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2016.09/30(FRI)

大鳥圭介の英・米産業視察日記 福本龍著/国書刊行会 2007




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明治五年・六年
大鳥圭介の英・米産業視察日記

・目次
はじめに
 帰国後の大鳥圭介
第一章 五稜郭の敗戦から牢、そしてイギリスまで
 黒田清隆の助命運動
 無罪放免から開拓使出仕、アメリカへ
 混乱のアメリカ出発前夜
 横浜港より出航
 サンフランシスコでの外債募集
 ワシントンで岩倉使節団と
 森有礼の反対
 ロンドンでの攻防
 岩倉使節団 ロンドン着
第ニ章 イギリス各地の産業視察
 ロンドンでの産業視察
 イギリス各地の産業視察
 ロンドンよりバーミンガムへ
 バーミンガムの工場視察
 リバプールの工場視察
 マンチェスターの工場視察
 伊藤博文訪来
 エディンバラの工場視察
 グラスゴーの工場視察
 ニューカッスルの工場視察
 まだ続く岩倉使節団の視察旅
第三章 再びロンドン
 外債募集のその後
 続いて大鳥の日記
 ジョイント銀行の倒産
 ロンドン大学で舎蜜(化学)を学ぶ
 岩倉使節団、イギリス女王と謁見
 岩倉使節団、フランスへ出発
 東洋(オリエンタル)銀行と外債交渉成立へ
 ナポレオン三世の葬式
 外債募集の成功
 外債の日本への送金
 アメリカへ、吉田清成一行は帰国の途へ
 イギリスでの余話二題
   ロンドンでポンプ購入の件
   スコットランド幼児絵本を本邦展覧会へと送る
第四章 アメリカでの産業視察
 フィラデルフィア
 ハリスバーグ
 ナイアガラ
 ピッツバーグとその周辺
 ハリスバーグ
 ニューヨーク
 ボストン
 ニューヨーク
 トロイ
 ボストン

吉田清成への書簡二通
英米産業視察の感慨
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明治維新後(大鳥圭介) (2016.09/26)



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2016.09/26(MON)

大鳥圭介 天保 4年(1833) 2月25日- 明治44年(1911) 6月15日




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明治維新後

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・明治 5年(1872) 1月 8日 特赦により出獄。のち、新政府に出仕して、左院少議官、開拓使5等出仕を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉の為に歴訪した
・明治 7年(1874) 3月   帰国し、開拓使に戻る。後に陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕となる。技術官僚として殖産興業政策に貢献した。工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス、造船、紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発にも関わる。また、内国勧業博覧会の審査員として国内諸産業の普及と民力向上に尽力し、「工業新報」を発刊して先進的技術の普及に努めたほか、「堰堤築法新按」の翻訳や民間草の根レベルの水利・ダム技術の紹介などに努めた
・明治10年(1877)     工部大学校が発足し校長に任命される
・明治14年(1881)12月 3日 工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位になる。同年、東京学士会院会員に任命される
・明治18年(1885)12月28日 元老院議官に就任
・明治19年(1886) 4月10日 学習院院長兼華族女学校校長となるなど、技術・教育関係の役職を歴任。その後は外交官に転じる
・明治22年(1889) 6月 3日 駐清国特命全権公使を拝命し、11月に着任
・明治26年(1893) 7月   朝鮮公使を兼任し、翌年 6月には朝鮮へ赴任。大院君に対して朝鮮の近代化を建言し、朝鮮の反日派から発砲を受けるなど日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たった
・明治27年(1894)10月11日 公使解任。帰国後の同年11月10日枢密顧問官に転じる
・明治33年(1900) 5月 9日 多年の功により男爵を授けられる
             晩年には、小田原大海嘯で被災したり、息子に相次いで先立たれるなどの不幸に見舞われた
・明治44年(1911) 6月15日 神奈川県足柄下郡国府津町の別荘において食道癌のため死去。享年78
--引用・要約;「大鳥圭介」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.08/25(木)10;11--
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栃木、福島の戊辰戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
栃木、福島の戊辰戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2013.12/01)
箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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2016.09/22(THU)

宇都宮藩士之墓 ひたちなか市田彦字林山(田彦中卵塔共同墓地)




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 墓碑向って左;「宇都宮藩士九人之墓」
  〃   右;「宇都宮藩役夫両人之墓」※ニ人
写真;2016.09/22

宇都宮藩士之墓
 明治維新前夜、水戸藩のいわゆる天狗諸生の争乱時において、天狗党鎮圧の為幕府は関東諸藩に追討を命じたその時の事である。
 元治元年九月、幕府軍の宇都宮藩の一隊が田彦に宿陣、額田に戦う天狗党の一隊は田彦に迫り宇都宮藩兵と激戦を展開。為に火の海と化した田彦宿は忽ちにして焼野原となったこの戦いに宇都宮藩九名、役夫二人が戦死してこの地に眠る。
 藩士 城所此面武貞
    和田荘五正恭
    小松鉞彌尚利
    松岡輪之丞高尚
    城所藤助武貞
    澤井又吉郎義英
    岩田鉞蔵政春
    松坂登記次光行
    久保次左衛門長政
 役夫   多蔵
      文五郎
平成元年春吉日 田彦 平野為・・ / 撰文書古市・・
--現地の案内碑から--
     *
元治甲子の乱(1864)の時、天狗党を鎮圧するために出兵した宇都宮藩戸田越前守の一隊が、9月6日、田彦村に陣を張りました。9日早朝、額田合戦の余勢を駆って田彦宿におもむいた天狗党と交戦となり、田彦宿はたちまち放火に包まれ灰燼に帰しました。宇都宮藩勢は惨敗し、藩士9人、役夫2人が犠牲となりました。田彦中卵塔共同墓地には、翌年の慶応元年(1865)秋に遺族が一周忌に際して建てた2基の墓碑があります。
所在地:ひたちなか市田彦字林山(田彦中卵塔共同墓地)
--ひたちなか市hp「文化財紹介」から--
     *
天狗党討伐幕府軍・宇都宮藩戦死者
 栗原隣六    元治元年九月八日常陸田彦村で戦死
 小崎鉞弥    小山とも/元治元年九月八日常陸田彦村で戦死
 岩田鉞蔵    元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 沢井又吉郎   元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 城所此面    元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 城所藤助    元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
 田村新之助   元治元年九月九日常陸田彦村で戦死
   嘉吉    元治元年十月十日常陸那珂湊で戦死
 前田雅八郎   元治元年十月十日常陸那珂湊で戦死
 久保治右衛門  元治元年十月十七日常陸部田野で戦死
 福井 栄    隊長/元治元年十月十七日常陸部田野で戦死
   兵吉    福井栄の従者/元治元年十月十七日常陸部田野で戦死
 辻 半蔵    甲長/元治元年十月十八日常陸部田野で戦死
 松坂登記治   元治元年十月常陸で戦死
 石原鎮衛    元治元年十月常陸で戦死
 相良勝之助   元治元年秋常陸で戦死
 藤沢伴右衛門  元治元年秋常陸で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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2016.09/22(THU)

福島藩士の墓 ひたちなか市中根字堂山(堂山共同墓地)




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写真;2016.09/21

福島藩士の墓 ひたちなか市指定史跡/昭和五十六年四月一日指定
 福島藩士の墓は、元治甲子の乱の際、幕府軍の援軍として参加した奥州福島藩、三万石板倉内膳正の家臣の墓である。碑には、十月十日奥州福島板倉臣戦死連名と刻まれており、元治元年(一八六一)十月十日に戦死したことが明らかである。元治甲子の乱は、幕末水戸藩を二分する戦であるが、その中でも部田野の戦いは、激戦地の一つであった。中根城跡には、二本松藩士や、福島藩士が駐屯していたため、はじめ戦死者の遺骸を中根城跡近くに埋葬したが、のちに現在の堂山共同墓地に改葬したものである。
  平成六年十月 ひたちなか市 教育委員会
                西野茂男/打越丈夫/西野昭
--現地、「福島藩士の墓」碑から--
※ "元治元年"は(一八六四)が相当
     *
元治甲子の乱(1864)の抗争が拡大していく中で、幕府は関東周辺の諸藩に天狗党追討の命を下し、幕命を受けた福島藩は遠征をし、元治元年10月9日・10日の熾烈を極めた部田野原の合戦で16名の戦死者を出しました。この戦死者は中根の堂山共同墓地に埋葬されており、墓碑には福島藩板倉家の臣、武士12名と中間4名の名前が刻まれています。なお、館山の浄光寺にも福島藩士の墓があります。
所在地:ひたちなか市中根字堂山1439(堂山共同墓地)
--ひたちなか市hp「文化財紹介」から--
     *
天狗党討伐幕府軍・福島藩戦死者
 秋藤与惣左衛門 元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 浅井政之助   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 大久江金助   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 太田保太郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 加藤金次郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 加藤東三郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 加藤兵五郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 菅野藤四郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 小石良八    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 小菅庄兵衛   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 小林范平    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 佐藤文平    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 斎藤平冶    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 斎藤元右衛門  元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 佐藤元蔵    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 佐藤弥助    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 城島一郎    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 白取定吉    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   甚助    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 鈴木安之助   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 鈴木茂吉    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   為助    夫卒/元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 丹治三十郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   留吉    卒/元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 内藤七三郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 内藤豊次郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 長尾要助    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 名倉庄一郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 原田浅治    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 本多小七    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
 宮田弥一郎   元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   林七    元治元年十月十日常陸部田野で戦死
   市兵衛   元治元年常陸で戦死
 岩上主鈴    元治元年常陸で戦死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
 ↓元治元年十月十日の戦いによって戦死した天狗党勢の墓を次にリンクした
首塚(忠勇戦死之墓)(2015.10/22)

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2016.09/20(TUE)

宮乃松記念碑 那須塩原市一区町・那須開墾社第一(一本木)農場事務所跡





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写真;矢板武によって建てられた宮乃松記念碑・2016.09/20

史跡 親王台
   那須塩原市指定文化財/昭和三十九年一〇月一日指定
 明治一四年(一八八一)に明治天皇の東北・北海道巡幸に随行した有栖川宮熾仁親王、栃木県内を通行した際に天皇の名代として那須野ヶ原の開拓地を訪れました。訪れるにあたり、開墾地を良く見渡せるようにと、同年六月那須開墾社により、当時この地に構えていた事務所に隣接して塚が築かれました。塚の規模は、一辺約一五~一八メートルのほぼ正方形で、高さは東側が四メートル、西側が約ニ・五メートルです
 この台には、明治一八年(一八八五)にも那須疏水通水式に列席した北白川宮能久親王が訪れ、松をお手植えになりました(宮乃松)。なお、塚の上には、明治四〇年(一九〇七)に矢板武によって建てられた宮乃松の記念碑があります
--現地の案内板から--
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親王台・那須開墾社(2012.09/12)



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2016.09/18(SUN)

慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史 蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
国立国会図書館デジタルコレクション




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箱館戦争概略図 1

※明治 2年(1869) 4月12~14日
蝦夷の巻(第三巻)/二俣口の要塞
【コマ 444】
(一)二俣口の戦
 西軍第三軍は乙部村より北進して、間道二俣口に逼るにあり。夫れ二俣の地たる、蝦夷軍北邊の要害たると共に、江差と相俟つて西海岸の防備なり。されば蝦夷軍に於ては、陸軍奉行土方歳三を総督将と為し、傳習、衝鉾、工兵、砲兵の諸隊を送りて、山間険難の地を選びて、絶壁に陣営を置くものとす。
 四月十二日、西軍先鋒は、馬首肉迫して、暁霧を冐して二俣口の前衛を襲ふ。折しも蝦夷軍は糧食を取り居たることゝて、突然の襲撃に、一営惶擾殆んど戦守に苦しみ、退いて急を本陣に告ぐ。依て傳習隊は進んで山谷の険に據り、弾を込めてその到るを待つや。松軍先鋒の西軍は、□一勝の勢ひに乗じて、いよ/\二俣陣に現はれ来る。茲に於て、傳習隊俯瞰の陣は、弾丸雨注して攻め立つ。西軍、驚き迷ひ、仰へて是に接戦しけるも、俯仰の接戦遂に堪ゆ可らず、逸早く陣を捨てゝ走り去る。砲声本陣に達し、戦勝の報を得て蝦夷軍の志気大に振ふ。さる程に、□の隊旗を押し立てゝ、弘軍の精兵は、先陣の勇を揮つて、傳習隊を目掛けて、大呼豨突す。彼我の接戦いよ/\酣となるに至りて、松前、大野、長州の諸軍は、傳習隊の疲労を衝いて、突進甚だ急なり。然れども傳習隊の作戦巧みに妙を極め、更に高地を占むる陣形なるに依り、西軍、大兵を以て是を攻むるも、容易に進む能はず、大砲を並列して互に砲撃す。折しも薩軍は山手に深入し、迂廻して二俣本陣を襲はんとせしが、此時傳習隊を援けんとして来れる衝鉾隊と、俄然途中に於て相会し、隊士の惶擾殆んど混乱し、土崩瓦解となりて走り去る。かくて日も暮れ
【コマ 445】
て西軍は兵を引く。土方歳三、全軍に令して曰く、『敵、この山谷に在りながら、更に間道を迂回するに於ては、何れより攻め寄するか計り難し、さらば諸隊は、一同此岩砦に據り、今夜は徹夜の警戒を為さむ』と。依て全軍は本陣に在りて戦守を固め、偵察を頻りに派遣して虎視す。果たせるかな、西軍の夜襲は、大呼豨突の勢を以て、二俣本陣にと攻め来る。蝦夷軍の砲兵隊、西軍を大陣地の中に収めて、巨弾を注ぐこと猛烈。さる程に、西軍歩兵は砲弾の下を潜行し、鳴りを殺して、愈々本陣の砦下に進み、突如として弾丸を雨注す。蝦夷軍、此襲来に驚き立ち、俄かに榴弾砲を呼び寄せて、縦横無盡に乱撃すれば、電光石火、爆裂四方に轟き、天為めに崩れんとす。
 両軍の戦闘日夜に兼行し、十三日の曙光、ほの/\と東に昇る。されど暁霧は益々疊み、両軍の対峙解けず。茲に於て、蝦夷軍は大霧に乗し、衝鉾隊を先鋒として、西軍の疲労を衝くに鬨を挙げて発す。参軍大川正次郎、同大島寅雄、同畠山五郎七郎等衝鉾、傳習の諸隊を督して、急転直下砦下を掃蕩し、逃ぐるを追つて、遂に弘軍の陣に迫る。弘軍堅守銃を乱発して、相接戦する程に、その薩軍は大野、松前の敗軍を還り返して、大に畠山の陣を横撃するに至る。左右の猛撃に、畠山、遂に敵する能はず、百歩を退きて是を防げば、二俣の本陣横背に進みて、西軍の足もとに銃を発す。西軍惶擾兵は疵れて起つ能はず、土崩瓦解となりて遠く引く。さる程に、西軍荒手の精鋭は忽ち攻め来りて、肉迫捲土重来し、左翼に銃手を保つて、抜刀して進み来る。蝦夷軍殊守尚當る可らず、退きて再び岩砦に據りて是を防戦す。西軍益々後続兵を増し、一挙に此所を抜かんとして、突戦前日の談に非ず。龍争虎闘、砲銃の乱撃彼我に起り、隊士の殪るゝもの其数を知らず。されど此所は難攻の要害地、守備兵は僅かに五ヶ小隊と雖も、西軍大勢七連発の元込銃隊に當つて、優に是を支ゆるに足るもの。二昼夜に亘る攻防の激戦、蝦夷軍の一銃千発を放つて、銃身既に熱し、冷水を桶に汲み取り来つて、砲銃を是に浸しつゝ、発銃益々頑強也。されば西軍の鉄砲も発熱全く用を為さず、浸水の余暇も無き圧迫に、今や屍山血河となりて、苦戦大敗、日の暮るゝを待つて、遂に潰え去る。此戦争に於て、蝦夷軍は三万五千の銃弾を要したると云ふ。
【コマ 446】
(以下、略)
--引用・要約;「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」/国立国会図書館デジタルコレクション--
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慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史(目次)(2016.02/22)

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二俣口の戦い
 箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦し、2週間にわたって新政府軍の進撃を阻止した
     *
明治 2年(1869)
・ 4月 9日 乙部に上陸した新政府軍1500名は3ルートから箱館に向け進軍を開始する。二俣口ルートは箱館への最短路で、稲倉石から二俣、大野村に至る峠越えのルートであった。大野川沿いの道を進み、川が二又に分かれる地点で渡河し、正面の台場山を越えるか或いは迂回するかとなる。新政府軍は軍監駒井政五郎が松前・長州藩兵など500を率いて進撃
・  10日 旧幕軍(蝦夷軍)は陸軍奉行並・土方歳三が衝鋒隊2個小隊と伝習歩兵隊2個小隊など300の兵を率い、台場山に本陣を置いた
・  13日 江差から進軍してきた新政府軍、天狗山を攻略しそのまヽ台場山本陣に攻撃を開始する
   自他ともに兵を繰替翌十三日朝第七字過迄十六時間の戦争、敵進む能わず終に引退く。此段我兵の費す所の弾薬殆んど三万五千発に及び、・・・(「麦叢録」・小杉雅之進)
※↑で、「十三日朝第七字過迄」とあるのは、「十四日朝第七時過迄」と読み替えると解り易い?
・  14日 新政府軍、銃弾を撃ちつくし、疲労困憊して稲倉石まで撤退
・  16日 新政府軍、第ニ陣2400名が江差に上陸すると二俣方面に援軍(薩摩・水戸藩兵ら)を派遣する
・  17日 以降)旧幕軍、滝川充太郎が率いる伝習士官隊2個小隊が増強
・  23日 新政府軍、旧幕府軍の左手の山から小銃を撃ち下ろし、そのまま夜を徹しての大激戦となる 
・  24日 未明、滝川充太郎率いる伝習士官隊が新政府軍陣地に突撃を敢行
・  25日 未明、新政府軍、撤退しこれ以降台場山攻略をあきらめ、迂回路の構築に専念する
・  29日 二股口で土方軍が新政府軍の進撃を食い止めている一方で、松前と木古内は新政府軍に突破され、旧幕軍は矢不来で守勢に回っていた。その後矢不来が突破されたことにより退路を絶たれる恐れがあった土方軍は五稜郭への撤退を余儀なくされる
--引用・要約;「二俣口の戦い」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.04/15(水)14;19--



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2016.09/16(FRI)

新江寿三郎正教墓 大田原市黒羽小前田(共同墓地)




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写真;2016.09/16

黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・新江寿三郎正教 克成とも/義助の弟/卒/明治元年四月十八日官軍隊長祖式金八郎と連絡に出て幕兵に捕えられ、十九日下野河内郡本郷村で斬/二十五歳/黒羽小前田に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
慶応 4年(1868)
・四月十九日
 秋月・土方隊は宇都宮城攻撃を前に、本陣を蓼沼村(現上三川町)満福寺に置いたが、この時に捕えた黒羽藩斥候兵三名(四名か)を斬首した。北関東戊辰戦争(昭和五十七年発行・田辺昇吉著)では、「黒羽藩士鈴木庄作、新江寿三郎、長棹速水他一名」とあって・・・

黒羽藩士墓(2015.12/03)
鈴木庄作墓(鎮国社)(2015.10/30)
長棹速己之墓(鶏足寺)(2015.04/03)
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2016.09/16(FRI)

新江新吾克巳墓 大田原市黒羽小前田(共同墓地)




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写真;2016.09/16

黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・新江新吉克巳 新吾とも/明治元年九月二十七日下野佐良土村で南下の市川勢と戦い死/四十六歳/黒羽小前田に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

戦死供養塔(2013.12/19)

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2016.09/13(TUE)

有栖川宮熾仁親王殿下の.. 西那須野・三区町635




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写真;2016.09/13

明治14年(1881)
・・・
 明治十四年(一八八一)八月六日、明治天皇の御名代として、有栖川宮熾仁親王殿下が神社に御参拝、那須開墾社の印南、矢板等の開拓の労を賞せられ、松を御手植えになられました。社殿の「烏森神社」の扁額は殿下のお書きになられたものです
・・・
--現地の案内板から--

烏森神社(2016.01/12)

有栖川宮熾仁親王殿下 東征大総督
慶応 4年(1868年)
・ 1月
 薩長の度重なる挑発に対し旧幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発する。このとき、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た。西郷隆盛らに補佐され新政府軍は東海道を下って行くが、この道中の早い段階で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を内々に固めていた
・ 3月 6日
 駿府城において東海道先鋒総督の橋本実梁や大総督府下参謀の西郷隆盛らを集めて、表向きには江戸城攻撃の日取りを3月15日と定める一方、同時に「秘事」として慶喜の謝罪方法や、江戸城の明け渡し・城内兵器の処分・幕臣の処断などの方法について方針を発表している
・   7日~12日
 江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮公現入道親王と会見し、公現入道親王に慶喜の恭順の意思を問うている
 幸い、熾仁親王の進軍した東海道ルートにおいて、新政府軍は一度も旧幕府勢力の武力抵抗に遭遇することなく江戸に到達
・ 4月11日
 江戸城は無血のうちに開城される。この日、慶喜は死一等を免じられた代わりとして謹慎するため水戸へ発った。江戸到着後まもなく太政官制度が発足して三職は廃され、熾仁親王の総裁職は解かれた
--引用・要約;「有栖川宮熾仁親王」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.08/21(日)12;34--



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2016.09/06(TUE)

会津中街道(松川街道)下郷町野際




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写真;2016.09/06

会津中街道(松川街道)
 至 野際一里塚
   観音沼方面(約一〇〇〇メートル)
 ※現在は遊歩道となっている旧街道跡である
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慶応 4年(1868)
・ 8月24日 大峠
 三斗小屋に滞陣する館林&黒羽藩隊、会津国境の大峠を占領
・ 8月26日 中峠&駒返坂の戦い
 館林&黒羽藩隊、三斗小屋から野際に向けて進出。途中の中峠と駒返坂で戦闘、会津藩隊は敗退した。中峠には約50人、駒返坂には約200人の会津藩兵がいたと云う(西軍両藩の記録)
この日の戦闘で
 青龍足軽四番隊長の有賀左司馬(32才)
 同寄合二番隊長の原平太夫(44才)
等が戦死。残った隊士は野際を退き、田島方面の会津藩隊に合流した模様



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