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2016.08/31(WED)

函館戦争図




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 戦争の日本史18
 戊辰戦争
 保谷徹著/吉川弘文館2007年初版発行
--この本のカバーから--
函館戦争図 市立函館博物館五稜郭分館所蔵
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箱館戦争 1/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/07)
箱館戦争 2/2 南柯紀行/大鳥圭介(2014.10/09)



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2016.08/26(FRI)

森林の分校/ふざわ 只見町大字布沢




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写真;2016.08/25


 森林の分校 ふざわ
※ 廃校になった旧分校を利用した"地域活性化"の拠点施設のようだ



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2016.08/26(FRI)

森川余所之助墓 只見町大字小林字七十苅 881(新福寺)




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写真;2016.08/25


森川余所之助
金沢藩(加賀・百二万三千石・前田氏・外様)
 森川余所之助氏里 忠久とも/戦兵/津田玄蕃家臣/明治元年九月二十三日会津入小屋村で傷、自決/二十一歳/岩代小林村・新福寺に葬/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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新福寺
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写真;2016.08/25



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2016.08/25(THU)

太田治右衛門墓 只見町大字布沢(龍泉寺)




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写真;2016.08/25

太田治右衛門
金沢藩(加賀・百二万三千石・前田氏・外様)
 太田治右衛門貞素 司令役/明治元年九月二十四日会津滝原村で戦死/二十七歳(二十二歳とも)/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
西軍戦死者の墓
 加賀藩太田治右衛門は九月二十四日「滝原の戦い(只見町坂田)」で戦死した。その遺骸は只見町布沢の龍泉寺に埋葬されている
 龍泉寺の過去帳には「義龍院殿勇進剣輝大居士行年二十七歳」とある
--只見町河井継之助記念館展示資料--
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龍泉寺
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写真;2016.08/25



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2016.08/25(THU)

義民茂左衛門供養碑 只見町大字布沢(龍泉寺)




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写真;2016.08/25


義民茂左衛門供養碑
 茂左衛門は、享保五年(一七二〇)南山御蔵入騒動における百姓側代表の一人である
 布沢村名主、孫右衛門の弟で、享保六年二月、兄の意を受け代表十五名と共に江戸にのぼり、江戸直訴において指導的役割を担った人物である
 幕府の詮議により、直訴人中の首謀者と断定され、享保七年六月二十七日、江戸において死罪となり、首は七月朔日、江戸より田島に運ばれ、鎌倉崎に晒首となった
 兄、孫右衛門は、「騒動の頭取」の一人とされ、田畑半分家財残らず取上げ、名主役召し放ちの罰を受けた
  平成六年九月
  只見町御蔵入騒動研究会
  只見町教育委員会
--現地の案内板から--
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田島陣屋跡(南会津・南山御蔵入五万石騒動)(2012.09/02)



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2016.08/22(MON)

忠が不忠になるぞ悲しき 水戸藩諸生党始末




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水戸藩諸生党始末
忠が不忠になるぞ悲しき
 穂積忠著

目次
  まえがき
 諸生蜂起
 南上
 下妻戦争
 水戸帰還
 大発勢水戸へ
 那珂湊戦争
 部田野原
 天狗党勢大子へ
 藩政改革
 天狗党壊滅
 幕府目付下向
 水戸脱出
 越後戦争
 会津戦争
 水戸へ
 弘道館の戦い
 脱出行
 松山戦争
 潜伏
  参考文献
  あとがき

2011年 7月20日初版/発行所・株)日新報道
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市川三左衛門(水戸諸生党) (2016.08/19)



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2016.08/19(FRI)

市川三左衛門 水戸諸生党




 水戸藩士・市川弘教(1000石)の二男として生まれる。弘教の長男・弘業の死去後の1843年に家督を相続。小納戸頭や小姓頭、馬廻頭、大寄合頭等の要職を歴任し、門閥派(諸生党)の重鎮として改革派(天狗党)と対立した
安政 7年(1860)
 尊皇攘夷的な改革路線を推進した藩主徳川斉昭が死去すると、若年の藩主徳川慶篤のもと藩論は幾つにも分断され、藩内抗争は激しさを増した。その中で市川ら保守派は、尊攘派の武田耕雲斎らの率いる天狗党と鋭く対立した
元治元年(1864) 
 天狗党の筑波山挙兵にあたり、市川らは幕府の援助を受けて乱の鎮定に努め、天狗党の敗走後は執政として自ら藩の実権を掌握した。一躍、家禄3000石に加増されるなど独裁的な栄華を極め、天狗党関係者を徹底的に処罰した
慶応 4年(1868)
 幕府が江戸城を明け渡して徳川慶喜も水戸に謹慎することになると、京都における本圀寺勢(天狗党派)が藩の実権を握ることが必至となった。情勢の不利を察した市川は、4月、諸生党約五百名を率いて水戸を脱出し、戊辰戦争においては奥羽・越後各地を転戦して官軍と戦う。しかし、9月に会津が落城すると行き場を失って再度水戸へ戻り、藩校弘道館に拠って水戸城に拠る本圀寺勢と戦闘に及んだ(弘道館戦争)。しかし、市川自身も二人の子息を失うなど多数の死傷者をだして下総方面へ敗走し、銚子や匝瑳にて追討される(松山戦争)。これによって諸生党残党は壊滅したが、市川は脱して江戸に潜伏した
明治 2年(1869)
 市川は江戸市中の寺院や旧友宅に潜伏したが、2月に藩の捕吏に縛されて水戸へ移送された。4月、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処された。墓所は水戸市の祇園寺。なお同寺には諸生党士の慰霊碑がある
--引用・要約;「市川三左衛門」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2016.02/18(木)08;26--


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水戸藩諸生党鎮魂碑(2016.07/24)
弘道館(正門)(2014.03/07)



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2016.08/10(WED)

芭蕉の句碑 大田原市黒羽向町 100・常念寺




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 野を横に馬牽むけよほとゝぎす

 松尾芭蕉は元禄二年四月十六日(陽暦六月三日一六八九年)に余瀬をたって殺生石に向った。曽良の『旅日記』には、「十六日天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及 昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。云々」とある。『おくの細道』には「是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望待るものかなと、
 「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」とある
 この句は、余瀬を立って野間までの間で、馬子に乞われて詠まれたものであろう。夏草が茂った広漠たる那須野が原を、馬上姿で行く芭蕉が想像される
 特に「馬牽むけよ」の馬子への呼びかけの言葉が、ほとゝぎすの鳴声と合って一層の俳味が感じられる
 この句碑は伝浄法寺桃雪建立であるが、年代、筆者は不詳である
  芭蕉の里 くろばね
--現地の案内板から--



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2016.08/09(TUE)

益子理右衛門之墓 大田原市黒羽向町 100・常念寺




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写真;2016.08/09

墓碑に
紀匡隆之墓
黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・益子理右衛門匡隆 匡明の子/半隊長/明治元年八月二十六日下野駒返坂で戦死/四十二歳/黒羽・常念寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

↓三斗小屋宿~野際宿の戦い
野際宿に残る家(2013.05/30)



光明山称名院常念寺

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  宗 派 浄土宗/総本山 知恩院
  御本尊 阿弥陀如来坐像
 浄土宗宗祖法然上人の没後、弟子達は沢山の派に分かれて全国に教えを広めました。鎌倉の光明寺を拠点とし、関東に広めたのは鎮西派を創立した良忠上人です
その弟子尊観が鎮西流名越派を開きました
名越派の第五祖良栄上人は現在の益子町に圓通寺を開き、名越派大澤流の総本山となり隆盛を極めました
この圓通寺より、名僧と言われた光蓮社良遍上人が、永禄八年(一五六五)に黒羽にお出でになり、余瀬に「常念寺」を開山したのです。室町時代後期のことです
常念寺第三世良安上人の代、寛永八年(一六三一)に、藩主大関土佐守高増の命により、現在地に移転しました
明暦二年(一六五六)火災により灰燼に帰しましたが、天保四年(一八三三)に、高増の重臣だった高柳大蔵直清の子孫である高柳源左衛門らの尽力により、現在の本堂が建立されました
近世末期の建築様式で、見事な欄間彫刻が当時を物語っております
時を経て、明治政府の学区制の公布に伴い、明治七年本堂に当時あった寺子屋を、小学校「開達校」として開校しました
三十年後の明治三十七年、石井沢に新築移転、現在の川西小学校となりました

現在の住職は、第二十九世です。平成二十七年、開山四百五十年を迎えました
--現地の案内板から--



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2016.08/09(TUE)

鮎瀬文蔵墓 大田原市前田 863附近(前田赤台共同墓地)




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写真;2016.08/09

黒羽藩(下野・一万八千石・大関氏・外様)
・鮎瀬文蔵棟正 五郎とも/明治元年九月五日若松で戦死/十九歳/黒羽前田赤台に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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黒羽町大字前田字赤台(※あかんだい)共同墓地
官修墳墓
(官祭神)
 俗名   鮎瀬文蔵棟正(※あゆのせ)
 戒名   正棟院戦山良功居士
 戦死月日 慶応四年九月五日
 同 場所 会津にて戦死(若松河町裏)
 没年   十九歳
 注 棟正は黒羽藩出兵二番隊/隊長渡邊福之進隊平士
右 平成十二年四月二十六日 大宮司克夫記
--現地の案内板から--
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官修墳墓について
 官修墳墓は、戊辰戦争において戦死した士卒の墓である。明治七年二月十五日内務省通達によって官費をもって墳墓の管理が定められる。翌八年四月二十四日太政官達によって年額六円二十五銭を国庫から支出される。明治二十四年墳墓の改築・修繕を各地方庁(県庁)で処理することを定める。明治三十四年六月十四日社寺局通牒により、官修の文字を冠せられ、ここに初めて官修墳墓が誕生した
 官修墳墓は、初め鉄柵で囲まれたが後に石垣に改められる。右の石柱に官修墳墓と刻されている。また、墳墓の形式には士と卒の別がない
 石碑には、俗名、戒名が刻され、戦死の場所、年月日、没年などが刻されている
  平成十二年四月二十六日 大宮司克夫記
  前田赤台共同墓地管理委員会
--現地の案内板から--



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