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2015.10/30(FRI)

藪智次郎墓 大田原市>黒羽・大雄寺




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写真;2015.10/30
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黒羽藩
藪智次郎
・藪智次郎 光著  明治元年五月二十六日磐城白河白坂で傷、二年四月七日死/十七歳/黒羽・大雄寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

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慶応四年(1868)
五月二十六日
第十二章 東西相峙す二旬 1/2(2013.04/02)



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2015.10/30(FRI)

鈴木庄作墓 大田原市>黒羽、前田・鎮国社




大関公之碑(鎮国社)(2014.08/17)

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写真;2015.10/30
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黒羽藩
鈴木庄作
・鈴木庄作 正勝  正直とも/明治元年四月十八日斥候に出て幕兵に捕えられ、十九日下野蓼沼村で斬/四十五歳(三十二歳とも)/黒羽・延寿院に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
※ 黒羽・鎮国社の参道脇の墓地に二つの墓碑があった

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写真;2015.10/30
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鈴木庄作らが斬首に至る経過
黒羽藩士墓(2015.12/03)
長棹速己之墓(鶏足寺)(2015.04/03)
新江寿三郎正教墓(2016.09/16)



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2015.10/27(TUE)

北城(北郭)跡 大田原市




大田原城跡(2012.06/23)

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写真;城郭北の「北城(北郭)跡」2015.10/26
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以下、現地の案内表示から

北城(北郭)跡
北曲輪とも呼ばれ複数の郭(曲輪)により構成されている。城内唯一の庭園があったり、非常時に備えての軍事訓練を行った所である。ここより搦手門へ通じる
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2015.10/27(TUE)

松本忠直之碑 大田原神社、大田原護国神社




大田原神社2(2013.01/31)

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以下、現地の案内板から

松本忠直之碑
〈書き下し文〉
     栃木県知事従四位勲三等折田平内 額字
 君諱は忠直、姓は松本氏、下野の人なり。父は新兵衛と称す。世々大田原侯に仕ふ。君幼くして失怙し、伯父河野某の育てる所と為る。既に長じ家を承く。性剛邁にして武を嗜む。藩侯之を寵し、擢きて近侍と為し、数々武技を以て賞せらる。明治四年廃藩の後、家居し産を治むること十有余年の後、出でて栃木県の大田原警察署の探偵吏と為る。会々郡中に盗賊多し。君奮励して誓ふに盗賊を掃攘するを以て己が任と為す。力を尽くして伏せらるるを擿き、未だ幾ならずして捕獲する所多し。声遠近に聞え、悪漢側目す。一夜賊を踪して那須郡の高久村に抵る。賊十余有り。広谷地の原に撃たんことを要む。君単身格闘す。而れども身に寸鉄無く、且つ衆寡敵せず、重傷を負ひて遂に起たず。享年四十有一、実に明治十五年八月三十日なり。大田原字北町に葬る。後幾む無くして賊□□□自ら縛に就く。是れ豈に君の余威の致す所に非ざること莫からんや。此の年の十一月一日、警察署員相謀り為に祭祀を大田原招魂社に行ふ。県令藤川君松沢警部長と共に親しく之に臨む。又追賞の特典有り。嗚呼君の死は不朽と謂ふ可し。君生平温藉愉色有り。其れ人と交はるに殊に懇切、是を以て知ると知らざると、聞く者は悼惜せざる無し。今茲署員旧僚碑を建てて以て其の偉績を伝へんと欲し、三村警部長近知に撰文を嘱む。仍つて其の聞く所を叙べ、係くるに銘を以てす。銘に曰く、
 豹は死して皮を留め、人は死して名を留む。君の績那珂の水、悠々として千載声有り、と。
 明治二十三年四月 栃木県属 原 近知撰文す。
     栃木県警部補渡辺安方謹んで書す。
     *
〈解説〉--要約--
 この碑は、明治十五年(1882)に殉職した大田原警察署探偵吏の松本忠直(又の名は文之進)の死を悼み、当時の署員たちが発案して明治二十三年四月に建てたものである
 松本忠直は天保十三年(1842)に大田原藩士、松本新兵衛の子として生まれ、武芸に秀で戊辰戦争では大田原城下や湯津上の片府田で手柄を立て、その功績により上士となった。明治維新後は大田原警察署に勤務し、一生懸命に職務を遂行していたが、那須町の広谷地で凶悪犯に殺害された
 当時は幕末から続く社会的混乱期で治安が悪く、その対処の為に多くの士族が警察官に採用された。彼らは武芸を得意とし、一昔前までは主君の為なら命を落とすことも厭わないとした人達であった。旧大田原藩の士族であった松本は逃げず恐れず賊と戦って落命し、本県初の殉職警察官となった。その松本の死をも顧みない勇敢な行動は警察官の鑑とされ、慰霊祭が盛大に行われ、顕彰碑が建てられたのである
 この碑は明治二十三年以来大田原護国神社境内に立っていたが、平成二十三年(2011)三月十一日の東日本大震災のため転倒したままになっていた。平成二十四年九月、大田原神社境内に移転再建を機にこの「解説板」を設置した
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2015.10/26(MON)

招忠魂碑 大田原市山の手2丁目2038・大田原神社、大田原護国神社




大田原神社2(2013.01/31)

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写真;2015.10/26
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碑裏面
戊辰之役大田原藩戦死人名
五月二日□大田原戦死
 士
   大田原鉄之進丹治晴親
   早川雄太郎平永宣
   久島惣太郎藤原重義
   栗田左次右エ門藤原春道
 卒
   長岡傳四郎源義信
   森半兵衛源正忠
   長岡彦右エ門源武敏
九月九日□田嶋村戦死
 士
   宇野良定藤原良定
   江連半之助藤原一政
 卒
   蒲沢健次郎藤原元治
   渡邉久次郎源正則
 夫卒
   江連重五郎
   津久井作蔵
   東泉四郎左エ門
   熊久保傳右エ門
   菊池孫右エ門
   住川酉之助
同月廿七日□片府田村戦死
 士
   阿久津又次郎丹治忠順
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・大田原鉄之進  晴雄とも/使番/家老格/明治元年五月二日大田原城下で戦死/三十七歳/大田原・光真寺に墓/靖国
・早川雄太郎   戦士組頭/明治元年五月二日大田原で戦死/四十二歳/大田原・観音寺に墓/靖国
・久島総太郎   戦士/明治元年五月二日大田原で戦死/十七歳/大田原・観音堂に墓/靖国
・栗田左次右衛門 定吉/武延とも/明治元年五月二日大田原で戦死/四十二歳/大田原七軒町・地蔵堂に墓/靖国
・長岡伝四郎   秀久とも/銃隊卒/彦右衛門の子/明治元年五月二日大田原で戦死/五十二歳/塩原町宇都野若林に墓/靖国
・森半兵衛    銃隊卒/下野塩谷郡箒根村の人/明治元年五月二日大田原で戦死/四十六歳/塩原町宇都野に墓
・長岡彦右衛門  長久とも/銃隊卒/明治元年五月二日大田原城下で戦死/七十三歳(四十九歳とも)/塩原町宇都野若林に墓/靖国
・宇野良定    良貞とも/軍医(輜重方とも)/明治元年九月九日会津横川で戦死/四十八歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・江連半之助   輜重方/明治元年九月九日会津横川で戦死/五十九歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・蒲沢健次郎   銃卒/明治元年九月九日会津横川で戦死/三十九歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・渡辺久次郎   銃卒/明治元年九月九日岩代田島で戦死/二十二歳/会津田島・慈恩寺に合葬墓/靖国
・江連重五郎   夫卒/明治元年九月九日会津本郷で戦死/三十三歳/塩原町宇都野中曲輪に墓/靖国
・津久井作蔵   夫卒/下野塩谷郡箒根の人/明治元年九月九日岩代田島で戦死/二十三歳/塩原町宇都野に墓/靖国
・東泉四郎左衛門 夫卒/下野塩谷郡箒根の人/明治元年九月九日岩代田島村(十日若松とも)で戦死/四十二歳/塩原町上横林に墓/靖国
・熊久保伝右衛門 夫卒/明治元年九月九日岩代田島で戦死/五十三歳/塩原町上横林に墓/靖国
・菊地孫右衛門  明治元年九月八日岩代田島(十八日若松南方とも)で戦死/二十一歳/塩原町上横林に墓/靖国
・住川酉之助   夫卒/明治元年九月十日会津田島で戦死/三十二歳/大田原・洞泉院に墓/靖国
・阿久津又次郎  使番/明治元年九月二十七日下野片府田村で戦死/三十歳/大田原・光真寺に墓/靖国
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

官軍/戰死十九人墓(慈恩寺)(2014.03/28)
戦士墓(大田原藩)(2014.07/03)
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大田原城攻撃(再)
慶応四年(1868)
五月二日
 会幕軍、2度の敗戦で三斗小屋に撤退したが、再度大田原城を攻撃
 新たに
  会津藩の原田主馬隊(朱雀足軽三番隊)
  有賀左司馬隊(青龍足軽四番隊)
  飯野藩脱藩の森要三隊
の三部隊が加わり途中から二手に分れて進撃した
 このとき大田原城にいた西軍だが主力の薩摩・長州らが白河戦の応援に出払っていて、僅かな大田原藩兵が残るのみ。戦いは会幕軍が圧倒したのだが占領は出来なかった。この夜、会幕軍は石林村(現西那須野)を焼払い、関谷で泊。翌日塩原に入って休息した後田島へ向った

板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)
戊辰役戦死墓(森要蔵)(2014.07/08)

明治元年(1868)
九月九日
 農民たちによる田島陣屋奪還戦を期に、若松城外に出撃した佐川官兵衛隊、高田方面で戦っていた河原田隊等が南山に戻り新政府軍と戦闘を継続する
 会津等旧幕府軍は地の利を生かして有利に戦い、田島・下郷から新政府軍を一掃した。伊南川方面でも河原田隊等旧幕府軍が戦闘を優位に進め、新政府軍を越後方面へ後退させた
九月廿七日
戦死供養塔(宝寿院)(2013.12/19)
戦死塔(佐良土)(2013.12/21)



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2015.10/22(THU)

日和山秋月 ひたちなか市湊中央1-1(湊公園)




夤賓閣(いひんかく)(2015.10/21)

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      ひよりやまのあきのつき
湊八景史跡「日和山秋月」
 昭和五十八年一月設置



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2015.10/22(THU)

首塚(忠勇戦死之墓) ひたちなか市鶴代2341-1




3 大発勢潰滅(2012.11/08)

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写真;2015.10/21
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以下、現地の案内板から

首塚(忠勇戦死之墓)
那珂湊市指定史跡
昭和四十六年十二月二十一日指定 那珂湊市鶴代二三四一ノ一

 元治元年(一八六四)、尊皇攘夷派(天狗党)と佐幕派(諸生党)との戦闘は茨城県下に広がり、尊皇攘夷派は最後の拠点として水戸藩随一の商業都市那珂湊に集結した
 海と陸との両方から包囲された尊皇攘夷派は必死の抵抗をし、那珂湊での戦闘は熾烈を極め、七十数日に及ぶ長期戦になった。特に十月十日の戦闘は激烈なものとなり、市内の至る所に飛び火して繰り広げられ、特に部田野(へたの)原での戦闘はすさまじく、尊皇攘夷派は甚大な損害を被った。十月二十三日には尊皇攘夷派(天狗党)の多くは投降したが、残りは包囲を破って京都を目指し、福井県敦賀の松原まで逃げ延びたが、悲惨な最期を遂げている
 この十月十日の熾烈な部田野原の戦闘での戦死者の首級を手厚く葬ったのが首塚で、慶応二年(一八六六)十三奉行の人々がこの地に供養のために建てた石碑が忠勇戦死之墓である
※ 十三奉行;地区の名称

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天狗党員墓
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2015.10/21(WED)

い賓閣址 ひたちなか市湊中央1-1(湊公園)




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写真;【い賓閣址】2015.10/21
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以下、現地の案内板から

ひたちなか市指定史跡
いひんかく
夤賓閣
Remains of Ihinkaku
 い賓閣は、元禄11年(1698)に徳川光圀(水戸藩台代藩主)が建てた別荘で、湊御殿、お浜御殿ともよばれていた。い賓とは、堯典(中国の書)の「い賓日出・・・」(つつしんで日出づるを導く)からとり、い賓閣は応接所という意味をもっている
 建坪は、約300坪(1000㎡)を有する広大なもので、建物は一部分が2階建ての豪壮な造りであったと推定されており、歴代の藩主らによって酒宴や詩歌の会が催された。また、この高台の東方には、海防見張番(異国船番所)も置かれ、お水主士の人々が海防に当っていた
 その後、い賓閣は、元治甲子の乱(1864)で焼失したが、明治30年に湊公園として整備された
     指定日 昭和43年1月16日
     設置者 ひたちなか市教育委員会
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2015.10/19(MON)

小笠原長時公及び室・息女墓 会津若松市慶山2丁目・大龍寺




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写真;2015.10/15(合成)
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以下、現地の案内板から

小笠原長時公 及び 室・息女墓
 信濃守護 長野県松本城(深志城)城主
  礼法・弓・馬術 小笠原流大成の祖
  天正十一年二月廿五日没
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小笠原長時(おがさわらながとき)

戦国時代の武将/信濃国守護で戦国大名/信濃小笠原氏の当主/信濃林城主/小笠原長棟の長男/小笠原流弓馬術礼法宗家

死因について

その死因について、家臣に殺害されたと伝える史料が多数ある。一般の史料では、その死については「自然死のように扱われている」が、林哲からそうした記述は事実ではない、つまり事実としては長時の死因は家臣による殺害であると指摘されている
長時の死因を斬殺とする史料によれば、長時は蘆名四天王の一人、富田氏実の邸宅で酒宴を催していた。その時、長時が家臣の坂西勝三郎の妻にセクシャルハラスメントまがいのことをした。それに激怒した坂西が抜刀し、長時とその妻・娘を斬り殺したという。坂西はその後逃走を図るが、星安芸守と日出山詮次に殺された
坂西勝三郎の行動については、酒に酩酊して拡大解釈・勘違いをして長時一家を殺した可能性もあると指摘されている
現在では、殺害されたという見解が定説となっている。会津若松市による郷土の人物紹介でも「家臣に殺害された」と表記している他、「国史大辞典」、「朝日日本歴史人物事典」も、長時の死因を家臣による殺害としている

--引用・要約;「小笠原長時」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.10/21(水)04;58--



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2015.10/17(SAT)

観音堂跡 会津若松市小田山




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観音堂跡 協賛 寶積寺
小田山麓の歴史を訪ねる会
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以下、現地の案内板から

観音堂跡由来
 この場所に、文和三年(1354)葦名七代領主直盛母堂笹谷御前が、観音堂を建立し、如意輪観世音菩薩を祀ったと言われています。その後康暦元年(1375)直盛が、母堂笹谷御前供養のため曹洞宗如意輪山宝積寺を創建し宝積寺殿金峯尊公大姉(笹谷御前)をもって開基としました。従って、ここにあった観音堂が宝積寺の創始ともいえます
 この観音堂は残念ながら戊辰の役(1868)の際焼失してしまいました
     平成十三年六月十七日
     葦名顕彰睦会解散基金による記念事業実行委員会
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