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2015.07/30(THU)

街道の往時をしのぶ石畳 会津美里町氷玉峠付近
会津西街道(下野街道)




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写真;2015.07/28
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街道の往時をしのぶ石畳
 会津西街道(下野街道)氷玉峠付近に残る石畳である。その場所は少ないが、氷玉峠は当時の面影をひっそりと今に伝えている
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2015.07/30(THU)

三郡境の塚 会津西街道(下野街道)氷玉峠付近
会津美里町




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以下、現地の案内板から
さんぐんさかい
三郡境の塚
 この塚は「三郡境の塚」と伝えられるもので、現在も会津若松市、会津美里町、下郷町の境界となっています
 その昔「大内峠は涙で登る。泣いた涙が沼となる」と馬子たちに唄われように、この三郡境の周囲の山々は一〇〇〇mを超え、下野街道の中でもひときわ険しい道であったようです
 氷玉峠を喘ぎながら登ってきた馬子たちも、この地で一息し、再度、大内峠の頂上を目指したのでしょう
 また、この地は藩主通行の際の御駕篭引き受け地あったとも伝えられています。朝早く若松城を出立した参勤交代の行列は、大内宿まで約一里を残すこの地で、関山宿の人たちから大内宿の人たちに引き継がれて峠を登り、大内沼を巡って大内宿に入り、昼食をとってから再び、参勤の途についていったそうです
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※ 三郡境 ;南会津郡・大沼郡・河沼郡の境で、ここまでが南山蔵入領だった



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2015.07/30(THU)

田部原館跡 南会津町田島字田部原167・193番地





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以下、現地の案内板から

南会津町指定史跡 田部原館跡
      昭和六十年六月十日 指定
一、所有者 南会津町
二、所在地 南会津町田島字田部原一六七・一九三番地
三、規 模 東西六十五メートル、南北七十五~八十五メートル

 田部原館跡は大川の流れに水無川が合流する地点にあり、北側及び西側は直接この両河川に接することで天然の要害となっている
 東側の空堀は平面上幅十一メートル、高さ二メートルの土塁が盛られている。南側の空堀は平面上幅十~十一メートル、土塁は高さ平均二.五メートルで北側へ曲がる箇所で一段と高く、物見台状となり南東側では矢倉台ともみられる
 この南東隅の矢倉台状から十五メートル北寄り(東側土塁)は「く」の字に屈曲が見られる。横矢掛かりといわれる弓矢の攻撃をしやすくするためのもので、矢倉台との位置関係からみて、この方向での防御の重視が窺え、曲輪内へは南側から唯一の虎口が開かれている
 館の構築については記録が残されていないが、田島の入り口に位置すること、方形館跡で単郭プランであること、大川・水無川に洗われる河岸段丘上に位置することなどの特徴から、鎌倉期から室町期初頭頃の構築で、鴫山城創築以前もしくはその前後に築かれ、戦国期に及んで利用されたと推定される。創築期は水利と耕地支配的要素が強く、戦国期では境目番所的な存在として用いられ続けたと考えられる
 今日残存する遺構は保存状態も良好で、県内でも屈指の方形館跡である
     南会津町教育委員会
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2015.07/30(THU)

田部原一里塚 南会津町田島字田部原一九一番地
会津西街道




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以下、現地の案内板から

南会津町指定史跡 田部原一里塚
      昭和五十年十二月二十五日 指定
一、所有者 南会津町・田部原区
二、所在地 南会津町田島字田部原一九一番地

 寛文七年(一六六七)会津藩が藩内の街道整備を行った際、南山通り(会津西街道、日光街道、下野街道など名称が幾通りもあった)にも一里塚が構築された。旧田島町内にも数ヶ所一里塚があったが、現存しているものはこれ一基である
 当一里塚は城下大町四ッ角より十二番目に当っているといわれ、交通資料として貴重な文化財である。また、塚の頂きに榎(えのき)を植えることで、旅行者の目印となり風情もそえたといわれる
     南会津町教育委員会
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2015.07/30(THU)

上米塚の渡し跡 会津若松市北会津町上米塚




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写真;2015.07/28
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上米塚の渡し跡(会津西街道)

大川(阿賀川)にJR只見線の鉄橋があり、その下流50メートル程のところが「渡し場」であったようだ。現在は大川左岸堤防上に標柱があるだけで、それには「会津戊辰戦争激戦の地・明治元年九月六日」とある
会津西街道を進撃した新政府軍は、城下侵攻の阻止を図ろうとする旧幕会津軍を大内・関山で撃破し、ここで城下をまさに目前にしたのである

大川を渡った飯寺本光寺に「長岡藩士殉節之碑」がある

長岡藩士殉節之碑(2015.07/29)
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2015.07/29(WED)

河瀬重則墓 会津若松市門田町大字飯寺字村西674





 門田町飯寺 本光寺
無縁戦死供養>(2015.07/29)
長岡藩士殉節之碑>(2015.07/29)

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写真;2015.07/28

河瀬重則墓
河瀬重次郎 ;会津藩/幌役/明治元年八月二十九日若松融通寺町で傷、御山で死
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

※ この墓碑は、本光寺旧墓域「長岡藩士殉節之碑」の区画内にある
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2015.07/29(WED)

無縁戦死供養 会津若松市門田町大字飯寺字村西674




門田町飯寺 本光寺
河瀬重則墓(2015.07/29)
長岡藩士殉節之碑>(2015.07/29)

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写真;2015.07/28

無縁戦死供養
飯寺で戦死した長岡藩四十四名の供養塔

山本帯刀 義路 ;渡辺渡の子、山本勘右衛門の養子/千三百石、執政/号竹塘/明治元年大隊長として戦/九月八日会津飯寺で捕、斬/二十四歳/会津若松市・本光寺に墓
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--

※ 昭和三十一年十月、新たに「長岡藩士殉節之碑」が建立されたが、以前にあったのがこの無縁戦死供養塔か?

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写真;「長岡藩士之墓入口」の標石 2015.07/28
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六道辻「戊辰役戦士墓」(2012.08/14)



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2015.07/29(WED)

長岡藩士殉節之碑 会津若松市門田町大字飯寺字村西674




門田町飯寺 本光寺
河瀬重則墓(2015.07/29)
無縁戦死供養>(2015.07/29)

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写真;2015.07/28
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殉節越後長岡藩士の碑

明治元年戊辰戰役の際越後長岡藩士山本帯刀隊長外に四十三名が八十里越の難関を越えて会津鶴ヶ城下に至り九月八日未明に会津藩士四百余人と協力力戰苦闘一旦西軍を潰走させたが濃霧の爲飯寺河原に於て孤立敵の重囲に陥り遂に全員戰死されたのである
後日飯寺村民の手により供養の碑が建てられ厚い法要が営まれた
昭和三十一年十月会津史談会並に有志の篤志により新に殉節の碑が建立され昭和三十四年九月長岡藩士弔霊会(昭和三十八年八月長岡藩士殉節顕彰会と改名)を設立し爾来毎年法要が営まれている
     昭和三十八年九月二十三日
     長岡藩士殉節顕彰会

町野主水家墓所(2015.05/01)

     *

飯寺村殉節の長岡藩士の氏名

  山本帯刀    渡辺豹吉    新与源治    倉沢弥五兵衛
  雨宮敬一郎   稲垣喜助    増井弥兵    長沢金太郎
  篠崎繁右衛門  中島富弥    松井松五郎   鳥居留五郎
  神戸菊五郎   能勢彦太郎   中川音三郎   寺田喜左衛鉄
  本木小太郎   水戸九郎左衛門 山本慶山    篠田愛作
  高橋辰蔵    岡本甚十郎   安田代太郎   丸山菊五郎
  千本木林吉   渡辺三平    佐藤伊之七   佐藤正吾
  長島兵八    室橋政七    長沢虎市    田島十次郎
  内藤作之助   高橋彦右衛門  永相亀次郎   川趣辰次
  大平李之助   久保曾左衛門  阿部弥龍太   吉田充太郎
  山口辰次郎   大宮兵太    八木藤太    長沢亀之丞
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※ 長岡藩士殉節之碑等は本光寺の旧墓域(かな?本光寺駐車場から歩いて2,3分のとこ)にある

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写真;本光寺 2015.07/28

六道辻「戊辰役戦士墓」(2012.08/14)



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2015.07/28(TUE)

白鳳山公園 会津美里町字船場
向羽黒山城跡(旧大沼郡本郷町)




向羽黒山城ニの曲輪跡(2015.08/02)
岩崎山弁天神社/御水神社(2015.08/02)

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写真↑;死節碑 2015.07/28

死節碑(別楯隊寄合萱野隊の死節碑)
萱野隊の生存者によって、明治28年(1895)8月に建立された
題字は松平容大公、碑文は南摩綱紀。裏面には萱野隊の戦死者6名と生存者30名の名が刻まれている

 佐藤政治  五石二人扶持/会所次番格/萱野隊/明治元年七月二十七日越後草生水で戦死/二十二歳
 小川勇之助 四石二人扶持/別楯隊寄合萱野右兵衛隊/明治元年八月一日越後草生水で戦死/十九歳
 岸 清兵衛 五石二人扶持/新領別楯隊寄合組萱野隊/明治元年八月一日越後赤坂山で戦死/五十五歳
 栗木惣吾  四石二人扶持/萱野右兵衛隊/明治元年八月一日越後赤坂山で戦死/三十七歳
 新藤仲節  五石二人扶持/別楯隊寄合萱野隊/明治元年八月一日越後草生水で戦死
 遠藤虎之助 五石二人扶持/明治元年八月一日越後石間口で傷、二十四日中村で死/四十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
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写真↑;明治戊辰戦役萱野隊記念碑 2015.07/28

明治戊辰戦役萱野隊記念碑
 本郷焼に従事していた者など三十六名が志願して参加した。萱野右兵衛は越後口総督一瀬要人の配下、番頭隊長として越後戦線で戦うが、この本郷志願兵は萱野右兵衛隊寄合組に属した
慶応 4年(1868) 3月12日
 本郷志願兵三十六名を含めた萱野右兵衛隊寄合組二百五十名は若松を出立し、14日に水原陣屋に布陣。その後、榎峠の戦いなどで奮戦、終戦まで各地を転戦して六名の戦死者を出した
 この碑は、昭和32年(1957)9月24日、戊辰戦役90年祭の際に子孫により寄進された
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写真↑;萱野隊長之碑 2015.07/28

萱野隊長之碑
 大正6年(1917)、死節碑を移築する際、戊辰戦争で萱野隊々士であった陶工たちが隊長萱野右兵衛を偲び建立した
     *
萱野右兵衛
1840~1872年/家禄五百石
〈戊辰戦争〉
 物頭、町奉行、番頭を歴任したのち、戊辰戦争では、会津本郷の陶工達を率いて、越後水原奉行を兼ね越後戦争に活躍する
 7月24日に三条にて行われた会津方諸藩士戦死者の追善供養弔が会津藩主催によって行われ、その際右兵衛は城主名代として出席している。
〈戊辰戦争後〉
 敗戦後高田に謹慎1720人の旧藩士を藩老格として統括し、また、斗南への移住の責任者として尽力するが、のち越後戦争を共に闘った陶工達からの招きで本郷に移住し、陶土を砕く萱野水車を造り業とした
 惜しむらく享年33歳(病死)
 隊士思いで民にも親身に接したことから水原の民や、部下から慕われた
--引用・要約;「幕末維新人名事典」新人物往来社--

※ これら三つの碑は白鳳山公園の麓附近「かんのん坂」を登って2,3分のところにある



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2015.07/25(SAT)

徳川義臣傳 近代デジタルライブラリー
永井玄蕃




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明治/戰記 徳川義臣傳 岡田霞船編・金松堂、1883

 明治十六年 十月三日 出版御届
 同    十一月   出版
 編輯人  東京府平民 岡田良策/淺草區淺草西三筋町三十四番地
 出版人  東京府平民 辻岡文吉/日本橋區横山町三丁目二番地
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永井玄蕃
[近代デジタルライブラリー]徳川義臣傳・甲、コマ番号〈7/31〉(引用)

永井玄蕃ハ幕臣にして尤も強勇の聞あり榎本以下の人々と共ニ品川沖より軍艦に乗じ直ちニ函館に走り上陸ニ及んで江刺を攻て破り又松前城をも乗取大ひニ勢を得てより榎本を総裁と為し其身も又副総裁を兼て遂ニ五稜郭をも陥れます/\官軍と相戦ひ頗る両軍に其名を知らる海陸の兵大擧して悉く脱兵の得る處となる其後諸士ニ代り降伏す

飛ちがふ弾丸の日毎にたへぬより今に小鳥の陰さへも見す

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ながい なおゆき
永井尚志
文化13年(1816)11月 3日
 三河奥殿藩の第五代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれ、幼名を岩之丞、号を介堂といった。25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となる
嘉永 6年(1853)
 目付として幕府から登用される
安政元年(1854)
 長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手する
安政 5年(1858)
 岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられ、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した
文久 2年(1862)
 京都町奉行として復帰
元治元年(1864)
 大目付となる
文久 3年(1863)の八月十八日の政変、
元治元年(1864) 7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷との交渉にあたる
慶応 3年(1867)
 若年寄となり大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷地へ向かって箱館奉行となり、新政府軍と戦った。しかし、敗れて榎本と共に自決しようとしたが、周囲に止められて降伏した
明治 5年(1872)
 明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、
明治 8年(1875)
 元老院権大書記官に任じられた
明治24年(1891)7月1日
 死去した。享年76
     *
※ 幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた
※ 長崎海軍伝習所では、勝麟太郎、矢田堀鴻、木下利義、榎本釜次郎、肥田浜五郎、他数十人を教えた
※ 戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである
※ 戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った
※ 養子である永井岩之丞の長女・夏子は内務官僚の平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が作家の三島由紀夫で、尚志は三島の養高祖父にあたる
--引用・要約;「永井尚志」『フリー百科事典・ウィキペディア日本語版』2014.11/03(月)08:25--
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箱館戦争 1/2(2014.10/07)
箱館戦争 2/2(2014.10/08)

〈徳川義臣傳〉
大鳥圭介(2014.06/08)
秋月登之助(2014.06/10)
松平太郎(2014.06/13)
松平肥後守(2014.07/23)
松平越中守(2014.08/31)
丹羽左京太夫(2014.08/31)
牧野越中守(2014.09/01)
板倉伊賀守(2014.11/22)
土方歳三(2014.11/23)
榎本和泉守(2014.11/25)
大久保一翁(2015.07/24)
勝安房守(2015.07/25)
永井玄蕃(2015.07/25)


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