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2016.01/31(SUN)

二の丸門(壬生城址、復元) 下都賀郡壬生町本丸1丁目(壬生町城址公園)
もともとあった位置とはづれてるそうだが、城址公園の整備にあわせ復元したそうだ




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写真;2016.01/28



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2016.01/31(SUN)

壬生領榜示杭(石標) 壬生町本丸1丁目(壬生町城址公園)




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      ぼうじくい
壬生領榜示杭(石標)
 榜示杭は、江戸時代に領地の境界のしるしとして立てられた石や木の柱のことです
 左側の榜示杭には
 (正面) 「従是南 壬生領」
 (側面) 「下野国 都賀郡 家中村」
 と刻まれており、家中村(現在の都賀町家中)に立てられ家中村から南が壬生領であることをしめしたものです
 天保十四年(一八四三)に幕府によってまとめられた「壬生通宿村大概帳」によると、壬生宿には上稲葉村(壬生町上稲葉)・七ツ石村(壬生町七ツ石)と羽生田村(壬生町羽生田)との村境及び磯村(鹿沼市磯)と楡木宿(鹿沼市楡木)との村境に、それぞれ立てられていたことが記されています
 このように、家中村や磯村に立てられていたことからもわかるように、壬生藩の領地は現在の壬生町よりも広く、壬生地区・稲葉地区のほぼ全域と周辺の栃木市・小山市・鹿沼市・都賀町・石橋町の一部にまで広がっていました
 歴史民俗資料館には、この他亀和田村(鹿沼市亀和田)と大塚村(栃木市大塚)にあった榜示杭の一部が保管されています
     平成二年三月
     壬生町教育委員会
--現地の案内板から--

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写真;2016.01/28
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2016.01/31(SUN)

吹上藩戦死二名墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺




寺村好太郎、原田留三郎
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吹上藩(下野・一万石・有馬氏・外様)
・寺村好太郎 尚忠 明治元年四月二十二日下野安塚村で戦死/十九歳/下野壬生・興光寺と吹上・正仙寺に墓/靖国
・原田留三郎 重義 明治元年四月二十二日下野安塚村で戦死/二十一歳/下野吹上・正仙寺と壬生・興光寺とに墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある
※ 吹上藩(ふきあげはん)は、下野都賀郡吹上(現在の栃木県栃木市吹上町)の吹上陣屋を藩庁とし、江戸時代後期の約30年間存在した藩。摂津有馬家が2代にわたって治めた。石高は1万石
--引用・要約;「吹上藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.10/31(土)08;12--
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官修墓地
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壬生、安塚の戦い(2012.09/10)



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2016.01/30(SAT)

武市権兵衛墓、杉村晋作墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺
土佐藩〈土佐・二十四万二千石・山内氏・外様〉




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武市権兵衛墓
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・武市権兵衛 楯臣 足軽/迅衝六番隊/城下北新町住/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十二歳/安塚・安昌寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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杉村晋作墓
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・杉村晋作 盛重 組外/砲隊/城下築屋敷住/明治元年四月二十三日下野安塚で傷、のち死/二十二歳/壬生・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
戊辰役三志士墓(安塚)(2015.01/10)



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2016.01/30(SAT)

石脇鼎墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺




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鳥取藩(因播・三十二万五千石・池田氏・外様)
・石脇鼎 元繁 支藩若桜藩士/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/三十二歳/宇都宮・光琳寺と壬生・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
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わかさはん
若桜藩
若桜藩は、因幡国八東郡(現在の鳥取県八頭郡若桜町)周辺を領した藩
・藩史
 豊臣政権時代は木下重堅が若桜城主であったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗戦とともに自害した
 慶長6年(1601)、摂津国三田藩より山崎家盛が3万石で入封して立藩した。2代・家治は元和3年(1617)備中国成羽藩に転封となった。以後鳥取藩領となる
 元禄13年(1700)に鳥取藩の支藩として同じ地に鳥取西館新田藩が立藩した
 明治元年(1868)、第10代藩主の池田徳定は若桜に陣屋を置いたため、鳥取西館新田藩は若桜藩と呼ばれるようになった
 明治3年(1870)、若桜藩は鳥取藩に合併されて廃藩となった
・歴代藩主
 山崎家 3万石、外様(1601 -1617)
  1 家盛
  2 家治
 池田家 2万石、外様(1868 -1870)
  1 徳定
--引用・要約;「若桜藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.10/30(金)18;01--



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2016.01/30(SAT)

丹波山国隊・戦死二名墓、新井兼吉墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺
丹波山国隊(丹波北桑田郡山国郷の郷士、農民で組織した勤皇隊。鳥取藩軍に属す)




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丹波山国隊戦死二名墓 高室治平、田中浅太郎
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・高室治平 宗昌  山国郷塔の人/隊上士/明治元年四月二十二日下野安塚村で戦死/三十二歳/壬生・興光寺に墓/靖国
・田中浅太郎 利政 上士/山国郷塔の人/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十三歳/壬生・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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新井兼吉墓
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・新井兼吉 道成 諱行方とも/山国郷比賀の人/徒士/明治元年四月二十二日下野安塚の戦いで行方不明、戦死と認定/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
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山国隊
・・・慶応四年(1868)三月、隊は甲州勝沼の戦いに加戦したのち江戸入りし、翌、四月には野州・安塚の戦いに参戦。ここで激戦により最初の戦死者二名(および行方不明者一名)を出す。江戸凱旋後、五月には上野戦争で彰義隊と交戦し、ここでも戦死者一名を出した。六月には隊士のうち九名が隊長とともに奥州へ向け江戸を出陣し、常陸平潟に上陸。八月に相馬中村城に入城し、ここで六名の隊士が東京(江戸)に帰営した。残留した隊長・隊士は九月に亘理城、十月に仙台城に入城したのち同月東京に帰営した。明治改元を経た同年十一月、隊は有栖川宮の凱旋に随伴して東京を出発、同月二十五日、京都に凱旋した
・年表
慶応 4年(1868)
   1月18日 -岩倉具視の指示で山国隊が誕生
   2月13日 -山国隊 1個小隊が京都を出陣
    15日 -補充 6人が合流。隊士34人となる
    20日 -美濃大垣で戦場に臨む決意を示す血判書を作成
   3月 3日 -鳥取藩内参謀の河田左久馬が山国隊隊長を兼務
     6日 -甲州勝沼の戦いに加戦
     9日 -ゲベール銃に換えてミニエー銃を付与される
    19日 -江戸入り
    24日 -隊士に「魁」(さきがけ)の文字を冠した熊毛の陣笠配布
   4月22日 -野州安塚の戦いで激戦。戦死 2人、負傷 5人、行方不明 1人
 閏 4月25日 -江戸に凱旋。錦旗の警衛を任される
   5月15日 -上野戦争で彰義隊と交戦。戦死 1人、負傷 4人
   6月28日 -隊士 9人が隊長と奥州へ向け江戸を出陣
   7月 3日 -常陸平潟に上陸
   8月 7日 -相馬中村城に入城
明治元年(1868) 改元
   9月12日 -隊士 3人が隊長と残り、 6人は東京(江戸)に帰営
    21日 -亘理城に入城
  10月 1日 -仙台城に入城
    21日 -隊士 3人が隊長と東京に帰営
  11月 5日 -有栖川宮の凱旋に随伴して東京出発(錦旗警衛)
    25日 -有栖川宮とともに京都凱旋。帰洛(錦旗警衛)
--引用・要約;「山国隊」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.02/18(水)11;38--



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2016.01/30(SAT)

松沢銀斎墓、尾花忠兵衛墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺
松本藩(信濃・六万石・戸田氏・譜代)




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松沢銀斎墓
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・松沢銀斎 重次 明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十歳/京都中京区・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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尾花忠兵衛墓
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・尾花忠兵衛 成善 明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十二歳/京都中京区・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)



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2016.01/30(SAT)

大石俐左衛門墓、小松勇墓、小島鉄太郎墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺
土佐藩〈土佐・二十四万二千石・山内氏・外様〉




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大石俐左衛門墓
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・大石俐左衛門 守孝 土佐郡一宮村郷士/迅衝隊/統監/明治元年四月二十二日下野安塚で傷、二十三日壬生城内で死/四十歳/壬生・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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小松勇墓
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・小松勇 式長 馬廻りから小姓組/迅衝隊砲隊/土佐郡小高坂村住/明治元年四月二十二日下野で傷、帰陣中死/二十三歳/壬生・興光寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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小島鉄太郎墓
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・小島鉄太郎 足軽/年季夫とも/吾川郡森山村の人/□兵明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/四十九歳/安塚安昌寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)



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2016.01/29(FRI)

向陽山常楽寺 壬生町本丸1丁目1-30




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写真;2016.01/28

 壬生城主 壬生家/鳥居家 菩提所
 壬生の古刹 向陽山常楽寺
 当寺は、室町の中期寛正三年(西暦一四六二年)壬生初代城主壬生筑後守胤業公が、寺領二十六石を寄進して創建した曹洞宗の寺院です。開山和尚は、道元禅師から数えて十世の法孫一州正伊禅師であり、壬生氏一門の氏寺として栄えました。一五九〇年に壬生氏が絶えて後も、壬生氏の家臣や歴代の壬生城主に庇護され、一七一二年に壬生城主となった鳥居忠英公の帰依を受けて後は、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてまいりました
 現在の本堂は、一八二〇年に火災に見舞われて後、一八五〇年に再建されたもので、内部に欅材の多く使われた荘厳な伽藍です。長い歴史のある寺院に相応しく、「鳥居忠英公」の肖像画や文書類の歴史的資料、壬生家歴代の墓地や鳥居家墓地、壬生藩の蘭学医「斎藤玄昌」一門の墓地等の史跡、境内鎮守の三日月尊王と壬生の豪商加藤作太夫の逸話など、様々な事物が今に伝わっております、また、一七三八年、二十世光海本瑞和尚の時、京の陶工尾形乾山が来寺して作歌作陶致しました。これは京都壬生氏出身の具慶尼の庵を訪ねての事で、一ヶ月半程滞在致しました
     壬生町観光協会
--現地の案内板から--
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 山門普賢の縁起
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 常楽寺の本堂のお釈迦様のとなりには、白い象に乗った普賢菩薩様がまつられています。普賢様はあらゆる場所にあらわれて、お釈迦様の慈悲心を実践し、私たちをみちびいて下さる菩薩様です。大きくて優しい象に乗った普賢様は、お釈迦様の慈悲心の象徴なのです
 この山門の白象は、お釈迦様や普賢菩薩様のおつかいです。当寺にお参りする方々が仏様の慈悲心にあやかれますように、また私たち自身も、分けへだてない優しい心をたもち続けられますように、そのような願いを込めて、ここにおまつりさせて頂いています
     堂司敬白
--現地の案内板から--
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 壬生家歴代の墓
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写真;2016.01/28
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 鳥居家累代の墓
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写真;2016.01/28
     *
 幕末の壬生藩 壬生藩(下野・三万石・鳥居氏・譜代)
 幕末期、壬生藩では尊皇攘夷をめぐっての争いが絶えず、文久2年(1862)には勤王派が主導権を握って保守派の江戸家老・鳥居志摩が失脚の上、自殺させられた。ところが元治元年(1864)に水戸藩で天狗党の乱が起こると、今度は保守派が力を盛り返して勤王派を退けるなど、藩内は二分して大混乱した。戊辰戦争では新政府につくか、幕府側に与するかで混乱する中、ようやく新政府側に与して幕府軍と戦った
--引用・要約;「壬生藩」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.12/02(水)16;07--



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2016.01/29(FRI)

半田擢吉墓 下都賀郡壬生町通町7-13・興光寺




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土佐藩〈土佐・二十四万二千石・山内氏・外様〉
・半田擢吉 正久 組外/迅衝一番隊/土佐郡泰泉寺村の人/明治元年四月二十二日下野安塚で戦死/二十五歳/安塚に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※ 墓は、興光寺小西令作墓と同じ区画の”官修墓地”にある

壬生、安塚の戦い(2012.09/10)
戊辰役三志士墓(安塚)(2015.01/10)



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