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2015.09/23(WED)

山田資料館 那須町寺子丙4-2
JR黒田原駅から徒歩3分




那須野ヶ原の開拓(2012.11/27)

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山田顕義が行った黒田原開拓の資料館である
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以下、現地の案内板から

山田資料館
 明治24年初代司法大臣山田顕義が明治政府より黒田原一帯(現在の幸町の大半・音羽町・上ノ原と本町・法師畑・富岡・菖蒲沢の各一部)の払い下げを受けて開拓の為この地に農場事務所として建設。当時は母屋・事務所・宿泊部屋・穀倉などが有ったが現在は事務所の一部分のみが残っている
 資料館内には顕義とその子孫の写真やゆかりの品の一部を展示している

     開館日 … 土・日・祝日 10;00~14;00

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やまだあきよし
山田顕義
天保15年(1844)10月 9日- 明治25年(1892)11月11日
長州藩士、明治時代の政治家、陸軍軍人
日本の「小ナポレオン」といわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に力を尽くした。また、山田自らが所長を務めた皇典講究所においては、日本法律学校(後の日本大学)、國學院(後の國學院大學)を創設しており、とりわけ日本大学は彼を学祖としている

松下村塾

天保15年(1844)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分(現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行(大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる
安政3年(1856)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の山田亦介により、中村九郎と竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術(柳生新陰流)を学び、文久2年(1862)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857)6月、松下村塾に入門した

安政5年(1858)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ」である

幕末期

文久2年(1862)秋に上京し、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた。文久3年(1863)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏。後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ

元治元年(1864)、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する

慶応2年(1866)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。なお、7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった

慶応3年(1867)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った。慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に任命される。陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、戊辰戦争の勝利に貢献した

明治維新

以下、省略

--引用・要約;「山田顕義」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2015.09/23(水)07:17--



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2015.09/20(SUN)

維新の源流としての水戸学 GHQ焚書図書開封11




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GHQ焚書図書開封11
維新の源流としての水戸学
西尾幹二著・徳間書店

--目次--
第一章 少年・水戸光圀の決意
・維新史の前提
〈以下、一部を要約〉
 幕藩体制は堅牢な体制であって容易には壊れない。通例は開国を迫る国際社会の圧力で壊れたのだと簡単にいわれるが、壊すには国の内側から徐々に、ときに過激に揺さぶる強い突き上げの動きが必要で、これをなしたのが水戸一派の思想と行動(水戸学)であった
 徳川家康はいつの日にか徳川家と天皇家の武力衝突が(万が一)起こったとき、幕府側が逆賊の汚名を着ることのないよう、幕藩体制の内部に天皇家への忠臣を配置し、その日のために封印しておいたという説がある。江戸幕府は内部に反体制を抱えた体制であったとし、その反体制とは徳川御三家のひとつ水戸家だとする。はたして家康が仕掛けたのか否かは別にしても、維新直前の水戸家を二分したむごい内戦はそれを物語り、徳川幕府が内蔵していた二重性の矛盾は天狗党の騒乱で一挙に噴き出したのではないか
 結果、徳川慶喜は皇室に恭順の意を表して無血開城し、日本国の分裂を救い、徳川家もぎりぎりの名誉を守られ、国家の動乱は最小限度にとどめられた。仕掛けとされた水戸一派はその役割を見事に果たしたのである
〈以下、省略〉
と、これらのことを前提としてこの本を読まれたいと書いている

第二章 『大日本史』編纂のはじまり
・光圀がとりわけ重んじたのは大忠臣楠木正成だった
〈以下、一部を要約〉
 義公(光圀)が一番に心掛けたのは大規模の史料蒐集であり、殊に重きを置いたのは吉野朝(後醍醐天皇の南朝)についての史料だったのだが、これが非常に困難であった。何故かというと、時の足利尊氏は後醍醐天皇と対立して北朝を盛り立てたので、足利方に不利な記事は抹殺されていたのである
 大忠臣の楠木正成でさえ、江戸幕府が出来る迄は一部で逆賊のように云われ、その碑の存在さえ明らかでなかった。『大日本史』は、尊皇思想を中心に君臣側の大義を明らかにし、君臣の名分を正すことを目的ともしたので、南朝と北朝、いづれが正統であるかの真相を明らかにして示さなければならない。義公はこう考えたのである
・・・
〈以下、省略〉
第三章 光圀『大日本史』の主要モチーフ
第四章 前期水戸学の主張
・・・
以下、第十章まで

とにかく面白い ^^;)

彰考館跡(2014.03/09)
東湖神社(2014.03/04)



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2015.09/16(WED)

宝篋印塔 さくら市(氏家)勝山・さくら市ミュージアム




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現地の案内表示から
ほうきょういんとう
宝篋印塔
「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔を宝篋印塔といい、平安末から作られ、石造のものは鎌倉期から造立された。基壇上に基礎、塔身、笠、相輪を積み上げ、塔身の四面に梵字を彫るのが一般的だが、本塔は金剛界の四方仏を陽刻し、大型で安定感があり、笠石の隅飾突起が直立するなど、鎌倉時代でも最古期の特徴を示している
 氏家町桜野の実業家であり、貴族院議員であった瀧澤喜平治のコレクションの一つで、喜平治が京都から取り寄せたとされる。氏家ロータリークラブにより、平成5年、ミュージアム氏家の開館を記念して寄贈され、平成11年に相輪が修補された

※ 勝山城跡に「ミュージアム氏家」が建設されたのだが、勝山城と宝篋印塔の関連は無いようだ
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写真;2015.09/15(加工)



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2015.09/16(WED)

明治天皇駐蹕之蹟 さくら市(氏家)・勝山城跡




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写真;2015.09/15
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             ちゅうひつ
明治天皇駐蹕之蹟
明治九年六月十一日
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2015.09/16(WED)

勝山城跡 さくら市氏家(勝山)1297




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写真;大手口の橋・2015.09/15
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以下、現地の案内板から
かつやま
勝山城跡
 勝山城は南北420m、東西370m、鬼怒川の段丘面を天然の要害にした崖端城である。鎌倉末期頃、氏家氏が築き、その後芳賀氏によって強固な防備が完成した。中世下野における、宇都宮氏一族の北方防衛の拠点であり、戦国時代では那須氏との激戦地となったが、堅牢な城で落城することはなかった。だが宇都宮氏が慶長2年(1597)豊臣秀吉の命で改易したのに伴い、あえなく廃城になった
 明治以降の城跡は、特に黒須家が私財を投じて勝山周辺の土地を購入したことなどにより、よく遺存されていた。しかし、戦後の開発の波は勝山にも押し寄せ、文化人らによる啓蒙活動や保存運動が続けられたが、ついには本丸跡も破壊された
 しかし、これを機に本丸跡は公有地となり、初めての学術調査が行われ、大手口や土塁を復旧し、町指定史跡となった。平成5年(1993)城域内にはミュージアム氏家が開館し、廃城後400年を経て、勝山城は文化の拠点としてよみがえった
     *
 中世期の勝山城本丸は深い掘と高い土塁を巡らしており、これを囲む二の丸とは大小2つの木橋で結ばれていた。一つは城主や重臣たちが渡るこの大手口橋である。もう一つは通用口として南西部の搦手に架かっていた
 大手口には木橋とともに強固な大手門と北側土塁の張り出し部に櫓台が設けられており、本丸に攻め込む敵に対して矢を射る矢掛けの構造になっている
 昭和61年(1980)の発掘調査で、橋脚台とともに4つの柱穴が確認され、幅3.8m、長さ20mの木橋の存在が立証された。この橋は、調査結果や他の事例を参考に、往時の橋の姿を推定復元したものである
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案内図
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2015.09/16(WED)

浮島地蔵 さくら市(氏家)上阿久津




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写真;2015.09/15
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以下、現地の案内板から
うきしまじぞう
浮島地蔵
 鬼怒川沿岸の人たちが恐れたのは、洪水や水死などの水難です。それを救済してもらおうと水神や地蔵などの民間信仰が生まれ、特に浮島地蔵が信仰されてきました。どんな洪水にも流されず浮いてその地にとどまり救済する霊力のあるのが浮島地蔵なのです。大中の浮島地蔵も五十里洪水の時でも浮いていたそうです。上阿久津の浮島地蔵は鬼怒川の大水で重い石地蔵なのに浮きながら上阿久津に流れついたという伝説があります
 この地蔵の台座には元文4年(1739)とあります。「八日念仏講中」「女人等現当二世安楽所」の銘文は毎月八日に女性たちが念仏講を供養してきました。そのため今では、子授け・安産・子育てと女性に関係の深い信仰となっています
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2015.09/15(TUE)

弥兵衛ざくら公園 さくら市(氏家)上阿久津




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写真;2015.09/15
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以下、現地の案内板から

弥兵衛ざくら公園(仮称)
 阿久津河岸が入船千艘・出船千艘などと、大そうなにぎわいを見せていた頃です。鬼怒川の本流から荷倉の無数に立ち並ぶ榎の木沼まで運河が掘ってありました。当時この運河を”ミオ”と呼んでおりました。”ミオ”の北側に高い土手が築かれていて、船積み場を洪水から守ってました。また土手の上には杉などが植えられ、下は一面に熊笹が茂っていました。ミオの両岸には桜の木がたくさん植えられていたから、春になると見事に満開の桜が人の目を楽しませてくれたのです。桜の下には酒を楽しむ人が多く集まりました。無言の桜はこんな人達が好きなのでしょう。そんな人達に妙薬を授けました

 「春の弥生の酉の日に この花の下で酒を飲み交すと一生涯 中風にはかからない」

と、村人や船頭たちは、ここを花見の名所とし、桜の季節にはたいへんにぎわっていました
 鉄道が敷かれると川船はだんだん必要がなくなり、河岸は自然と消滅してしまいました。一帯にあった河岸の構築物は取りこわされ、運河も埋められ、土手の木も伐り倒されていきました
 ここに髪結い床を生業としていた"江屋弥兵衛"という粋な老人がおりました。見事な桜の木が次々と伐られていくのが切なく、残る二、三本の桜を請い受けてそのまま残しておきました
 こよなく花を愛した弥兵衛爺さんも、年老いて世を去りましたが、この桜を「弥兵衛ざくら、やひょう桜」と後の世の人は名づけて伝えてきた場所です
     管理 上阿久津文化財保存委員会
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2015.09/15(TUE)

阿久津河岸・船玉神社 さくら市(氏家)上阿久津150




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写真;2015.09/15
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以下、現地の案内板から
あくつかし ・ ふなだまじんじゃ
阿久津河岸・船玉神社
 徳川家康が江戸城に入部すると、領地である関八州諸国からの建築用材や食糧の輸送はもっぱら川船によった。幕府が開かれ、やがて参勤の制が布かれると、東奥の糧穀や物産などは、阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られるようになり、さらに商用の荷駄も旅人もこれを利用するようになった。川船の発着所を「河岸」という
 阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点にあたり、最上流に位置するという地の利を得て、慶長以来、明治の中期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた
 鬼怒川上流独特の川船を「小鵜飼船」といい、また、船頭たちが水上安全の守護神として河岸場にまつったのが、船のみたま・船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られたといわれ、舳の位置に神殿がたてられており、一般の神社とは趣を異にしている
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会津中街道〈宿場〉 ※ 詳細は下記「リンク」大峠(会津中街道)を!
1 .若松城下 (福島県会津若松市)
・・・
9 .野際宿  (福島県南会津郡下郷町野際新田)
(大峠;標高1468m)
10.三斗小屋宿(栃木県那須塩原市那須岳国有林)
・・・
17.矢板宿  (栃木県矢板市)
・・・
20.氏家宿  (栃木県さくら市氏家)
(阿久津河岸)
--Wikipedia「会津中街道」2013.05/25--

大峠(会津中街道)(2013.05/24)

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写真;鬼怒川左岸「阿久津河岸」附近・2015.09/15
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2015.09/09(WED)

会津中街道 板室本村乙女の滝附近




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写真;2012.07/14
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会津中街道
 写真は、現在の板室本村から車道を那須に向かうと”乙女の滝”があり、その附近から車道左の旧街道跡に入って直ぐのところである
 (実際に歩いてはいないが)ここをなお北に向かうと沼原湿原に至り、麦飯坂を下って沢を渡ると”三斗小屋宿”へ、さらに北に向かうと”大峠”を越えて下りとなり野際宿に着く
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板室・大田原城・三斗小屋の戦い(2012.06/21)
三斗小屋宿(2012.09/05)
戊辰戦死若干墓(2012.09/07)
大峠(会津中街道)(2013.05/24)
三斗小屋誌(2013.06/13)



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2015.09/08(TUE)

尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚 会津西街道・上三依




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写真;2012.05/24
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以下、現地の案内板から

記念物(史跡)
尾頭峠越え旧塩原街道上三依一里塚
   所有者 藤原町大字大面 阿久津直喜氏
 この一里塚は、街道をはさんで左右に二基完全に残存する得難い史跡である
 この街道は会津西街道の脇道で、尾頭峠を越え塩原に至る最短の街道である。天和三年(一六八三)の日光地震によって五十里湖が出来た時、一時的に塩原経由氏家阿久津河岸に至る会津廻米道として重要な役割を果した
 今日再び観光道路として開発の計画がすすめられている
 藤原町文化財史跡指定 昭和四十八年二月十六日
     日光市教育委員会
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慶応 4年(1868)八月二十三日
 郡上青山藩凌霜隊は会津藩隊らと共に塩原に駐留していたが、会津危急の報を受け塩原を焼払って引き揚げ、尾頭峠を越えて至ると翌二十四日、ここ上三依も焼払って横川、会津へと向かった

四、塩原駐留(凌霜隊戦記)(2014.12/29)

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写真;2012.05/24



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