<   2016年 05月 ( 20 )   > この月の画像一覧

2016.05/31(TUE)

八溝嶺神社 茨城県久慈郡大子町上野宮2129(八溝山頂茨城県側)




c0185705_22401897.jpg

八溝嶺神社 やみぞみねじんじゃ
 山頂域、茨城県大子町に所在する
歴史
 古来よりの信仰の山でもあり、山頂に豊作祈願の神である八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)が、八合目に坂東三十三箇所の二十一番札所である日輪寺(にちりんじ)がある。八溝山の名は八つの谷に分かれた山容から空海(弘法大師)が命名したと伝えられているが、日輪寺の名もまた空海がこの地で邪鬼を退散させた伝説に由来するといわれる。元治元年9月、水戸天狗党別働隊の田中源蔵ほか三百余名が追討軍に追い詰められ八溝嶺神社に立て篭もった。しかし、食料不足、情勢から神社前で隊を解散した。田中、隊員たちは下山後、捕縛されほとんどが処刑された
--引用・要約;「八溝山」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.09/26(土)08;41--
c0185705_19112080.jpg

2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)
田中愿蔵の墓(2015.03/18)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/31(TUE)

八溝山頂 茨城(大子町)、福島(棚倉町)の県境




↓写真;2016.05/31
c0185705_18512275.jpg

八溝山頂
 茨城、栃木、福島の県に跨って聳える八溝山(1022メートル)の山頂。ここに三角点があり、茨城と福島を分けるらしい。山頂を示す標柱が福島側にあって、設置は福島県棚倉町であるらしい
c0185705_19112080.jpg

歴史
 古来よりの信仰の山でもあり、山頂に豊作祈願の神である八溝嶺神社(やみぞみねじんじゃ)が、八合目に坂東三十三箇所の二十一番札所である日輪寺(にちりんじ)がある。八溝山の名は八つの谷に分かれた山容から空海(弘法大師)が命名したと伝えられているが、日輪寺の名もまた空海がこの地で邪鬼を退散させた伝説に由来するといわれる。元治元年9月、水戸天狗党別働隊の田中源蔵ほか三百余名が追討軍に追い詰められ八溝嶺神社に立て篭もった。しかし、食料不足、情勢から神社前で隊を解散した。田中、隊員たちは下山後、捕縛されほとんどが処刑された
--引用・要約;「八溝山」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.09/26(土)08;41--

2 追討軍、大発勢、田中愿蔵(2012.11/07)
田中愿蔵刑場跡(2013.02/04)
田中愿蔵の墓(2015.03/18)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/29(SUN)

綾瀬はるかさんのメッセージ 会津若松市・鶴ヶ城




c0185705_14594490.jpg

--------------------
綾瀬はるかさんのメッセージ
 この桜は福島の復興の象徴として、みなさんの思いが未来へ大きく羽ばたいていくような思いも込めて「はるか」と命名した桜です。
 復興への願い、復興に励まれる福島のみなさんの生活、夢や希望に満ち溢れた子どもたちの成長を、この鶴ヶ城から八重さんと一緒にいつまでも見守っていて下さい。
そして、子どもたちの成長とともに、いつか立派な花を咲かせ、入学式や入社式など新たな門出を迎えたみなさんを祝福して下さい。
福島の復興、みなさんの思いが、実を結びます様に心から祈念しております。
     綾瀬はるか
 平成二十五年十二月四日
--------------------
大河ドラマ「八重の桜」(2013.01/06)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/24(TUE)

太平山と水戸天狗党 栃木市太平山




--------------------
↓写真;2016.05/22・太平山神社参道
c0185705_992783.jpg

元治元年(1864)
・ 3月27日
 小四郎は山国兵部(二百石)及び田丸稲之衛門(水戸町奉行、二百石、山国兵部の弟)を総師に仰ぎ、挙兵派の同志百七十名と共に城下西南四十キロの筑波山で攘夷決行の旗を掲げた
・ 4月 6日
 まず、徳川家康を祀る日光東照宮の確保を図ろうと、三河譜代の宇都宮藩戸田家に参与工作をするも失敗し、日光山でも奉行の小倉但馬守に阻まれて果たせず。周辺には北関東十余藩の軍兵二千余が展開した
( 4月中頃)
 日光では廟所参拝だけをすませ、野州南部の名山太平山山頂付近の蓮祥院に本陣を構え、ここで田丸や小四郎、田中愿蔵らは猛烈な募兵と軍資金調達を行う。隊士は二千人以上になったが、献金を拒絶した栃木宿に火を放って焦土と化す(愿蔵火事)など各地で悪名を残した
( 6月初め)
 田丸や小四郎等幹部は全軍に筑波への帰還を命じたが、田中愿蔵率いる赤城隊三百名はこれに従わず、以降独自の行動をとることとなる
・・・
--引用、要約;「北関東会津戊辰戦争」島遼伍--
--------------------
※ 蓮祥院 もとは太平大権現社の別当寺院として山上にあったが、明治期の神仏分離令により山上から下ろされ、明冶38年、現在の地に本堂・六角堂が建立された

1 天狗党挙兵(2012.11/06)
田中愿蔵の墓(2015.03/18)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/22(SUN)

水戸天狗党鎮魂碑 栃木市太平山謙信平




c0185705_22435256.jpg

水戸天狗党鎮魂碑
栃木市太平山/謙信平
茶店が並ぶ謙信平、その南側に水戸天狗党鎮魂碑がある
懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章
(おもう、むかし勤王の士 義旗をこの地にあげ 方今よりて無事 石に題す)
 紀元二千五百四十一年六月二十四日太平山□遊者
 秋月種樹・・・
と刻まれた碑は、明治14年(1881)6月に来栃した日向国(現宮崎県)高鍋藩主の世子、秋月種樹(あきつきたねたつ)が地元有志と太平山に回遊した際に発起人となり立てた石碑である
--引用、要約;栃木市観光協会hp--
--------------------
太平山神社本殿
c0185705_1712783.jpg

 関東十勝地のひとつ太平山は標高343メートルあり、山頂近くの謙信平からの眺めはすばらしく「陸の松島」と言われています
 また太平山神社は平安初期慈覚大師により創建されたと伝えられています
--引用;現地案内板--
--------------------
謙信平
 戦国時代の頃、関東平定を競い対立した越後の謙信と小田原の北条氏康は、当時の大中寺住職虎渓和尚の斡旋により、永禄十一年(1568)九月、大中寺において和議を結んだ
 その後、上杉謙信は太平山に登り、兵馬の訓練を行い、太平山の上から南の関東平野を見渡し、あまりの広さに目を見張ったという故事から「謙信平」の地名が生まれたといわれる
     栃木ライオンズクラブ
--引用;現地案内板--
--------------------
1 天狗党挙兵(2012.11/06)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/21(SAT)

藤森八太郎墓 会津若松市南千石町 3-20・井上浄光寺




--------------------
c0185705_15211792.jpg


 藤森八太郎 十四石三人扶持/白虎寄合一番原隊嚮導/明治元年八月二十五日会津津川で戦死/十六歳/津川・新善光寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
     *
新潟県東蒲原郡阿賀町津川3313
浄土宗新善光寺
...八月二十五日戦死。この地に埋葬されたが、戊辰後、遺族によって会津若松市井上浄光寺に改葬された
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/21(SAT)

柴邸跡 会津若松市城前 7




--------------------
c0185705_1241563.jpg

以下、現地の案内板から

まちに歴史あり
-会津の先人たちー
柴 四朗(しばしろう)/嘉永5年 -大正11年(1852 -1922)
 日新館に学び戊辰戦争に参戦。敗戦後は学問を志し明冶12年に渡米、ハーバード、ペンシルバニア両大学で政治学と経済学を修めます。明冶18年、東海散士のペンネームで「佳人之奇遇」を著しベストセラーとなります。一方、ジャーナリスト、政治家としても活躍しました。代議士当選8回、大隈・板垣内閣では農商務次官、外務参事官に就任、大正4年には外務参政官をつとめ活躍しました。
     *
柴 五郎(しばごろう)/万延元年 -昭和20年(1860 -1945)
 柴四朗の弟、福島県初の陸軍大将となりました。戊辰戦争では母、妹が自刃、五郎はわずか8歳で下北の斗南藩へ流され草や木の根まで食べるような苦しみを味わいます。軍人として最高位にまで昇りつめた五郎がその不屈の生涯を書いた「ある明冶人の記録」は、明治に生きた日本人、会津の人々の心を知る記録として今も永遠のベストセラーとなっています。
--------------------
 会津藩、二百八十石、柴太一郎の屋敷跡である
柴四朗・柴五郎の墓(2015.10/16)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/20(FRI)

山川大蔵(浩)屋敷跡 会津若松市城前




--------------------
c0185705_10565881.jpg

以下、現地の案内板から

まちに歴史あり
-会津の先人たちー
大山捨松(おおやますてまつ)/万延元年 -大正8年(1860 -1919)
 日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、日米交流の先駆者となった大山捨松は、会津藩家老・山川尚江の五女としてここに生まれました。
 8歳の時に戊辰戦争が起こり、鶴ヶ城での籠城戦を体験、そして敗戦、という逆境にもくじけることなく、捨松は明冶4年、日本で初めての女子留学生となります。時に12歳、津田梅子らとともに渡米しヴァッサー・カレッジなどで学びました。アメリカ滞在は11年に及び、優秀な成績で卒業、捨松の卒業演説は新聞にも掲載されたほど有名です。
 帰国後は、薩摩出身の陸軍卿・大山巌と結婚します。時あたかも欧化主義の時代で、鹿鳴館では毎夜のように饗宴が開かれ、西洋の習慣や文化を身につけた捨松は「鹿鳴館の華」とうたわれ社交界で注目を集めます。しかし、実際の捨松は日本の伝統的な文化や風土を心から愛し、さらにアメリカ文化の最善なものを日本に取り入れようと熱心に取り組んだのです。また、女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設した津田梅子を助け、婦女教育に力を注ぐと共に日赤の仕事にも熱心に取り組み、積極的に社会運動に参加したのです。
 会津藩家老から陸軍少将になった山川浩、東京帝大総長を務めた山川健次郎は捨松の兄。
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/20(FRI)

旧陸軍29連隊正門(レンガ門) 会津若松市城前




--------------------
↓写真;2016.05/19
c0185705_14582459.jpg

旧陸軍29連隊正門(レンガ門)
 門には「福島県会津若松市立第二中学校」と..
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2016.05/20(FRI)

萱野権兵衛屋敷跡 会津若松市追手町5




--------------------
c0185705_914232.jpg

以下、現地の案内板から

まちに歴史あり
-会津の先人たちー
萱野権兵衛(かやのごんべい)/天保元年 -明冶2年(1830 -1869)
 戊辰戦争の際の会津藩国老、一刀流溝口派の奥義を極めた剣豪でした。会津藩敗戦後は、その首謀者として戦争責任を一身に背負い、城の明け渡し、藩主父子の助命嘆願などに奔走、明冶2年に戦争責任を負って切腹しました。切腹前に最後の膳の箸を使い会津藩士に一刀流の秘儀を伝えたといわれています。利を求めずに一心に義に生きた典型的な会津武士といわれています。
     *
郡 長正(こおりながまさ)/安政3年 -明冶4年(1856 -1871)
 萱野権兵衛の次男、成績優秀で戊辰戦争後、九州小笠原藩に留学しました。ある日長正は食物がまずいと嘆き、会津の柿が食べたいとホームシックの心境を綴りました。その態度を厳しく諌めた母からの手紙を運悪く同級生に見られ嘲笑を浴びてしまったのです。後日、藩対抗の剣道試合に出場した長正は見事完勝、しかし試合後に屈辱を晴らすため切腹したのです。時に16歳、恥を知り誇りを忘れぬ会津武士の子でした。

c0185705_9164936.jpg

--------------------
萱野長修遥拝碑(2014.09/04)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]