諸軍、部署を保つて巨弾を連発す。會将佐川官兵衛、隊
【コマ 321】
士を激督して猛進すれば、西軍の胸壁は白煙朦々銃丸雨注して、防戦最も頑強也。攻防烈戦、龍争虎闘となりて、勝敗決せず、両軍の死傷惨また惨を極む。折しも猛弾は信濃川対岸より飛び来つて、西軍の後背陣を襲ふに至る。西軍愕動殆んど為す所を知らず、後顧の憂色今や陣頭に漲りて、部署大に弛めり。何ぞ計らん、米軍督将千坂太郎左衛門、衝鋒、遊撃、新遊撃、浩義、金田の諸軍を率ゐて、対岸に雄飛せるを。茲に於て、本道の奥羽軍は、一斉に躍進して益々弾を注ぎ、南北挟撃の陣形に、志気昇天の慨を示すに至れり さる程に、庄軍の一隊は今町を始め、中ノ島、千戸の各部落に侵入して火を放ち、駅中を焼き払つて、西軍に肉迫すること豨突迅雷、威勢甚だ猛悪なり。さる程に、奥羽軍の突入は四方に起りて、大呼の壓迫何ぞ西軍の堪ゆる所ならんや、見る/\土崩瓦解となりて敗走す。
 時に與坂方面に於ては、
・・・
( 6へ続く)
( 4へ戻る)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)



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2016.12/01(THU)

アメリカ領事館(本覚寺) 神奈川県横浜市神奈川区高島台 1-2




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写真;t.hさん提供

本覚寺
 本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた
 開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという
 領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である
--神奈川宿歴史の道--
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※ 山門の白くペンキを塗られた跡は今に残るが、随分と薄くなってきている模様



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