<   2015年 04月 ( 19 )   > この月の画像一覧

2015.04/30(THU)

近藤勇藤原昌宜之墓 会津若松市東山町石山字天寧208・天寧寺




c0185705_15395190.jpg

写真;2015.04/28
※ 向って右は土方歳三の慰霊碑
--------------------
以下、現地の案内板から

近藤勇藤原昌宜之墓

 天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の郷士宮川久次郎の三男として生る。幼名を勝太と謂う、自宅に道場を構え十五才にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郊に名を馳せた
 師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七才の時養嗣子として迎える。元服して名を勇と改め剣理を極め後試衛館を継ぐ、塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後京に上り新選組の母体となった。新撰組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。中でも最も著名なものは新選組最盛期の池田屋騒動である。長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新選組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった
 新選組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前の利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷干城の厳命により辞世二詩を遺して斬首の刑に処せられた
 会津守護職の直属であった新選組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている
     一九七七年十月
     会津若松ライオンズクラブ
     *
参考資料 会津の他の墓所在地
     東京都板橋区東口駅前(処刑の地)
       近藤勇昌宜・土方歳三義豊の墓
     愛知県岡崎市本宿法蔵寺(首塚)
       貫天院殿純義誠忠居士
     三鷹市大沢竜源寺(首から下)
--------------------
近藤勇之墓

 新選組隊長近藤勇は、戊辰の役で奮戦中千葉で力つきついに薩長の手に捕えられ、首をはねられました
 遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた。しかし何者かが持ち去りこの地に埋めたと言われる。このお墓は、會津藩の手によって建立されたが、それは會津藩主容保公が京都守護職中、新選組はその支配下にあり、挺身幕府のために力をつくした
 また、土方歳三など一行が會津に来て、戦闘に参加した際この墓を参詣したと伝えられる
 墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている
 毎春4月25日の命日には、墓前祭が執り行われている
     萬松山 天寧寺

c0185705_15463315.jpg


郡 長正之墓(2015.04/29)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/30(THU)

上杉家廟所 米沢市御廟1丁目5-30




c0185705_1523896.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
以下、現地の案内板から

上杉家廟所

 上杉家歴代藩主の廟所で、藩祖謙信公の閟宮を中央にして、両側に12代までの藩主の廟が並んでいます。廟は、2代から8代までは社造りで、材質もケヤキを用い、柱は丸柱となっています。9代から12代までの廟は、10代藩主鷹山公の考案による宝形造りで、材質もスギやヒノキを用い、柱は角柱と簡素になり、藩の財政事情がうかがわれます
 謙信公の遺骸は、甲冑をつけカメに納められ、越後春日山(現新潟県上越市)から会津(現福島県会津若松市)を経て米沢城へ移され、明治9年に現在の場所に移葬されました
 昭和59年(一九八四)1月「米沢藩主上杉家墓所」として、国指定史跡となった

↓二代 景勝公
c0185705_15172160.jpg


     *

米沢藩主上杉家墓所

 歴代の米沢藩主の墓所で、杉木立の中に整然と廟屋が並び、市民からは御廟所あるいは御霊屋と呼ばれている
 中央正面奥が戦国時代の名将上杉謙信公の廟で、上杉家の移封に伴い、越後春日から会津若松へ、そして一六〇一年、米沢城本丸へ移された。さらに明治九年にこの地に移葬され、墓所全体が現在のように整備された
 謙信公の廟屋の向かって左が上杉家二代(初代米沢藩主)景勝公の廟。元和九年(一六二三)に景勝公が死去すると、火葬に付され遺骨の大部分は高野山に納められ、この地には分骨という形で遺灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋造りの廟屋を建てた。以後、八代宗房公まで同じ形式で左右交互に廟が造られた
寛政六年(一七九四)、世子(次期藩主)の顕孝公(鷹山公の長男)が十九歳で急死した際、火葬から土葬に改められた。廟屋は宝形造りとなり、以後九代重定公から十二代斉定公まで土葬が続いた

              □
              初
    □
  □ 世 □ □ □ □ ・ □ 代 □ □ □ □ □
  十 子 十 八 六 四 十 二  三 五 七 九 十
  二        四  謙       一
  代 顕 代 代 代 代 代 代 信 代 代 代 代 代
    孝          公
  斉 公 治 宗 吉 綱 茂 景 ・ 定 綱 宗 重 治
  定  憲 房 憲 勝 憲 勝 輝 勝 憲 憲 定 広
  公  公 公 公 公 公 公 虎 公 公 公 公 公
     ・     記  公
     鷹     念
     山     碑
     公

 この荘厳な廟所は、東西一一〇メートル、南北一八〇メートルで、樹齢四百年を越す老杉があり、近世大名墓所の代表例として昭和五十九年に国の重要な史跡に指定され、平成六年から同二十年にかけ保存修理工事が行なわれた
     米沢市
--------------------
c0185705_15175857.jpg




■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/30(THU)

甘糟備後守影継の墓 米沢市林泉寺1丁目2-3・林泉寺




c0185705_13473060.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
以下、現地の案内板から
あまかすびんごのかみかげつな
甘糟備後守影継の墓
 甘糟影継は、上杉謙信・景勝に仕えた剛勇で名高き武将。越後上田長尾の家臣登坂清高の嫡男であるが、謙信の命により甘糟家を相続した
 景勝の重臣として、越後の護摩堂城・五泉城、庄内酒田城の城主となり、慶長三年(一五九八)には白石城(宮城県)の城主に任じられる
 気骨稜々たる武将であったが、慶長十六年(一六一一)逝去、享年六十二
     米沢市
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/30(THU)

直江兼続夫婦の墓 米沢市林泉寺1丁目2-3・林泉寺





c0185705_11463449.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
以下、現地の案内板から

山形県指定文化財
直江兼続夫婦の墓
     昭和二十七年四月一日 指定
     所在地 米沢市林泉寺

 米沢藩の基礎を築いた直江兼続とその妻お船の墓。五輪塔を覆う万年堂(塔)の正面にくりぬいた亀甲形は、直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象っている
 直江兼続(一五六〇~一六一九)は、上杉家の重臣として生涯景勝を補佐し、米沢移封後は、城下の整備はもとより、藩政全般にわたって偉大な足跡を刻んだ。元和五年、六〇歳で江戸屋敷にて死去し、米沢徳昌寺に葬られた。寛永一四年に亡くなったお船(一五五七~一六三七)も同寺に葬られたが、後に双方とも林泉寺に改葬された
     米沢市教育委員会
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/30(THU)

北越戦争忠士墓 米沢市林泉寺1丁目2-3・林泉寺




招魂碑(2015.04/28)

c0185705_15265885.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
戊辰戦争
北越戦争忠士墓
主に新潟方面で西軍と戦った米沢藩士は、藩軍総督色部長門をはじめとして二百八十余名が戦死したが、これはその遺髪を埋めた合葬墓だそうである

色部長門 長久
篤長の長男/千六百六十六石、家老格/明治元年五月藩軍総督として新潟に拠り、七月二十九日西軍の攻撃に寄居浜金鉢山で自刃/四十四歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------
与板攻防戦(2015.03/30)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/30(THU)

黒金武五郎墓 米沢市林泉寺1丁目・林泉寺




招魂碑(2015.04/28)

c0185705_15304032.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
戊辰戦争
黒金武五郎 泰之
米沢藩/明治元年六月十九日越後大口村で戦死/二十一歳
--引用;幕末維新全殉難者名鑑--
--------------------
春日山林泉寺
c0185705_15313624.jpg

以下、同寺リーフレットから

沿革
 明応五年(一四九六)、越後守護代の長尾能景が、亡父重景の遺徳を後世に伝えようと、蜂が峰(上越市春日山)の麓に開基建立した、曹洞宗の禅刹である
 寺号の林泉寺は、重景の法名(林泉寺殿實渓正真大居士)によるものである。また山号は、開基家三代目の景虎(謙信)が、関東管領の上杉氏を相続した折、その氏神春日大明神を鎮守として勧請したことによる
 開創時、長尾氏の菩提寺であった林泉寺は、開基家三代目景虎が上杉を受け継いだことで、以降、上杉氏の菩提寺となった。やがて、謙信の後嗣景勝の代になると、慶長三年(一五九八)に秀吉によって会津一二〇万石へ、同六年には家康によって米沢三〇万石へ次々に転減封されたことで、林泉寺も元和三年(一六一七)、十四世万安大悦の時に、会津を経て現在地に移転建立された …
〈以下省略〉



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/29(WED)

郡 長正之墓 会津若松市東山町石山・天寧寺




c0185705_15561850.jpg

写真;2015.04/28
--------------------
以下、現地の案内碑から

 会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移ったが、嘉明の嫡子明成が石見に減封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て入府した保科正之に召しかかえられた。長則は寛文六年(一六六六)八十余歳で没しここ天寧寺に葬られた。子孫も代々会津藩の興隆に尽し、天寧寺が萱野家の菩提寺となった
 特筆すべきは九代権兵衛長修とその二男長正である。長修は、あの凄惨を極めた戊辰戦争の全責任を一身に負い藩公と全藩士に代わり、明治二年五月十八日、江戸の飯野藩邸において従容として切腹した。享年四十二歳、知行千五百石の家老であった。郡長正は戊辰戦争後の明治三年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年七名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学した。長正は最年少ながら文武ともに秀でていたが、とある事情により会津武士道を汚したとして明治四年五月一日、異郷の地において自刃して果てた。時に齢十六歳であった。小笠原藩は長正の死を悼み会津の方角に向けて墓を立てその霊を弔った。育徳館の後身である福岡県立豊津高等学校は昭和三十一年十月、会津の石二基を配した郡長正記念庭園を校内に築造し、今日においても郡長正精神を顕彰している。以って全国高校教育の範とすべきである。豊津町では毎年命日に当たる五月一日に郡長正墓前祭を盛大に挙行しており、会津士魂会としても感謝に堪えない
ここに会津士魂会は、東京都在住の篤志家、天生目(法姓平子)義清氏の御芳志と会津士魂の伝授の心に誠意を捧げて、観世音菩薩像を建立し、萱野家ご一同に対し深甚なる敬意を払い、その霊を祀る次第である
     平成十五年五月十八日
     会津士魂会
--------------------
近藤勇藤原昌宜之墓(2015.04/30)



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/29(WED)

米沢城 米沢市・米沢城址(上杉神社)




c0185705_1231510.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
以下、現地の案内板から

米沢城

 伊達氏・上杉氏の居城で、松岬城・舞鶴城とも呼ばれる
 米沢城の起源は、鎌倉時代に地頭・長井時広が居館を置いたと伝えられる。その後、長井氏に替わり伊達氏が置賜地方を領し、天文十七年(一五四八)には伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗・政宗の三代で米沢城下が整備された
 天正十九年(一五九一)、政宗は豊臣秀吉の命で岩出山城に移り、米沢城には蒲生氏郷の家臣・蒲生郷安が入るが、慶長三年(一五九八)に上杉景勝が会津一二〇万石に入封、米沢城には重臣・直江兼続が配された
 慶長六年(一六〇一)、前年の関ヶ原の戦いで西軍方についた上杉景勝が米沢三〇万石に減封され米沢城に入城、城下の拡張整備に着手した。以後、寛文四年(一六六四)に後継問題で米沢藩は一五万石となるが、米沢城は約二七〇年間にわたり上杉氏十三代の居城として明治維新を迎えた
 城郭は平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式の縄張りで、三の丸の東側には町人町・職人町が置かれた。本丸の中央は藩主の住む御殿があり、南東隅の高台には上杉謙信の遺骸を祀る御堂が建ち、北東と北西の隅には三層の隅櫓があった
 明治になって御殿や隅櫓は取り壊され、本丸跡は松が岬公園と上杉謙信を祭る上杉神社となる。堀と土塁が往時を偲ばせ、堀の周囲には桜の木が並び桜の名所ともなっている

     *

米沢城ゆかりの戦国武将

伊達政宗(一五六七~一六三六)
 仙台藩六二万石の基礎を築いた戦国武将。永禄十年に米沢城で生まれ、十八歳で家督。幼名は梵天丸で、「独眼竜」とも称された。会津の芦名氏等を破り領地を広げるが、政宗二十五歳の天正十九年に豊臣秀吉によって岩出山城に移される。その後、本拠を仙台城に移し仙台藩の基礎を築く。寛永十三年に江戸で死去、享年七十であった
直江兼続(一五六〇~一六一九)
 上杉景勝を支えた知将。樋口惣右衛門の長男として坂戸城下に生まれ、景勝の近習に選ばれる。その後、重臣・直江家を継いで上杉家の中枢として景勝を支えた。米沢三〇万石へ移封後は、町割りや堤防・水路の整備、鉄砲鍛冶の招聘、学問所「禅林文庫」の開設など、城下町米沢の基盤を築く。元和五年に江戸で死去、享年六〇であった。林泉寺に兼続夫妻の墓がある
上杉景勝(一五五五~一六二三)
 米沢藩の初代藩主。坂戸城(新潟県南魚沼市)に生まれ、叔父上杉謙信の養子となる。謙信死後の家督争いに勝利し越後を統一。豊臣秀吉の命で会津一二〇万石に移り五大老となるが、秀吉死後に徳川家康と対立、関ヶ原の戦いの後に米沢三〇万石へ移封となる。以後、重臣直江兼続に命じ、米沢城下の整備や政治体制の確立など米沢藩の基礎を築く。元和九年に米沢城で死去、享年六九であった
--------------------
c0185705_12314639.jpg

以下、現地の案内板から

上杉神社御由緒
   御祭神 上杉謙信公
天正六年(一五七八)三月十三日、戦国の名将上杉謙信公が越後の春日山城に四十九才で急逝された時、その遺骸を城中不識庵に仏式を以て鎮祭されたのであるが、二代景勝公が会津を経て米沢に移封されるに当り、祠堂を米沢城内に移して仏祭を厳修し爾来二百六十年に及んだ
明治の世を迎え祠堂のまま神祭に改め、米沢藩中興の名君鷹山公を合祀して上杉神社と称し県社に列し、同九年には新たに神殿成り初めて遷座祭を行なう。明治三十五年、往時の勤王の功により別格官弊社に列せられたが(鷹山公は新たに摂社として松岬神社を創立して正面濠の外に鎮座)先年の神社制度の改革によって社格を廃して現在に至る
大正八年米沢市の大火後同十二年米沢出身建築界の泰斗伊東忠太博士の設計により現在の神殿を始め一切を竣成したのである。境内は旧米沢城址本丸跡で例祭は四月二十九日(没年三月十三日を太陽暦に換算)
     上杉神社社務所



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/29(WED)

上杉謙信祠堂(御堂) 米沢市・米沢城址(上杉神社)




c0185705_831337.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
以下、現地の案内板から
うえすぎけんしんしどう              みどう
上杉謙信祠堂(御堂)

 江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂(祠堂)が建っていた場所である
 謙信は天正六年(一五七八)三月十三日、越後春日山城で逝去、享年四十九であった。その遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉したと言われている
 その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津一二〇万石、米沢三〇万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した
 謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた
 明治四年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は、同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された
     米沢市
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]
2015.04/29(WED)

従三位上杉曦山公之碑 米沢市・米沢城址(上杉神社)





c0185705_72187.jpg

写真;2015.04/27
--------------------
以下、現地の案内板から
じゅさんみうえすぎぎざんこう
従三位上杉曦山公之碑
  題字は陸軍大将有栖川宮熾仁親王の書
  石碑裏の文は伯爵勝安房(号海舟)の撰による

曦山公とは上杉家十三代斉憲の号、文政三年(一八二〇)五月十日生、天保十年(一八三九)四月家督、戊辰戦の責により明治元年(一八六八)十二月隠居、明治二十二年(一八八九)五月二十日東京にて薨去享年七十才
その間ペリー来航尊皇攘夷、奥羽越列藩同盟
明治維新、版籍奉還と波乱万丈の時代を逞しく生きられ明治以降の諸功績により従三位に任じられる
明治二十四年(一八九一)公を慕う旧藩士によりこの碑が建立された

 九月二十五日毎年碑前祭を挙行する
     贈 神社有志
--------------------



■ リンク
・so-netブログ;只今出掛ケテ居リマス

[PR]